act.55  戦い


 白煙に包まれた廊下をヨロヨロと歩く。煙が目にしみて涙がこぼれたが、あいにく両手はふさがっていたので陸は目を瞬いて唇を噛んだ。
 二つの命が今、彼の手の中にある。激しく咳き込むココロを励まし、その逆に、息をしているのかどうかも怪しいリスティの腕を強く握った。
 煙は階段を辿って上層へと移動している。ふと見上げると何か言い争うような声が耳朶を打った。
 陸はよろめくココロをささえて階段をあがる。声はさらに大きくなり、それとは別に、耳障りな音が重なった。
 悲鳴のような――そう思って白い煙を振り返る。船が揺れるたびに響く音は、煙とともに確実に大きくなる。
 陸は息をのんだ。
 悲鳴に似たその音は、船底か、あるいは船全体から響いてきたものか。
 嫌な予想を払うように首を振ると、陸は視界をかすめた何かに動きをとめる。
「あれ……」
 廊下の天井に不自然な亀裂が入っている。陸はそこを凝視して手を伸ばしてみたがさすがに届かなかった。
 隣を見ると、ココロも同じ場所を見詰めていた。
「飛べるか?」
 問う声にココロが頷く。よしと呟いて、陸は彼女の手を強く握ってからわずかに身を沈めた彼女に合わせるように腕を引っぱった。
 大きな羽が広がる。服の下には何もつけていないことを思い出し、陸は慌てて顔を背けた。
 瞬間、鈍い音がする。
 陸は顔を上げ、木の切れ端を抱きかかえたまま落下するココロに唖然とした。現状を把握するよりも早く、陸の手がココロに伸びる。身を低くして滑るように体の向きを変え、彼は少女を胸の中へ納めてホッと息を吐いた。
 ココロは天井の穴を見詰める。どうやら上の階へと通じているらしい。
「大丈夫か?」
 彼女の体とリスティの体に怪我がないことを確認し、大量の煙が吸い込まれていく空洞に視線をやる。
「あそこに行かないとな」
「あそこ」
「上の階だ」
「うん」
 大きく頷いてココロは立ち上がった。続いて立とうとして、陸は思わず小さくうめいた。
「りく?」
 声に驚いたらしいココロが息を吸い込んでむせる。
 慌てて彼女の口に布を押し当てたが、布の間からひどく苦しそうな咳が繰り返されていた。
 陸は辺りを見渡す。よどみ始めた煙が視界を刻々と奪っていく。
 ココロは幸い背が低いからまだ煙を吸う量も少ないが、それで安心できるような状況でないことはわかっていた。逃げ遅れた人間がいれば最短コースで甲板に出られたのだが、なにせこれは海賊船なのだ。侵入者を混乱させるための小さな罠がいくつも仕掛けてある。船内での乱闘も考慮に入れてか、それはさながら迷路のようだった。
 通路を突き進み、行き止まりに何度もぶち当たる。もっとよく船内を見ておくんだったという後悔が胸の奥で膨らんできたが、それらはすべてあとの祭りだ。
 せめて――
 陸はココロを見た。
 真っ赤な顔をして咳を懸命にこらえながら白煙を凝視する子供。きちんとたたまれた純白の羽は巻き上がったすすで汚れ、なんだかそれが妙に惜しい気がした。
 思わずパタパタと煤を払ったら、ココロが驚いたように真っ赤な目を丸くして陸を見上げる。
 少し近くなったその頭をくしゃりと撫で、陸は笑みを浮かべる。
「先に行け」
 短い言葉に、ココロは小首を傾げた。言葉の意味を理解しようとするように、ココロは何度も口の中で陸の言葉を反芻する。
 それから、まっすぐ顔をあげて首を左右に振った。
 キメラであるココロに、どれほど理解力があるかはわからない。だが、その答えはよく考え、そして出されたものであることはわかる。
「いいか? オレはこの姉さん担いでるから無茶できないんだ。ココロ、先に出口に行って、誰か呼んでくれるか?」
 平静を装い、ゆっくりと告げる。それを聞き、ココロはまるで真実を見極めようとするかのような真剣な眼差しで陸を見詰めた。
「な? 誰か呼んでくれ。甲板に行くんだ――船の上だ。わかるな?」
 ココロはきゅっと唇を引き結んで小さくうなずいた。陸の口から安堵の息がもれる。
 今、自分たちがどこにいるかはわからない。窓があればよかったのだが、目に付くのはハメ殺しの明り取り用に作られた小さなものばかりだ。通路は入り組み、視界の悪さから何度同じ道を通ったのかすらわからなかった。
