act.63  寄生


「要!」
 鋭い声が耳朶を打った。
 大きく見開いた瞳を何度か瞬かせると、呼び声はいっそうはっきりとする。一瞬だけかすんだ視界に幼なじみの姿はなく、彼は豪華な部屋に仁王立ちになったまま窓を見詰めていた。
 周りの視線が痛い。
「……大丈夫か?」
 遠巻きにラビアンに問われて、要は再び瞬きを繰り返した。
 肉体はそのままに、意識だけが完全に切り離されていたことを漠然と感じ取る。それは奇妙な感覚ではあったが、今の彼にとっては理解できないほどの事態でもなかった。
 炎上する海賊船が間近にあった。水中に逃げた男たちが必死に泳いでいる姿が目に飛び込んできた。
 その混乱の最中さなかで、陸の中に眠ったアルバ神を呼ぶために、水底みなそこから引きずり出したのは異形の魚――男たちの苦悶の悲鳴こそ耳に届くことはなかったが、水中に広がったのは紛れもない鮮血。
 人が死んだのだ。
 アルバ神が彼らを見殺しにすることはないと知るがゆえに、オデオ神はいともたやすく人の命を奪う道具を呼び寄せた。
 要は己の手を見た。
 不完全体であるアルバ神があの時できたのは、異形の魚を葬ることだけだ。だが、オデオ神にはそれで十分だった。
「自分の力ごと、アルバの力も吸収する気だったんだ」
 陸の中から引きずり出して、その力を得ようとしたのだ。
 けれど。
「要……?」
 茫然と両手を見詰めて低く唸る要に、ラビアンは不審な瞳を向けながら、少しずつ近づいてきた。
「どうした? ……お前、なのか?」
 問う声に顔を上げる。一瞬、ラビアンがあの時、あの場所にいた少女に見えた。
 陸に触れようとした要の邪魔をした、あの幼い少女に。
「ど……どうするんだ……ッ」
 純白の翼を持った少女に、要は触れたのだ。いや、要の姿をしたオデオ神が。
「あの子供、依代だ……!!」
 神を降ろすための器。いくつもの命を組み合わせ、そのためだけに作られた、命と意志を持っただけの道具。
 床を蹴るような音が要の耳に届くと同時に息苦しくなった。
「貴様! 放せ!!」
 ラビアンの声が聞こえて、ようやく要は自分の足が床についていないことを知る。目の前にはトゥエルの顔があった。真剣なその顔が怒気すら孕むように歪んでいた。
 要は彼の太い腕を掴む。首を締め付ける力が強くなると、ひどい頭痛が襲ってきた。
「何を言っている? 依代は神を降ろすための器だ。誰のことだ?」
 呼吸さえ奪われた状態では答えたくても答えられない。バタバタと動かした足が虚しく空を蹴った。
「殺す気か!?」
 悲鳴のような少女の声に、喉を潰さんばかりの力で締め上げていた手があっさりと離れた。そのまま尻餅をつくように倒れた要は喉元を押さえて大きく息を吸い、激しく咳き込んだ。
「要……! おい、貴様! こいつは病弱なんだと言ってあるだろう!!」
「そうだったな」
 短く息を吐き出して、トゥエルは悪びれなく返す。ラビアンは要の背中をさすりながら男を睨みつけた。
 格好悪いとは思うのだが、言い返せるだけのゆとりがない。目に涙を溜めながら荒い呼吸を繰り返して要は拳を握った。
 あの少女はキメラだ。なぜ陸のそばにいるのかはわからないが、神を降ろすための器たる生き物――オデオ神が、それに気付かないはずがなかった。
 彼の中にいたものは、彼女に反応した。そして、より適した器へと移動したのだ。
 ゆっくりと整っていく呼吸にラビアンが安堵する。横暴なお姫様だが、ただ我が儘というだけではないような気がして、要は彼女の顔をまじまじと見詰めた。
「どうした? どこか痛いか? 医者を呼ぶか?」
「……大丈夫」
 喉をさすってから要は無言で見下ろしてくる男に視線をやった。その隣には実体のない女が揺れている。
 トゥエルは要の視線に気付いてその先を探るように辺りを見渡し、そして怪訝な顔をした。どうやら見えていないらしい。
「あんたも、神様?」
 なんとなく思い当たって問いかける。アルバ神ともオデオ神とも違うその気配は、しかし、不思議なくらいに似通ったものがある。
「要?」
