act.57  反発


 まじまじと指輪を見て、要はがっくりと項垂れた。
 我が儘なバルトの王女とおそろいの指輪を左手薬指にはめるのは、もちろん気分のいいものではなかったが、しかし、相手が変われば受け入れられるというものでもない。
 この世界に指輪云々の誓約はないかもしれないが。
「オレがなんで結婚指輪をはめるんだ!? しかも次は男か!!」
 この調子で持ち主がコロコロ変わってくれるならその途中で指輪を奪うこともできるだろうが、困惑して自分の手を眺めている紅蓮の髪の男の指からは、とても抜ける兆しがなかった。
 不本意だが、男――トゥエルを見張り、指輪が抜けるのを待つしかない。
 誓約の指輪と言うその名前から、すでに嫌なイメージしか持っていない要は、我が身の不幸をひたすら嘆いていた。
「おかしい、なぜ抜けたんだ? なぜ抜けん」
 自分の指とトゥエルの指を交互に見て、事の発端であるラビアンはしきりと首をひねっている。
「返せ! それは私の物だ」
 ふんっと仁王立ちになって右手をさしだす幼い王女は、相手が父親殺しの大罪を背負う男であることをすっかり忘れているらしい。内心ひやひやしてラビアンを見守っていると、同室していた警護の者たちも同様に落ち着きがないのがわかった。
「……指ごと持っていくか?」
「そんな汚い指などいらん」
 きっぱりと言い切るその姿が勇ましい――が、なにぶん相手が悪い。
 バルトは小国だが、ラビアンはその国のたった一人の王女なのだ。もし何かあったら外交問題になるだろう。ふいに祖国を思い出し、後々のいさかいを思うと他人事ではない気分になる。
 自分に起こった怪事も問題だが、今はラビアンを止めるほうが先と要は判断した。
「いらんか」
 要が口を開いた瞬間、どこか面白そうにトゥエルが笑った。
「ルーゼンベルグの王の指だ。いい記念になる」
「いらん。指輪だけよこせ」
 かざした手を、ラビアンは強引に引き寄せて体を傾けながら指輪を抜こうと悪戦苦闘している。ぎょっとしてそれを見ていると、周りの人間も青ざめていた。
 しかし、トゥエルはどこか面白そうにラビアンを見るだけで、見られている本人も人の心配をよそに指輪回収に没頭している。
「変わった娘だな」
 容姿からして、穏やかな男とは思えない。しかも、まるで腫れ物を触るような周りの対応からも、彼が見た目そのままに広い心の持ち主でないことがわかった。
 しかし、初めこそ従順だったラビアンはすぐに生来のきかん気の強さを発揮して、大国の王の手から指輪を抜こうとしている。
 思わず要も自分の指にはまった指輪に視線を落とした。
 一秒と間をおかず変化する指輪は、自然を切り取ったかのように雄大な景色を描いていた。これほど小さいのに大した物だと思わず感心していると、ドアをノックする音が響き渡った。
 入室の許可を待たず、軽くドアが開いた。
「まぁ!」
 悲鳴にも似た驚きの声に要は視線を上げた。
 両手でドアを押し開き、うら若き女性が目を見開いている。拒絶反応を起こしたくなるゴージャスなドレスが目に痛い。原色の赤いドレスには、金糸で細やかに装飾され、きらきらと輝く石が縫い付けられていた。
 大きく開いている胸元は白い豊かな胸を強調するように絶妙に飾り付けられている。くびれた腰、床掃除に便利そうな長いスカートがわずかな音をたてる。
 衣装に負けないくらい派手な顔の女が唇を尖らせてトゥエルを見詰めた。
「トゥエル様、なんですかその獣!」
 白い鳥の羽で飾り付けられた扇をぱちりと閉じ、ゆるりと手を返してそれでラビアンをさし、心持ち顎を突き出すように問いかける。
 相手を見下す術をよく心得ているその高慢な態度はラビアン以上だ。
 獣と言われて気に障ったのか、ラビアンが真紅の瞳をドアに向けた。
「……まぁ、珍しい」
 白銀の髪に真紅の瞳は、やはりこの国でも稀なのだろう。つかつかと歩み寄って、女は閉じた扇でラビアンの顎をすくって上向かせた。
「どこで買いましたの、トゥエル様。わたくしにくださらない?」
「下賎者が触れるな」
 低くつぶやきラビアンが顎を引いた。瞬時に白い指先が扇を払うと、女は目を瞬いて床に落ちた扇とラビアンを見比べた。
「気の強いこと」
 気にした様子もなく艶やかに笑うその姿はまさにお嬢様だ。しかも高飛車だ。ラビアン以上に失礼な女がいるとは思いもよらず、要は軽く眩暈を覚えてよろめいた。
とぎには幼くありませんこと?」
