act.61  オンライン


 ゆらり、ゆらりと何かが揺れている。それはまるで水面に映る景色のように定まりなく、常に変化を繰り返している。
――誰?
 妙に懐かしい気配に向けて、薄れゆく意識の中で陸はそう問いかけた。あたり一面が揺れる中、直立した影だけが時を止めたかのようにそこにある。
 ここはどこなのか、何が起こったのかすら、すでにどうでもいいような気がしてくる。まどろむように四散していく思考や勝手に動く体にも疑問を抱くことはなかった。
 ただ、目の前にたたずむ影だけが気がかりだ。
 触れてはいけない。決して近づいてはいけない。
 ひどく歪んだ存在であることがわかる。何を思い、何を望むのか――そのすべてが把握できなくとも相反する者であることは瞬時にわかった。
 その場から離れるために、陸の体が彼の意志に反して動く。混乱しながらも彼は必死に全身に力を込めた。
 ここから去る事はできない。
 すべての輪郭が崩れ続ける世界の中心で、微動だにしない影がある。それをそこに残したまま、この場を離れることはできない。
 拒絶する己の体に苛立ちを覚えながら、陸は黒い塊を凝視した。
 懐かしいと思う。
 記憶ではなく心が、体ではなく細胞が、驚くほど素直にその存在を受け入れようとする。
――要?
 思い当たる唯一の名を口にする。両親は親友同士で家はお隣さん、生まれた日は一日違い――高校まで同じとくれば、幼なじみというよりは腐れ縁と表現したくなる。
 広く浅くをモットーに人付き合いを続けてきた陸にとっては親友と呼べる相手だ。不運にも、このわけのわからない世界に迷い込み、今は離れ離れになっている。
 その彼が、なぜか目の前にいる。
 視界が大きく揺らぐ。陸はとっさにかぶりを振った。
 睡魔とは違う何かが思考を奪っていく。ここで意識を失えばどうなるか――あの「神様」の力を借りただけでこの有り様だ。これ以上何かあったら、無事に家まで帰れるかさえ怪しい。
 後退しようとする体と薄れる意識に狼狽しながら、陸はちらりとあたりを見た。自分がいる場所が煙に包まれた船内なのか、それ以外の場所なのかもわからない。
――ココロは……
 無事に、甲板に出られただろうか。もしかしたらうまく出口を見付けられず、今も船内を彷徨っているかもしれない。
――要、手伝ってくれ!!
 船内にはまだココロ以外の人がいるかもしれない。状況はよくわからないが、一人よりは二人のほうが心強い。頼りになる相棒に声をかけた瞬間、陸はようやくその異変が要の容姿だけに留まっていないことを知った。
 少し離れた位置に立っていた幼なじみは、息がかかるほど近い場所にいる。いつのまに移動したのかもわからず、陸は硬直して彼を見おろした。
 どこか不自然に影が揺れる。
――要?
 硬い声で問いかけると、秀麗な唇がゆがむのが見えた。
――我が力の源。返してもらうぞ、アルバ神。……否。
 茫然とする陸に、要が手をのばす。影の塊のような姿なのに、その指先はいやに白くていっそう不気味ですらあった。
 ゆるりと顔をあげる。
 切れ長の瞳がまっすぐ陸を見上げた。まるで空洞のような双眸が嘲笑の色に染まっているのが見て取れた。
――貴様のその力も貰い受けてやろう。
 笑む意図は陸にはわからない。目の前の少年が何を思ってそう口にしたのかなどさっぱりわからない。
 けれど、危険であることだけはわかる。ここにいてはいけないのだ。
 ようやくその考えにたどり着いたが、足がまったくいうことを聞かない。床らしいものはないのだが、そこに固定されているように動かすことができない。
――アルバ神。
 囁く声と同時に指が近づく。慌てて体をひねってその手を避けると、まったく別の場所にずしりとした重さが加わった。
 息をのんだその直後、彼の腕は胸に飛び込んできた少女の体を抱きとめるように回されていた。
――ココロ?