 不思議そうな表情をするラビアンの手を借りて立ち上がり、少しよろけながら前進した。
「神? 誰がだ?」
 馬鹿にされているとでも思ったのか、トゥエルの表情は険しい。それには気付かないふりをして要は一見なにもない空間≠ノ手を伸ばした。
 戸惑うように女が後退する。柔らかな空気が全身を包むのを感じ、要はさらに手を伸ばしてしっかりと彼女の腕を掴んだ。
「ごめん、力を貸して欲しい。オデオ神が依代を得た。彼は本能の欲求にしか従わない」
 女が大きく目を見開いて苦悶の表情になると、見えないはずの彼女の腕が要の視界から消える。その奇妙な感覚に一瞬だけ双眸を閉じた。
 掴んだ腕の感触が完全に消えると体の奥が温かくなった。
「……セラフィ……四肢を割かれ、いしずえとなった女神」
 小さくつぶやく。神話の時代とともに崩壊を始めた大地を、それでもたった一人で守ろうとした女神がいた。それははるか昔、すでに誰の口からも語られることのない伝説だった。
「世界を崩壊させたいなら狙うのは女神の体か」
「何の話だ?」
「……なんのって、終焉の話」
 とっさにトゥエルから離れながら要はそう答える。そう、簡単な話だ。破壊神としての力は強大だが、それだけでこの世界を一瞬にして破壊することなどできない。
 彼が操る力は神のものだが、それを扱う体は神の体ではないのだ。器は降臨するためのものであって、それ以上の意味を持たない。
「ラビアン、キメラって一般的?」
「い、いや。さほど多くはない。……王都はそれを作っていたらしいが」
 口ごもる彼女から視線をはずし、次にトゥエルを見た。
「神が降りたのは初めてか?」
「……だからどうした」
「じゃあ、あいつは無茶ができない。器がなくなれば次を探さなきゃいけないから。今、神を降ろせる器は三つだ」
「さっきから何を言ってる?」
「……世界を崩壊させたい?」
 トゥエルの問いに要は逆に問いかけた。
「オデオ神は神話の時代にやり損ねたことをやろうとしてるんだ。それが自分の責任だと思ってる。――まぁ、多分に趣味が混じってるけど」
 女神から与えられる知識をゆっくりと吸収しながら要は言葉をつむぐ。眉をしかめるトゥエルを見上げると、かすかに動揺の色が見えた。
「人が制御できるものじゃない。セラフィは……あんたのそばにいた女神は、キメラを作ることを制そうと必死だったよ」
「女神?」
「……あ……や、なんでもない」
 ゴホンと咳払いした。
 王都で依代が生まれなかったのは、つまりは女神のせいだったのだろう。国の行く末を憂いていたとはいえ、それは人道に反し、世界を滅ぼす刃となるものだったのだから。
 かなり配慮が足りないが、見た目以上にこの男、まともだったという事らしい。
 そんな男に耳打ちをしたのは黒衣の老人。
「……そっちも気になるけど……どこに逃げたんだろ」
 どっかでそんな話を聞いたような……そう考えながら、むぅっと口を引き結んで、すぐに口を開いた。
「手ぇ組まない?」
 唐突な問いに、トゥエルの目が丸くなっている。
 これを「ハトが豆鉄砲を食らったような」と表現するのだろうと、要は冷静に思う。捕虜だか奴隷だかわからない相手にこんなことを言われたら、確かに普通は驚くだろう。
 だが、後にはひけない。
 巻き込まれて消えるのは絶対に嫌だし、たとえうまく帰れたとしても、ここでの出来事を一生引きずり後悔し続けるなんて真っ平ごめんだ。
 陸も戻ってきていないし、きっと彼でも同じ事をしただろう。
「手を組もう」
 言葉を繰り返す。できるだけ堂々と、迷いなく。
 一世一代の大博打なんてそう何度も打つ気はなのだが、彼の中には神が宿っている。大きな力こそないが、その身を挺してこの世界を守り、見詰め続けた女神がいるのだ。
 その感覚に後押しされるように要は真剣な眼差しを男に向ける。
「正気か? 立場をわきまえてるのか?」
「もちろん。そのかわり、あんたにいいものをやるよ」
「……なんだ?」
「英雄にしてやる。世界中が平伏すぐらいの」


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