act.59 凡庸
異様な気配に怯えつつ、トムとジョニーは顔を見合わせる。
クラウスに引きずられて旅に出ることは何度かあったが、こんな異常事態は初めてだった。これといって取り柄のない二人は、あの小姑王子さえいなければ平平凡凡な生活を送るだろう一庶民である。
「帰りたいなぁ」
「言うな、ジョニー」
「オレ、すぐ死にそうだ」
「そういうヤツが一番しぶといんだよ、安心しろ」
まるで説得力のないことを髭面小男は相棒に言ってきかせる。
クラウスは確かに心配だが、もうそんなことを言っている心のゆとりがない。手早く出港の準備をしながら泣き言と励ましの応酬をしていると、ポカンとした顔で立ち尽くすエリオットの姿が目に付いた。
「行くんだろ? 急ぐなら手伝ってくれ」
トムが声をかけるとエリオットは慌てて頷いた。
「船の操縦、知ってるんじゃないか」
エリオットが感心したようにつぶやくと、トムとジョニーは意に介さず互いを見る。
「いや、全然わかんねーけど」
「小船ならやった事あるけど、こんなでかいのは……」
「動かしてるだろ、今」
エリオットの言っている意味がわからず小首を傾げると、トムの手はすでに
「……あれ?」
同時に間抜けな声をあげたあとには、その意思に反して手が動く。どこからか金属がぶつかる音が生まれ、それに水音が混じった。
船体が大きく揺れる。
たたまれていたマストが勝手におり、風を受けて大きく広がった。
その様子を操縦室から眺めてトムとジョニーは同時に眉をしかめた。
頭の奥で、なにかが命令するのがわかる。高圧的ではないが有無を言わせぬその威圧感に体が素直に従っている。
「トム」
「なんだ、ジョニー」
「なんか変なんだけど何が変なんだかわからない場合って、どうすればいいのかなぁ」
「安心しろ、オレもだ」
計器のひとつに手が伸びる。
迷いなく動くことに驚いているのはエリオットではなく当の本人たちなのだが、混乱しすぎて止めかたを考えるだけの思考がない。
表面上は平然と、内心はあたふたとしながら泣きそうな顔を見合わせる。
「オレ、祈祷師とか魔術師とか、神様に知り合いいなかったんだけどよ」
「そりゃお前、いたらこんなとこにゃ来てねーさ」
「体、勝手に動いてんだけどよ」
「王子の従者じゃなくて船舶関係に仕事口探すか」
「それもいいなぁ」
話しをすっかり脱線させると新たな気配が接近していることに気付く。二人が視線を計器から船外へと向けると、エリオットも慌ててその視線を追った。
「トム」
「……行けって事か」
二人の視線が川を辿る。神の意思が宿るとされた巨大な運河に
エリオットは息をのんで水面を凝視する。すさまじい速度で近付いてくるそれは、まるで意思があるかのようにまっすぐクイーン・ロザンナ号に向かってきている。
「なんだ?」
思わずうめくその声に、
「アルバ神」
と、ジョニーは反射的に答えていた。
異国の民の中に紛れ込んだ双神のうちの一人。死と再生を司る太古の神。
「神話の時代に異端とされた神」
エリオットがそう口にする。意外と博識なんだなと驚く従者たちは、自分たちのその反応が、自分たちの知識からなる驚きではないことを瞬時に悟った。
片割れはオデオ神。
それを呼び寄せようとした者は――
「ジョニー、なんかとんでもねー事に巻き込まれちまった気がしねぇか?」
「家帰りたいなぁ」
「まったくだ」
エリオットが呆然と光を目で追う姿を眺めながら、トムとジョニーはさらに別のレバーをいくつかさげる。
光が船影に触れる。
「オレ、普通の生活に戻りたい」
「英雄になるんじゃねーのか?」
「普通でいいよ、普通で」
トムとジョニーは奇妙な会話を交わしつつ、慣れた機械を操縦するかのように機器を動かす。状況が呑み込めないエリオットは再び大きく揺れた船体に驚いて身を乗り出すように水面を見た。
激しい水音を立てながら船体が浮く。船底の水を排水しただけにしては異常な上昇に思わず柱にすがりついた。
「いったいなんだ!?」
船影が光を放つ光景に混乱して彼はトムとジョニーに視線を向けた。
「オレも聞きたい」
「オレもぉ」
仏頂面でトムが同意すると、ジョニーは泣き笑いしながら頷いた。
「状況、わかってるんじゃないのか!?」
「いや、さっぱり。おいジョニー、お前どうだ?」
「オレもわかんねーけどよ。ひとまず」
ひょろりとノッポが大きなレバーに手をかける。それを合図に、小男が木製のよく磨きこまれた舵輪を握った。
「道案内にオレたちがいるらしい。最速でリンゴ畑に向かえってよ」
脳裏に刻み込まれる言葉をエリオットに伝え、トムがこめかみを無骨な指で弾いた直後、船体がさらに不自然に浮かんだ。
ジョニーがレバーに全体重をかける。
汽笛のような轟音が鳴り響くと、ぐらりと船体が傾き、すぐにもとの位置に戻った。
エリオットは柱にしがみ付いたまま窓から身を乗り出す。
水面が想像以上に遠い――いや、あまりに遠すぎる。船体が水面の光に照らし出され、少しはなれた位置に船影がくっきりと浮かんだ。
竜骨から大量の水がしたたる。
「んな……ッ」
「出発――!」
威勢のいい二つの掛け声がエリオットの耳に届いた瞬間、空を浮かんだ船は常識をかなぐり捨てて勢いよく飛行を始めた。