act.66  壁


 水面をすべるように移動した豪華客船クイーン・ロザンナ号は、神業ともいえる速さで水路を見張る猛者たち――ニュードル水上警備隊西南支部が作った水門を軽くひとっ飛びし、腰を抜かす彼らを尻目にニュードル領土へと侵入した。
 すでに、常識の範疇を超えている。
「神か魔物がついてるのか? それとも魔術か?」
 甲板から身を乗り出しても船体に翼など見えない。しかし碇があがってからずっと、船は鳥も青くなりそうな低空飛行を続けている。エリオットはようやく余裕を取り戻し、計器を操る二人の男に顔を向けた。
「アルバ神が行けって言うから」
 ノッポが答える。
「こっちにこれだけ力使ったら、向こうにゃほとんど残ってないんじゃねェのか? 神様ってのは器用だな」
 続けたのは髭面の小男だ。どちらの意見も、エリオットには理解できない。だた、この異常事態がどう考えても人為的なものでないことだけは判断できた。
「どのくらいで着くんだ?」
「んー、どのくらいだろうな、トム」
「見りゃわかるだろ、ジョニー」
 そう言って小男が顎をしゃくるとはるか前方に赤く染まった森が見えた。船上は気味が悪いから早く降りたいのだが、しかし、あそこまで赤々とした森の中に入りたいとは思えない。
 エリオットは顔を歪めながらトムとジョニーを見た。
「リンゴ、一段と実ってるな」
「なんかおかしくないか?」
「本当だ。ここまで匂う」
 芳醇な香りは臭気に近い。しかし、眉をしかめただけで船体が止まる気配はなかった。向かうのか、とエリオットは大げさなほど落胆する。本来の目的よりも目の前の異変に対する警戒心のほうが勝っているらしい。
「魔術師、ヤバくないか?」
 ジョニーが小首を傾げるとトムがレバーのひとつを押し上げた。船体が大きく揺れるとともに、クイーン・ロザンナ号がさらに加速する。
「なんっで浮いてるのに計器で加速するんだ!」
「そりゃ、気合だろ」
 悲鳴のようなエリオットの声にトムがさらりと言葉を返す。甲板から飛び降りたいような心情ではあるが、高度と速度を考えたら、まず間違いなく命を落とす。
 こんな無茶な話があるかと叫びたいがまともに言葉すら出ない。やがて船は減速して水面に付き、器用に川辺へと船体を寄せた。
 もうこれ以上は行きたくないと思いながらも、魔術師の老人の行方が気になったエリオットは先に船をおりたトムとジョニーに続いた。むせ返る芳香が目にしみるほどだ。三人は一瞬息を止め、それから少しずつ甘い空気を吸い込んだ。
「トム」
「ああ、こりゃ本当におかしいな」
 小男は辺りを見渡してから草がわずかに後退している道を歩き出した。
「こっちなのか?」
「さぁ」
「でもなんかこっちっぽいんだよな」
「そうそうこっちっぽい」
 いい加減なその返答にエリオットは頭を抱える。
 状況がさっぱり理解できないが、何かの現象がここに――むしろ、どこにでも転がっていそうな二人の男自身に起こっているのはわかる。おそらく今足を踏み入れているのは人がおかしてはならない神の領域だ。
 ゴクリと唾を飲み込むと前を行く二人が足を止める。立ち並ぶ木々の間には道などない。だが、二人ともが同じ方向をじっと睨むように見ていた。
「今度は何だ?」
 どこまでも続くリンゴの木々はまるで壁のように見える。だが、変哲があるようには思えなかった。
「人がいる」
「本当だ。……あれって、まさか」
「……ど、どうするトム」
「ほっとくわきゃいかねーだろ」
「だけどよぉ」
「ほら、行けって言ってる」
「でもよぉ」
「行くぞ」
 渋るジョニーの腕を掴んでトムが密林ともいえる森の中に足を踏み入れた。一体何とどんな会話を交わしているのか――エリオットは獣道へ視線をやってから、木々の間を歩いていく二人に付いて行く。なんとなく目的地からはずれていくような気もしたが、一人で歩けば迷うような予感がした。
 二人は草を踏みならしながら前進した。そして、ふっと立ち止まる。
 どうしたんだと問おうとして、エリオットは言葉を飲み込んだ。目の前には相変わらずリンゴの木が生い茂っている。空を完全に覆うように広がる木々も、太い幹も延々と言ってもいいほど続いていた。
「なにか……」
 思わずうめくと、トムとジョニーは振り返る。
「わかるのか?」
 どこか感心したような響きだ。
「ここに壁があるんだ。これ、魔術師が作った結界だな。余計なヤツは近づけたくないらしい」
 トムが手をかざす。
「けどよぉ、なにも、閉じ込めることないよな」
 ジョニーが不満げな声を発した。向ける視線の先には何もない。何もないのだが、ひどく嫌な感じがする。目を凝らしているとトムが手を伸ばし、その手から空間に波紋のようなものが広がって瞬く間に消失した。
 エリオットは目を見開く。
 何かがあるのだ。小男が触れているその場所に。
「……壁」
 小さくうめいた直後、トムはジョニーに目配せする。ジョニーは躊躇いはしたものの素直に手をかざした。