 言い争う声はときに大きく、時に小さくなるが、呼びかけても反応がない。答えるのは、船を揺るがす不気味な音だけだ。
 ココロだけなら、なんとかなるかもしれない。
 陸はもう一度頭を撫でる。ココロは身体能力が並外れている。この迷路には普通に歩ける場所もいくつかあったが、明らかに侵入者を拒むために作られたらしい通路の痕跡が残っていた。
 天井にぽかりと開いた穴は上に通じる通路のひとつ。たぶんどこかをどうにかすれば開くのだろうが、さすがにこの状況ではのんびりと探索する気にはなれなかった。
 陸はココロに手を差し出す。戸惑うような表情でココロがその手をとる。目で合図を送って、反動をつけた体の手助けをするように頭上に開いた穴へとその体を押し上げた。
 どこかに激痛が走る。
 陸は息を詰め、歯を食いしばってから顔をあげた。
「りく」
「大丈夫だ。早く行って、人を呼んできてくれ」
「――うん」
 不安そうにしながらも、ココロは顔を引っ込めた。小さな足音が遠ざかるのを耳にして、ようやく彼は呻き声をあげた。
「ヤバ、アバラか!? 肋骨か!? 要に行かなくてよかったぁ」
 ダラダラと脂汗が流れる。鏡がなくても自分が蒼白であることはわかった。表面上の怪我なら応急処置はいくらでもできるが、こういった怪我の治療方法はまったくわからなかった。
 足を踏み出すたびに体の奥がひどく痛む。呼吸をすることすら苦しく、彼はおぼつかない足取りで歩き始めた。
「ゴメン、お姉さん。なんかヤバそう。窓ないかなぁ、窓。ああ、でもずっと気を失ってたらもっとヤバイ」
 ぐるりと世界が反転する。
 陸はとっさに壁に手を付き呼吸を整えた。脳天に響くような激痛――それでも、かろうじて意識を失わずに歩くことができた。
 甲板に出られれば、ココロは助かる。たとえ助けを呼んだとしても、誰も来てくれないことは予想できていた。
 けれど、ココロは助かる。
 船の中に戻ろうとしても、きっと誰かが止めてくれるに違いない。この悲鳴をあげ続ける船体は間もなく水底に沈む。
「ヤバいよなぁ」
 溜め息とともに足を踏み出すと、奇妙な音と感触が足の裏から伝わって来た。
「え?」
 しまったと思った瞬間、リスティを庇いきれないことに気づく。このまま落ちれば骨の一本や二本では済まされないかもしれない。体を反転させようとした刹那、ふっと体が軽くなった。
 陸は目を見張る。落下したはずの体は空中に漂うように止まっていた。
 ――我が依代よりしろ
 静かに響く声に陸は思わず辺りを見渡した。しかし、人の気配がしない。
 ――我が力の源。小さき命を助けたいか? 助けたくば、手を貸せ。
 ――なんだ、あんた!? ってゆーか、何したんだ!?
 船があげる悲鳴も今は遥かに遠い。ゆらりとただよう自分の体に狼狽し、陸は怒鳴るように問いかけた。しかし、声は動じた様子もなく淡々としている。
 ――太古に神と呼ばれし者。その力の一部。
 ――誰?
 ――異端の双神。我が名はアルバ。太古の神なり。
 ――神さま!?
 思わず返すと、声は小さく満足げに笑った。
 ――手を貸せ。その体を貸せ。
 唐突な請求にぴくりと陸が体を揺らす。ひどく嫌な単語を吐き出された気がする。彼はとっさに口を開いた。
 ――必要ない。
 ――多くの命がかかっている。それを助けることができる。
 ――……あんたの力は借りたくない。
 低く返す。相手から漂ってくるのは威圧感だ。体を差し出し従えと、声はそう言っているような気がしてならない。
 ――断る。
 ――よかろう。
 陸の答えに間髪を容れずに声が応じた。直後、重力が戻る。
 陸はとっさにリスティを守ろうとしたが、もともとの体勢のせいもあってうまくいかない。まるでコマ送りのように床が近づいて来た。
 このまま落ちれば、リスティに陸の全体重がかかってしまう。守るどころか大怪我をさせる確率のほうが遥かに高い。
 ――助けてくれ……!
 絶叫した。
 それが相手の望む行為だとわかっていたが、助けを求めなければどうなってしまうかもまた、陸にはよくわかっていた。
 不意に眼前が白くなる。
 その直後、巨大な船体は一瞬にして気泡と化した。


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