act.60  これだ


 唐突に動きをとめた少年に視線が集まっていた。
「……なんだ?」
 トゥエルは彼の持ち主である白銀の髪の少女を見る。すると彼女は無言で少年――要を凝視していた。
「病気ですの?」
 社交辞令のように声をかける女をラビアンは鋭く睨む。
「失せろ」
「まぁ」
 いつまでも人を小馬鹿にした態度が消えない女をさらに鋭く睨んでいると、トゥエルが彼女の腰に手を回してドアへと誘導した。
「部外者は立ち入るな」
「まぁ酷い」
「どちらも譲る気はない。おとなしく屋敷に帰っていろ」
 一国の王に命令され、彼女は少し唇を尖らせながらも可憐に一礼してドアに向かった。
 ドアの前でもう一度スカートを軽くつまんで一礼する様は、中身と反して従順な淑女のようでもあった。
「さて」
 ドアが閉まると、トゥエルは視線をラビアンに戻す。
「今度は何だ?」
「……知るか」
 ボソリとラビアンは返して要に近づいた。彼がこうなったのは三度目だ。
 一度目はバルト城すべての人間の疫病を祓ったとき、もう一度はついさっきガラスのはめ込まれていない鏡を見た直後、そして今――
 彼の体には人でないものが宿っている。
 バルト城内で疫病に苦しむ人間は彼女の父を含め数名いた。それが、要に触れた途端「元気」になったのだ。
 魔術でないことはわかっている。そして、父の言葉通りであるのならこの状況はあまり好ましいとは言えないだろう。
 ラビアンは要の肩を掴んだ。
「おい!」
 虚ろな彼の目は窓の外に向けられたまま動かない。蛇行する巨大な運河を映すその瞳を覗き込み、ラビアンはとっさに後退した。
 虚ろという問題ではない。
 まるで光のないその瞳は、死者のそれよりもさらに醜くよどんでいた。
「なんだ?」
 さらに後退るとトゥエルにぶつかった。頭上からかけられる声に一瞬だけ緊張すると、彼はやんわりとラビアンを脇に押しやって要に近づく。
「よせ」
 腕を掴み、彼女は強引に引いた。彼を守るためにひかえていた兵士たちが剣に手をかけるのすらどうでもいいと思え、ラビアンはそのままトゥエルの腕を掴んで要から離れた。
「……お前の奴隷なんだろ? どうなっている?」
「こっちが聞きたい。とにかく今は近づくな。……嫌な感じがする」
 まっすぐにラビアンは要を見つめたまま低く答えた。その顔を珍しげに眺め、トゥエルは剣をかまえたままの兵士に目配せした。
 金属の触れ合う音とともに緊迫した空気が去る。ジョゼッタだけが険しい表情のまま剣に手をかけて臨戦態勢を保っていた。
 ラビアンは美しい護衛をちらりと見て、
「優秀だな」
 小さくつぶやく。いくら主君の命とは言え、危険でないと断言できない者がそばにいるのだ。警戒して当然だろう。それとなく注意するのが理想かもしれないが、威嚇していたほうが相手の行動にもためらいが生じる場合が多い。
 もしラビアンがトゥエルに危害を加える気であれば、その緊張すら読み取るに違いない。
「主君はアレだから、部下が不憫だな」
 ボソリと付け加えると、さすがに聞こえたらしい当の本人がラビアンをちらりと見た。
 何か言うのかと思って見上げると、彼は妙な場所を一瞥して口元をゆがめ、再び視線を落とした。
「お前の母親は巫女か?」
 この緊迫する状況で、不釣合いな質問をされてラビアンは唖然とする。
「だからなんだ?」
 突き放すように問うと、
「オレの子を産まないか」
 呆れんばかりの言葉がふってきた。二度目に言われたそれは冗談めかした言葉ではないようにも聞こえたが、ラビアンには頭が沸いているとしか思えないものでもある。
 王室で女児が生まれれば、国と国との結束のために婚姻を結ぶ道具として使われるのはよくある話だ。内政が安定し、覇権や派閥が安定した国なら、第一子は王子、もう一人くらい何かの時のために王子がいれば、あとは王女を望むことのほうが多い。
 バルトに多くの王女がいれば、まだ小さなあの国は、結束を求めてラビアンを婚姻の道具に使っていたに違いない。
 王都は今でこそ落ちぶれているが、婚姻を結ぶ価値がない国ではなかった。
 しかし、バルトにはラビアン以外の直系がいない。彼女は自分の国を守るためにあそこにい続ける必要があった。
 王家同士、血を残すことの必要性はよくわかっているはずだ。
 思考をめぐらせている間、ラビアンは知らずに爪を噛む癖がある。慌ててそれをやめ、彼女はトゥエルを睨んだ。
「十四歳の小娘相手にお前は正気か?」
「十分だ」
「……」
 沸いてるな、とラビアンは判断する。なにを基準にどんな結論で誘っているかは知らないが、快諾できる内容ではない。
「あいにくバルトには私以外、国を継ぐ者はない。他をあたれ」
 簡潔に結論を告げると彼女は再び要に視線をやった。そして眉をしかめた。窓を見つめたまま立ち尽くす彼のとなりに奇妙な気配がある。
 気配と言っても確かなものではなく、それは違和感に限りなく近い。
「……なんだ?」
「見えるのか」
 どこか笑いを含むようにトゥエルはそう口にする。どうやら護衛には見えないらしく、彼らは二人の会話に奇妙な表情を浮かべていた。
「あれは?」
「わからん。オレもまともに見るのは初めてだ」
 そう言って彼は低く笑った。何がおかしいのか疑問を抱くと、彼女はようやく彼の腕を掴んだままであることに気付いた。
 しかも、緊張が表れてしまったのか力一杯握っている。
 慌てて手を離すと、見えていた歪みが消えた。目を瞬いてから、ラビアンはもう一度トゥエルの腕を掴んでうなり声をあげる。
 ゆらりと空間が揺れた。
「なんの現象だ?」
「大地に愛された者同士、らしい」
 何かを一人で納得してトゥエルが喉の奥で低く笑っている。深く追求したい気もしたが、ラビアンはあえて問うことをやめた。
「血が残れば繁栄すると思わんか?」
「勝手に言ってろ。要をどうにかしないと」
「……これがオデオ神か」
 ハッとラビアンが顔をあげる。
「アルバ神はあの時に船にいたというわけだな」
「何を、言っている?」
依代よりしろではないものに降りたなら安定性に欠くな」
 ラビアンはトゥエルから離れた。
「こ――これは私の奴隷だ! 神などではない!」
 王都ルーゼンベルグの王にはいい噂が流れたことがない。彼は傲慢で強欲な独裁者であり、民をしいたげ、父王の命を奪い玉座についた罪深き者――王都の堕落は、この男より始まったのだという流説さえある。
 その男の手に「神」が渡るなど想像したくもない。
 なにかしら理由をつけて要の正体を見極め、あわよくば帰してやるために魔術師のもとに行くつもりだった。それがこんな事になろうとは。
「これは奴隷だ」
 言い聞かせるように繰り返す。けれど、その言葉に反するかのように、背後からは気味の悪い威圧感が押し寄せてきていた。


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