 応えるように純白の翼が大きく羽ばたく。翼で大気をかき混ぜると、揺らめく世界がさらに大きく揺れた。
「りく」
 鈴を転がすような可愛らしい声が耳に届く。驚きを隠せないまま見詰める先で、また少しだけ大人になった少女が嬉しそうな笑顔を見せた。
 無事だったのかと安堵すると、純白の翼が再び大きく羽ばたく。同時に、空気がよどむように安定性を欠いていた世界に清涼な風が生まれる。
 ココロを抱きしめたまま突風に目を閉じ、陸はそろりと目を開けた。少女を抱きしめているこの状況を幼なじみにはどう説明したものか。
「へ?」
 言い訳の言葉を考えるよりも、間抜けな声のほうが先に出た。
 陸は目を瞬く。歪んだ空間は鮮明な風景となって目の前に広がっている。揺れ続けていたものの正体――それは、延々と広がる巨大な運河の一部。炎上した船があった場所だ。
 陸は慌てて要を探す。しかし彼の姿は見付けることができず、そのかわり、唖然と彼を見上げている海賊たちの姿がいくつも視界をかすめた。
「なんで川ん中にいるの? って、船は?」
 白煙だけは残っているが、炎上した海賊船がない。沈むにしたって時間が短すぎるだろうし、水面から船体が見えてもいいようなものだ。
 しかし、浮いているのはゴミや船員ばかりだった。
「要は? あれ? 夢?」
 昨日よりもちょっとだけ抱き着心地が良くなったココロを腕の中に収めたまま、陸は首をひねってうなり声をあげた。
 すぐそばにいたような気がする。すでに目の前にいないからはっきりとそうと言い切れないが、それでも、手の届く場所にいた気がする。
「……掴み損ねた……」
 溜め息とともに後悔を吐き出す。その時になってようやく、胸の痛みがないことに気付いた。
 陸は大きく息を吸い、ココロを抱きしめなおして口をつぐむ。
 治してくれたのか、それともそれも神とやらの能力の一部なのか。嫌な感じは続いているが拒絶するほど強烈な嫌悪もなく、陸は彼の目的がなんであったのかを計りかねて小さくうなった。
 珍しく考え込んでいると、思考を遮るようにざわめきが聞こえてきた。不思議そうに見渡して、海賊たちに指をさされてようやく自分の体を見た。
「浮いてる」
 水面からつま先までは二メートル以上あいている。
 足をバタつかせ、そこが見た目通り何もないことを確認し、さらにココロの翼が綺麗にたたまれていることに顔を引きつらせた。
「こ、ココロ? 羽は?」
 ココロの翼で陸の体を支えて飛ぶことなどできそうにもないのだが、それでも問わずにはいられない。純白の翼を見詰めた時、その一部が灰色に変色していることに気付いて目を見開いた。
「ココロ、どうした!?」
「どうした?」
 陸の言葉を繰り返しながらココロが体をひねると、バランスを失ったように二人の体が大きく揺れた。妙に右に傾くなと思った直後に思い出す。
「お姉さんが!!」
 いるのをすっかり忘れていた。庇って下の階に落ちた所までは記憶していた陸は、そのリスティが再び肩に担がれていることに驚きながらも、片手をその細い体に回した。
 神様も要もココロの羽も気になるが、今は生死にかかわる状態であるリスティを助けることが最優先だ。
 瞬きする間もなく水面に触れた。双眸を閉じて息を止め、リスティとココロの体を守るように体をひねる。
 高度のわりには派手な水柱が立った。目を開けると頭上に水面が見える。そこまで浮上しようとして、陸はしっかりとしがみ付いてくるココロに身動きを封じられて首をひねった。
 水中に巨大な肉塊が沈んでいくのが見えた。一瞬船体かとも思ったが、大きく揺れたヒレが、それが生物であることを伝えてきた。たくさんの気泡が左右に揺れながら上昇していく。
 水がうねると視界のはしで何かが動くのがわかった。
 陸はとっさにココロの目を塞いで顔を上げる。
 ここで何かが起こっていたのだ。人の生死に関わるような出来事が、彼らの知らないうちに起こっていたのだ。
 足で水をかく。
 早く水面に出ないと、死体がもう一つ増える。歯を食いしばって上に向かう彼の目の前に、不意に手が指し伸ばされた。
 混乱する思考のまま、陸はその手を掴んだ。


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