act.62  こわい


 一息に水中から引き上げられる。咳き込むよりも早く、何かに激しく体をぶつけた。
「リスティ!?」
 かろうじて守ってきた細い体が奪い取られ、陸はうっすらと目を開けた。
「クラウス様、リスティ様は……!?」
 陸の腕を放した相手は、男にしては少し細くて高い声の持ち主だった。陸は視線を移動させ、水中から引き上げてくれた相手を見た。
 腕の太さも体の鍛え具合も半端ではないが、甲冑の下にあるのは間違いなく女の体だ。
 彼女は濡れた体を厭う様子もなく、クラウスと呼ばれた男を青ざめた顔で見詰めている。
 知り合いなのかとホッとした。
「呼吸が止まってるな」
 身をかがめて小さくつぶやき、クラウスが動く。リスティの肩を軽く叩いてから意識がないのを確信して体勢を変えた。
「ココロ、無事か?」
 陸はそれを横目で見ながら体を起こしてココロに問う。平然として小首を傾げる少女に安堵したが、翼にある灰色の変色が明らかに濃くなっている。しかも、少しずつ広がっているようだ。
「大丈夫か!?」
 ぎょっとして翼に顔を近づけると小船が大きく揺れ始めた。驚いてクラウスを見ると、防災の日にビデオテープでしか見た事のない心臓マッサージを実践している。切迫した空気の中で人工呼吸と心臓マッサージを何度が繰り返すと、こもるような咳のあと、リスティは水を吐き出していた。
「お、おぉ……よかったぁ」
 ココロを抱きしめたまま、陸が止めていた息を大きく吐き出した。必死に海賊船から逃げ出したのに、助けられなくなる所だった。
 苦しげな咳をするリスティに安心したように笑んで、大女はオールを手にした。代わろうと言い出す前に、オールが力強く水を掻いた。
 負けた、とか、本気で肩を落としながら、陸は再びリスティを見る。
「大丈夫?」
「……お前は?」
 ふっと、クラウスが警戒するように陸を見詰めた。その視線が甲冑の胸にある紋章にそそがれていることに気付いて苦笑した。確かに有名で――そして、あまり歓迎されることのないものらしい。
「これ、拾い物。オレはこれと無関係で……えーっと。旅人?」
 陸が首を傾げると、隣でココロもいっしょになって首を傾げた。胡散臭そうに陸を見ていたクラウスは、次にココロを見てさらに警戒する。
「キメラか。貴様、王都ルーゼンベルグの者か?」
「や、こいつは拾って。な、ココロ?」
「な?」
 顔を見合わせて、再び首を傾げる。大きな翼を窮屈そうに羽ばたかせて、ココロは丸い瞳をさらに丸くしている。
「クラウス様」
 小さく咳き込んで、リスティは起き上がった。
「王都に関わりがあるのは海賊のほうです。詳しくはわかりませんが、キメラの噂は事実のようで……」
「わかった、しゃべるな」
 短く命じ、クラウスの視線が運河に向いた。リスティもなかなか派手な格好をしているが、クラウスも唸りたくなるほどの格好をしている。そういえば、要もヒラヒラしてたよなぁと呑気に考えながら、陸も水面に視線をやった。
 海賊たちが陸地に向かって泳いでいる。ざっと見て、30人ほどか。すでに陸地に着いた者を数える途中で、奇妙な生き物がいることに気付いた。
「うわ、恐竜――……」
 ちょこんと座り、小船を見詰めている。どうやら船が着岸するのを待っているらしい。感心して眺めていると、金属音が聞こえた。
「……それは?」
「クラウス様とレイラの剣です」
「そうか。……すまなかったな」
 ものすごく困惑しながらクラウスがリスティから剣を受け取っている。満面に笑みを浮かべるリスティはレイラにも剣を手渡した。
 あの状態で手放していないというのは、もうさすがとしか言いようがない。普通だったら怒鳴って注意するところだが、男は剣をベルトに固定するとわずかに肩を落とした。
「うーん。気持ち、ちょっとわかるかも」
 ボソリと呟いて、陸は自分の肩にも戦利品の服が入った袋が引っかかったままになっていることに気付いた。
 意外と人のことは言えないかもしれない。しっかりと水に浸かった服はよく搾って乾かさないと着られないが、着たらちょっと可愛いんじゃないかと思ってしまう。
「楽しみだなー?」
「たのしみ?」
「似合うと思う」
「うん」
 意味がわかっているのかいないのか、ココロは大きく頷く。苦笑して濡れた髪を撫でると、突き刺さるような視線を感じた。
「王都の者ではないんだな?」
 再度確認するようにクラウスが問うと、陸は素直に頷いた。
「魔術師か?」
「いや、一般人」
「……依代か?」
 探るような視線に、一瞬言葉が出なかった。奇妙な空間で陸は神≠ノ出会い、そして依代だと言われている。依代と聞くとイタコを素直に連想する陸は、この世界で呼ばれる依代と、自分がいた世界で呼ばれる依代という言葉の意味が微妙に違うことに気付いていた。
 おそらくは、一時的に霊をおろすための媒介ではない。肉体どころか精神さえ侵食するその経緯から、意識を捧げ、神を宿すための器とされることがわかっていた。
 考え込んで返答に窮するとクラウスが再び口を開いた。
「名は?」
「大海陸、こっちはココロ。あんたは?」
「……クラウスだ。そっちが、レイラ」
 多くを語らず、男は難しい表情で答えた。様づけで呼ばれるなら、きっとそこそこ偉い人なのだろうとは思う。
 思うが、聞くとあとが面倒くさくなりそうなので、陸はそのまま押し黙った。
 消えた船体と、海中に沈む巨大ななにか=\―そして、浮遊続ける死体。接触してきたのはアルバ神、要の姿を使って話しかけてきたのは――。
「オデオ神」
 不気味なほど鮮明に記憶が蘇る。
 何が望みなのかわからないが、それは決して、この世のためではないと思う。触れられたら最後だと陸は自分に言い聞かせ、それから動きをとめた。
 陸は触れられてはいない。
 そう、ココロがいたから、陸に被害はなかった。
「――ココロ?」
 大きな羽をバタつかせる少女は、しきりと翼を気にしていた。陸はとっさに彼女を引き寄せ、そして息をのんだ。
 翼にある灰色の変色は完全な黒になり、刻々と範囲を広げていた。まるでインクのシミのようだと思う反面、その広がり方が異常であることを即座に悟る。
「りく」
 翼をバタつかせてココロが見上げてきた。
「い、たい。――痛い」
 たどたどしく訴えてくるその体を抱きしめる。涙を溜めた目を伏せて、ココロはその顔を陸の胸に押し付けた。
 翼の一部が奇妙に盛り上がる。
 それは、まるで意志を持っているかのように移動した。
「なんだよ、これ」
 黒く塗りつぶされた翼の下で何かが蠢いている。悲鳴をこらえるように震える小さな体をしっかりと抱きしめて、陸はその隆起に手を伸ばした。
 鋭い痛みが手の平に広がり、陸はとっさに手を引いた。
「りく」
 しゃくりあげるように名を呼ばれ、陸は再びそれに手を伸ばした。しかし、触れる寸前で腕を掴まれて彼は顔をあげた。
「やめておけ。おかしな物がいる」
 陸の腕を掴んだままクラウスは告げる。漆黒に染まった少女の翼が奇妙に形を変える。
「りく……!!」
 恐怖に震えるその声を耳にした瞬間、陸は腕を振り払っていた。ポコリと音をたて、翼の一部が肥大するのが見えた。


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