act.64  毒


 驚くほどの速度で純白の翼が黒く変色した。そして、黒く変色した翼は奇妙な音をたてて膨れ上がり、すぐにその翼は体に見合わないほどの大きさになった。
 両翼を広げれば二メートルを越すだろう。美しい翼は醜く変形し、もとの面影はなかった。
 陸は迷いなく変形した翼に手を伸ばした。
 触れた瞬間、手の平を焼くような痛みが襲う。鋭い痛み、どころではない。その手は赤くただれて皮膚が弾けていた。
 服にしがみ付くようにしていたココロの体がするりと離れた。
「奪い損ねたか」
 小さな言葉はまともに話せたためしのない少女の口から零れ落ちた。
「なにが……」
「小ざかしいな。命ごといただくか」
 ココロが笑むと同時に船が大きく揺れた。風を切る音が耳元で聞こえた。
「何者だ?」
 低い問いが頭上から降ってきた。そろりと視線を動かせば、すぐ隣には抜き身の剣がきらめいている。
 切っ先を向けられた少女は口元を歪めるように笑って立ち上がった。
「神に剣を向けるか。身の程を知れ」
 手を振り上げる。その指が大気を凪いだ瞬間、陸の背後で激しい音が鳴り、小船が大きく揺れた。
「クラウス様!?」
 悲鳴が聞こえた。胸を抑えて倒れこむクラウスは真っ青な顔で低く唸り声をあげ、リスティとレイラはわけもわからず彼に手を伸ばしていた。
「触るな!」
 二人に一喝して、陸はココロを見た。
 少女は身をかがめ、袋を掴むと船底を軽く蹴った。唖然と見上げる人々を一瞥し、少女は優雅に体の向きを変えて降下した。
 その先に、水中で身を寄せ合う少年と少女の姿があった。
「カーン、メリーナ! 逃げてください!」
 リスティの悲鳴が二人に届いた瞬間、すさまじい風圧が一帯を包んだ。醜く歪んだ漆黒の羽がひらりと舞い踊る。
 そむけた顔を二人に向けたときには、その体は宙に浮いていた。
「二つでは足りぬが……まぁよい。ともに来い。神の依代となる栄誉を与えようぞ」
 翼が再び肥大する。少女の胸元から二本の腕が伸びていた。――いや、二つの体が、鮮血を滴らせて少女の胸に吸い込まれようとし、もがくように腕が空を掻いていたのだ。
「これで少しは使える」
 不気味な音を響かせて吸収されていく二つの肉塊を眺め、少女が微笑んでいる。その壮絶な光景に誰もが言葉すら奪われたように目を見開いていた。
 すぐに肉の塊はなくなり、少年と少女の足首が二つ、運河に落ちて沈んでいった。それを目の当たりにした瞬間、悲鳴が沈黙を打ち破った。
 巨大な黒翼を持つ少女を茫然と見上げていた男たちが我に返り、陸地に向かっていっせいに泳ぎ出す。
「なんだよ、あいつ……」
 喰ったのだ。キメラの少年と少女を、なんの躊躇いもなく己の中に取り込んだのだ。
「また会おう、アルバ。――そうそうその男」
 ココロの姿をした少女は陸に笑んでみせてから、いまだに苦しげに眉を寄せながら上半身を起こしたクラウスに視線を向けた。
「それは少しずつ体に広がる。生活に支障はなかろうが、全身に回ればそれを合図に一息に細胞を破壊する。なかなか見物みものだぞ、人が崩れる様は」
「お前は――!」
「止め方なぞ聞くなよ。さて、女神でも殺しに行くか」
 ひどく歪んだ翼を大きく動かすと大気がうねりを上げた。何かが弾ける音とともに、翼の一部から白い物が飛び出した。
 骨だ、と陸が判断した直後、それは黒く染まっていた。
「ココロ!」
 悲痛な呼び声に、わずかに少女の肩が揺れた。見下ろしてくるその顔に悲しみと絶望の色が広がった次の瞬間、それは残忍な笑顔へと塗り替えられた。
 翼が再び大きく揺れる。
 止める間もなく少女の体は天空へと消えていった。
「な……なんだよ……」
 意識は、おそらくココロの意識はあそこにあるのだ。あの得体の知れない「神」のその支配下に、彼女の意識は確かにあるに違いない。
「ココロ……!」
 茫然と空を見あげて名を呼ぶと、背後から再び呻き声が聞こえてきた。オデオ神が何かをしたことを思い出し、陸は不安を振り払うように頭を振ってから這うようにクラウスに近寄った。
 彼の顔は蒼白で、額には玉のような汗が浮かんでいた。呻き声は引き結ばれた唇から漏れ出している。
 触るなと命令されたとおり、リスティとレイラはクラウスに手を出していない。あの惨劇を前に助かったと思うのは間違っているが、それでも多少は被害が少なくすんだのだと素直にそう思う。身のうちに宿った神が、男の体に起こる変化を察知しなければ今以上に被害は広がっていただろう。
 陸は、ココロの翼を触れたことによってただれた手を水中に突っ込んだ。大きな気泡がいくつも現れ、すぐにそれは細かくなって、そして手の平の痛みが消えると同時に気泡も消えた。
「水って、浄化作用があるんだよなぁ」
 半ば感心して陸はつぶやく。水面に視線をやって、ようやくその時、この運河がどこかおかしいことに気付いた。
「なんか沈んでる」
 あの巨大な魚の残骸ではない、もっと別のものが海底深くに沈んでいる。陸は小首を傾げながらもそれ以上の詮索はやめて水中から手を引き抜いた。
「……すげ、完治」
 にぎにぎ動かしたがなんの違和感もない。ちょっと感心しながら、陸はクラウスの服に手をかけて彼が痛みを訴えている場所を確認した。
