act.65  世界


 老人は黒衣を引きずりながら扉をくぐり抜け、窓の外のざわめく森に視線をやった。少し離れていたすきに動きがあったことを悟り、彼は低い椅子に歩み寄ってゆっくりと腰をおろしテーブルの上の水晶を見た。
 水晶を引き寄せると、そこにはたった今見ていた密林が映っている。一年を通して白い花が咲き乱れ、真っ赤な果実をたわわに実らせる森だ。
 まるで豊穣の女神の恩恵を受けるかのようなその光景は、しかしその実、異様な魔力の垂れ流しによる変異でもある。
 枯れ枝のような指が水晶を撫でると、密林の中に小太りの男が現れる。
「ニュードル国王、ジル・ヴァルマー」
 フードをわずかに持ち上げて意外なその名をギニアがつぶやく。放蕩息子であるクラウスは暇を見ては顔を出していたが、一国の王御自ら広大な領地の一角に過ぎないこの場所にわざわざ足を運ぶなど思いもよらなかったのだ。
 目的はわからないが、目的地など容易に想像がつく。
 彼が足を踏み入れたりんご畑にはギニアの住む小屋しか存在しないのだ。素直に通してやろうかとも思ったが、ギニアは魔力を注いで小さな迷宮をそこに作り出した。
 うまく迷宮を抜け出せなければ、あそこに永久に葬られることのない哀れな髑髏が転がるだけだ。さほど問題はなかった。
 ギニアは水晶に手をかざす。その上で大きく手を返すとアルバ神をその身に宿す少年の姿が現れた。
「ほう、オデオの逆鱗に触れた者がいるか」
 小さく揺れる小船の上には四人乗っていた。よどんだ空気はかろうじて封じられているが、それでもその歪みは手に取るようにわかる。
 ギニアは船上を注視し、そしてほんの少しだけ驚きの表情を浮かべた。
「クラウス王子」
 心臓の真上に異様な気の流れがある。細胞を蝕んでいくであろうそれは、魔術とは異なり呪術≠ニ呼ばれるべきものだ。
 確かにオデオ神を掌中にしろと告げたが、本当に言われたとおりに一線に出ているとは思わなかった。残念なことに身近にいるのはアルバ神で、クラウス自身はオデオ神の呪いをかけられてはいるが、この状況を差し引いてなおその行動力は賞賛に値する。
「死ぬには惜しい男だったか」
 小さくそうこぼす。神がかけた呪いは簡単に解けるものではなく、現状が長く続くものでもない。そう思って眺めている途中、ギニアはふとした疑問にぶち当たった。
 アルバ神の力でなら、あるいはあの呪印を取り除けるかもしれない。しかし、命の重みを知る神は、ただいたずらにその印の効力を和らげるに留まっている。
 ギニアは水晶を覗き込むように顔を近づけた。
「……力の欠如か?」
 疑問を言葉にして彼が再びその手を水晶にかざした。
 次に映し出されたのは古びてはいるが手の行き届いた屋敷の一室で、そこには整った顔の少年がいた。
 オデオ神をその身に降ろした少年――そうギニアの記憶にあった。しかし、気配がまったく違う。そこに宿るのは清涼とした大気と柔らかく慈愛に満ちた気配であり、それは破壊神と呼ばれた太古の神が決して持ち得なかったものだ。
「馬鹿な」
 低くうめいた。実体を持たなかった彼女≠ヘ、確かに依代となる者を得れば現世に再び降臨することができる。だが、それは望まなかったはずだ。過去にただの一度も、彼女は公に現れて世界に干渉などしなかった。
 願えば四肢を取り戻し、自由になれたにもかかわらず。
「なぜ今頃になって」
 震える声には絶望の色がにじむ。これほど容易に降臨できるなら、なぜ神代が終わってから一度もこの世に現れようとしなかったのか。
「それほど疎ましかったか」
 その場を離れていた間に何があったのかはわからないが、手ひどい仕打ちのように思えてならなかった。費やした時間は、人≠ェ生きるにはあまりに長すぎた。朽ち果てた体を引きずってきたのは、ただ彼女が哀れでならなかったからだ。
 しかし、本当に哀れだったのは彼女ではなかったのかもしれない。
 生も死も乗り越えた男は、ただ苦々しく口元を歪めた。
 彼女が望んで礎となったことは知っているが、彼には到底理解できなかった。
「お前はまだ人を守るというのか。神々が見捨てた子らを」
 それが仲間に対する裏切りであることに気付かないほど愚かな女ではないはずだった。
 ギニアは双眸を閉じた。神代が終わってからずいぶんとつ。その間に、彼女は己の過ちに気付くだろうと信じ依代となるキメラを求めた。
 しかし、すべては徒労に終わったのだ。
 この長すぎる時間になんの意味もなかった。
 水晶にはその思いを裏づけするような光景が広がっていたが、彼はそれを直視し続けることができなかった。
 不意に、何かの気配を感じて彼は視線をあげた。
 無意識の内に小屋の天井を見上げる。人ではないと判断した直後、遠方の気配は掻き消えて目の前に少女が立っていた。
「着替える場所を提供して欲しい」
 大きな布袋を突き出し、狭い部屋で巨大な羽を器用にたたんで少女が微笑んだ。
「お前は」
「神話の時代を知る者よ――久しいな」
 生きるためにすべての力を使い果たしたギニアとは似て非なる少女の笑みはすぐに残忍なものへと変化した。
 少女は茫然とする老人に手を伸ばした。
「やはり依代が足りん。貴様にも栄誉を与えてやろう」
 甘い香りが満たし続けるその部屋に血臭が満ちる。断末魔の叫びは誰の耳にも届くことなく、その小さな空間はすぐに静寂を取り戻した。


←act.64  Top  act.66→