「バルトの王女に向かってずいぶんな口を利くな」
「バルト?」
 唐突に口を開いたトゥエルに、女は怪訝そうに眉をひそめた。
「聞きませんわね。おおかた田舎の小国でしょう」
「その通りだ」
 喉の奥で低く笑うと、いで彼はわずかに顔をしかめた。不審に思って彼を見ると、ラビアンが指輪のはまっている薬指を有らぬ方向に曲げようと苦心している真っ最中である。
「奴隷ですの? では、譲っていただけませんかしら。お金ならお望みの額を」
「――いや」
 何かを考えるように間を空け、彼は好き勝手させていた手を前触れなく握る。
「これには使い道がある。そっちの奴隷にもな」
 話を振られるといくつもの視線が要に向けられて彼はうろたえた。奴隷という言葉に反発するよりも先に、体に起こった変化を悟られてはまずいと直感が働く。
 バルト王は友好的な男だったからよかったものの、目の前の男からそんな空気は読み取れなかった。神様に体を乗っ取られかけたと言おうものなら、どんな扱いを受けるかわかったもんじゃない。
「オレは奴隷じゃない」
 ひとまず意思表示はしておこうと考えて口を開くと、女がにっこりと笑った。
「あら、ではこちらも伽用?」
「伽?」
「夜のお相手」
「なん……」
「別段珍しいことじゃありませんわ。わたくしも幾人か所有しておりますのよ」
 とんでもない事を言ってコロコロと笑う。邪気がない分、性質が悪い。
 トゥエルはそんな女を見てからおもむろにラビアンを見下ろした。
「そっちには興味はないが、こっちは面白そうだ。オレの子を生んでみるか?」
「お前、噂も最低なら趣味も最悪か」
 ようやくあきらめたようで、ラビアンはトゥエルの指輪から手を放して不機嫌そうに返す。普通なら避けて通るだろう噂話をあえて引っ張り出すあたり、並みの神経とは思えない。
 要は自分がいかに「庶民」であるかを再確認しながら、いじくりまわしていた指輪から手を放した。
 誓約の指輪は抜けそうにない。
 溜め息とともに周りを見渡すと、ふと、その視線が窓で止まった。
 小さな揺らめきがそこに見えた。
 要は目を凝らす。
 姿の見えない女のものとは少し違うが、その気配が妙に似ている。なんだろうと足を踏み出した瞬間、揺らめく空間が消え――
「陸」
 知らず、幼なじみの名を呼んだ。きっとあの奇抜な格好でまだ海賊船にいるに違いない。そう思ったが、目の前に広がる光景は要の想像とはまったく違っていた。
 黒煙と白煙を吐き出す船から、厳つい男たちが水面に飛び降りるのが見える。悲鳴をあげるようにきしむ船はわずかに傾いていた。
 要が息をのむ。
 よく知る気配がある。ひとつは幼なじみである陸のもの。
 そして、もうひとつは――
「よせ」
 要はうめいた。
 もうひとつの気配が急激に強くなった。
 圧倒的な存在感が、重苦しいほど空気に満ちる。
「アルバ神」
 要の意思に反して口が動く。動揺する彼とは裏腹に、その口元が引きあがる。
「呼べ。我が力の源、我が半身」
 やめろ、と叫ぶ声さえねじ伏せられた。体を動かすことさえままならず、要は傾く船体を凝視する。
「呼べ」
 自分の意思の伴わない言葉が彼の口から吐き出される。その意味するところ悟り、驚愕した。何かに反応するように、彼の中に眠る破壊神と呼ばれたものが大きく膨れ上がっていく。
 眼界の船が悲鳴をあげる。
「さぁ、何をためらう。抗うな――抗うならば」
 船体を炎が舐める。そこから離れようと苦戦する人々が、何かに気付いたように絶叫した。
 要の腕が空気を凪いだ。水面に巨大な陰影が落ちると男が一人水中に引きずり込まれた。
 水が赤く染まる。
 要は目を見開いた。水中で大きく体をくねらせたのは、まるで蛇のようななにか≠セった。
 指が軽く動くたび、男が水中に引きずり込まれる。広がる赤に混乱が加速する。水中にいるモノは、次々と男たちを水中へと引きずりこんでいく。
「やめろ――!!」
 悲鳴をあげた刹那、船体の内部から激しい音が聞こえてきた。要が目を見張ると、海賊船は跡形もなく崩れ去り、気泡が広がった。
 水中の巨大な影も同時に消え、水面に細かな泡が現れては消える。
たり」
 要の中でオデオ神が笑う。その瞳には、見た事もない表情で水面をゆるりと歩く幼なじみの姿があった。


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