 まるで毛細血管が浮き出したような細さの線が胸の一部にあり、それが紫色に染まっている。
「広がるな、これ」
 陸は再び手を水面にひたし、濡れたままのそれをクラウスの胸に押し当てた。
 焼けるような痛みが手の平を襲うと、そこから煙が立ち上る。その光景を見てぎょっとするリスティとレイラは真っ青になって息をのんでいた。
 水面に手をひたしてからそれを彼の胸に押し当てる行為を何度か繰り返すと、ようやく、落ち着いた、と思った。
「それ、応急処置で痛みをとっただけ。それを取り除かないと、本当にオデオが言った通りになる」
 額の汗をぬぐって体を起こす男は陸の言葉に眉をしかめた。小さな入れ物に入れた水を手渡されて勢いよくあおり、深く息を吐き出して胸に触れる。そこはちょうど心臓の真上にあたる。
「消えないのか」
「広がる。全身を包めば細胞が崩れる。アイツとっ捕まえてどうにかさせないと。あー止め方知ってんのかなぁ。とにかく、何とかしないとヤバいから!」
「えぐるのはどうだ?」
「やめとけって。呪いの類でもあるから、一気に広がるぜ」
 率直な意見を返すと、彼は服を整えて溜め息をついた。
「どのくらいもつ?」
「さぁ。運かな。まずあいつが行く場所を探さないと」
「オデオか」
 含むような声に、陸は無言のままオールに手を握ったレイラを見ながら、ん、と頷く。
「クラウス様」
「……操られているようだな」
 震える声でリスティに呼びかけられ、クラウスは頷いて苦々しく笑った。
「お前にもいるのか?」
「……いるみたい。アルバって神様」
 隠しても無意味だろうと判断し、陸は素直に頷いた。リスティが陸を凝視した。
「死と再生をつかさどる?」
「うん。でも、うまく使えない。使うことを拒んでるよな……なんか、色々やりにくい」
 クラウスの胸に仕込まれた時限式の毒も、本来のアルバ神の力を以ってすれば何とか取り除けたかもしれない。しかし、今は痛みを消す程度のことしかできなかった。
「オデオ神はあの少女の中か。……神狩りのつもりだったんだがな」
 小さく呟いて、クラウスはリスティを見た。
「女神、と聞こえた気がしたが」
「はい。ですが、女神というのは神話の時代のもので」
「伝承に伝えられるのは?」
「……口伝でなら。でも、口伝と言っても田舎の一部族に伝わるようなものです」
「それは?」
 集まる視線に戸惑いながらリスティは口を開いた。
「神話の時代が終わるとともに、陸地はすべて水没するはずでした。けれど女神の一人はそこに住む命を哀れんで、己の四肢を大地に埋め込み、そして土地を安定させたと言われています」
 ざわりと、何かを知らせるように悪寒が走った。
 オデオ神は女神を殺しに行くといった。大地を支えるのがその女神ならば、それを殺すという事は、この大地を水没させるという事になりはしないのか。
 もしも口伝が本当なら、オデオ神が狙っているのは大地に埋め込まれた女神の四肢だ。
 ココロの体を使って、世界を消し去る気なのだ。
 体の中にあった異物――オデオ神の力は、すでにすべて奪われているだろう。アルバ神の力が取られなかったのは幸いだが、状況はあまりいいとは言いがたい。
「お姉さん。女神様の体、どこに埋まってるか知ってる?」
「行く気か?」
 質問をさえぎるようにクラウスは問う。探る瞳に陸が素直に頷くと、クラウスは落とした剣を鞘に収めてからリスティに向き直った。
「オレも同行する。場所はわかるか?」
「――危険です、王子」
「待っていても仕方あるまい。期限を切られた命で、怯えて暮らすほど物好きじゃないからな」
 そこで言葉を切って、彼はリスティをまじまじと見詰めた。顔面蒼白のリスティが何を言い出すのかをよく理解しているのだろう。彼は溜め息をついた。
「命があるとは思えん」
「わかっています」
「オレには危険だと言うのに、お前は行くと言うんだな」
「行きます。これではあまりにあの子たちが……」
 それ以上の言葉は続けられず、リスティはうつむいて服をきつく握った。手の甲にぱたりと落ちた水滴を目にして、彼は震える肩に手を伸ばした。
「同行は二名――」
「三名です、クラウス様」
 訂正を入れたのは、オールをたくましく操る女だった。
「私も、同行の許可を」
「……物好きしかおらんが、かまわんか」
 真剣に聞かれて、陸は面食らったように三人を見た。陸自身はどういった理由だか神に寄生されてしまった手前、完全に渦中の人だ。
 だが、彼らはそうではない。
 クラウスはこの異常事態に付き合わなければならない理由ができてしまったが、残りの二人は決してそうというわけではないはずだ。
「……危ないと思うんだけど」
 ひとまず、そう意見する。しかし、向けられる視線はゆるぎない。
「んじゃ、よろしく」
 こういう場合は握手かなと考えて右手を差し出した。
 どうなるかはわからないが、このままにしておけるはずはないことだけは確かだ。
「ココロ」
 腕の中からすり抜けた少女を取り戻すために、彼は差し出された男の手をきつく握った。


←act.63  Top  act.65→