 両手をかざした二人は、まるでそこに何かがあるように力を込めた。同時に、ピシリと硬質な音がエリオットの耳に届く。息を飲んだ次の瞬間には、ガラスが砕けるような音が森中を駆け抜けた。
 嫌な気配が消えている。それに素直に驚いていると、それ以上に驚く光景が目の前に広がっていた。
 鬱蒼と木々の生い茂る森に、どうしてその格好で来たんだと呆れるほど派手な服を身にまとった小太りの男と、どこか神経質そうな男が唖然と立ち尽くしていた。どこかで見たような、と考えた次の瞬間には膝を折っていた。
 肖像画で何度も見た。それは彼の母親の婚礼道具の中に紛れ込んでいたものだ。
「お前たちは……」
 派手な格好をした男が目を丸くする。エリオットに遅れをとりながらもトムとジョニーは膝を折った。
「ご、ご無事で何よりです、こ、こ、国王……陛下……ッ」
 さすがに見捨てるわけにはいかない相手であるが、いざ目の前にすると緊張で声が裏返る。クラウス王子は慣れているが、それ以外の王族には一切面識がない従者二人はニュードル国王を目の前にしてようやく滝のような汗をかいた。
「確か、クラウスの……」
「従者の、と、トムと」
「じょ、ジョニーであります」
 言葉遣いも怪しくなりながら、二人は低頭し続ける。ジルはふむ、と言葉を発してから辺りを見渡した。
「どうやら助けられたようだな。……その者は?」
 従者二人より幾分離れたところにいる見知らぬ男に視線を向ける。しまった、という二人の焦りの空気を感じながらエリオットは顔をあげた。
「ルーゼンベルグの第四支部隊隊長、エリオット・ティネーゼです」
 過去に王都と呼ばれた国の兵士は、今なお繁栄を続ける大国の王に偽ることなく簡潔に述べる。敵対こそすることはないが、お互いが警戒しあっていることは承知の上だった。
 剣を抜かれても仕方がないと半ばあきらめていると、ジルは目を見張ってから考えるように見事に禿げ上がった頭をさすった。
 張り詰めるような沈黙の中、ジルはポンと軽く手を打つ。
「おお、思い出した。母上はご健在か?」
「は? はい、田舎で針子の真似事をして評判だと……」
「そうかそうか。姉上の長女は手先が器用と聞いておったが」
「陛下」
 背後からの声に、ジルは怪訝な顔で振り返る。
「なんじゃ、アントニオ」
「話が見えません」
「……ああ、ほれ、オリヴィエの娘」
「オリヴィエ様とおっしゃると、七番目の姉君?」
「二番目じゃよ。娘は五人おってな、これが気性の荒い娘ばかりで、確か長女はルーゼンベルグに嫁いだとワシのところに怒鳴り込んできた。王家の血を継ぐ者だったとか」
 ジルはアントニオに向けていた視線をエリオットに向ける。
「血と言っても遠縁です。ただ、トゥエル様には……ルーゼンベルグの王には、よくしていただいています」
 甲冑も魔獣も手元にはないが、それらはトゥエルから直に手渡されていたものだ。結果的に派手な服を着て、しかもニュードル王の御前にいるのだから笑うに笑えない。
 エリオットが複雑な表情で溜め息をつくと意外そうな顔でトムとジョニーが振り返った。これで出世はないとあきらめたように力なく笑う。そんなエリオットを見て、トムとジョニーはなぜか頷きあった。
「陛下」
 切迫した声にジルはトムを見る。
「ニュードルにお戻りください。少し……その、空が荒れそうなので」
 言葉にジルは細い瞳をさらに細める。一呼吸あけて彼は背後を見た。
「ワシはここに住む魔術師に用がある。用が済んだら帰るとしよう」
「で、でも、国王様……!」
「ジョニー、いいから」
「でも、トム」
 息をのんでトムは立ち上がる。どこか青ざめたような顔で歩き始め、トムはジルに深々と頭をさげた。
「魔術師は、たぶん……」
 ふっと、血臭が漂ってきた。トムが歩いて行く先に、小さな一軒の小屋が見えた。いままで散々ここを歩き回っていたジルとアントニオは互いの顔を見合わせる。
 人知を超える何かがこの場に働いていたのだろう。そう考えるしかなかった。
 まるで雲が晴れるように道が拓ける。一同がトムのあとについていくと、芳香の中に強烈な血のにおいが混じった。
「これは」
 ジルが一瞬足を止めた。小屋の隙間が赤黒く染まっていた。
「絶対表に出ちゃいけない歴史が動いています。オレたちは、その濁流の中にいる」
 皮手袋のようにゴツゴツした手がノブを握る。ゆっくりと開いたドアの向こうは赤黒く染まり、血臭は異様な濃度を以って空気を塗り替えていった。
 上から白い固形物が落ち、赤い水滴を撒き散らしながら床に張り付く。奇妙な声をあげてアントニオが口を押さえ木の影へと走っていった。脳裏に焼きつくような強烈な光景――白く濁った眼球が一つ、テーブルの上に丁寧に花を添えて置かれていた。
 そこは、混沌とした死のにおいだけが満ちていた。
「神様は、オレたちが思っている以上に残酷かもしれない」


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