act.54  羨望


 いま自分たちがいる場所を確認しながら、従者二人は空をあおいだ。
 運河に沿って延々と続く森は途切れる気配すらない。対岸すらまともに見えないこの状況では、現在地を把握することすら容易ではない。
「ここどこなんだ?」
 確かイリジアの船着場に停泊すると聞いていたが、彼らの持つ情報はその程度だった。
「バルトだ」
 前を行く半裸の男が首だけひねってそう答えた。
 以前、酒場で聞いたその名前にトムとジョニーは目を丸くした。
「じゃあイリジアは?」
「対岸。ここはバルトの領土だ」
 トムとジョニーは必死で記憶をたぐり寄せる。酒場で英雄談よろしく旅の話を披露していた酔っぱらいは、古めかしい地図を広げて自慢話に明け暮れていた。
 その中に、バルトの名も確かに存在した。
 国王は病の床に伏し、はねっかえりの王女が我が物顔で闊歩する興ったばかりの小国。
 薄汚れたテーブルの上に広げられた地図を必死で頭の中に描き、二人は絶句した。
 ここがバルトの領土なら、ニュードルの中でも南部に位置しているリンゴ畑は遊覧船で一日という距離にある。
 それはひどく近いような数字であるが、バルトの国名がニュードルに聞こえた例などないほど実際にはまったく近くなどない。
 多くの川や谷が土地と土地を寸断しているのだ。陸路は困難で、かといって暇をもてあました金持ちの観光客以外でバルトなどというなんの魅力もない小国へわざわざ船を出す馬鹿もいない。
 酒場で雄弁に語っていた男は、陸路の過酷さと素晴らしさを二人に伝えていた。
 もしもこれがのんびりとした旅なら、迂回路を探し、道々で小さな村に立ち寄ってさぞや楽しいものとなるだろう。
 だが、状況はどちらかというなら切迫している。
「どうするよ」
「どうするって言ってもなぁ」
 エリオットを魔術師のもとに案内するには、まずニュードルまで行かなければならない。それははっきりとわかっているのだが、そのためには時間と労力がどうしても足りない。
「急いだほうがいいんだろ?」
 前を行く半裸の男は傍目から見ても慌てている。案内すると決めたからには最善の道を歩くべきだし、神だのキメラだのがかかわってくる一大事に悠長に構えられるほどふてぶてしくはない。
 長いものには巻かれろ精神の二人は、エリオットについて歩きながらうなっている。
「船があると助かるんだけどなぁ」
 ボソリとジョニーがこぼした。
「クイーン・ロザンナ号、どこ行っちゃったのかなぁ」
「……船着場は、あるんじゃねーのか?」
 はたと気付き、運河を見た。わざわざクイーン・ロザンナ号を探すまでもなく、その船が目指していた場所を見つければいい。いくら小さな国と言っても、船が目的地として予定していたのなら船着場がないはずはないのだ。
 なるほどと納得して前方を見る。川沿いを歩いてきたことが役に立った。
「でも船が――」
「停まってる」
「そうそう、停まってねーと」
「だから、停まってる」
 エリオットは振り向きながら微妙な角度を指さした。
 それは見当はずれに森に向かっている。蛇行した川を見てからエリオットの指差す方向に顔を向け、トムは目をこすり、ジョニーは目を凝らした。
 そして、小さく声をあげる。
 木々に隠れてはいるが、マストの先端がわずかに覗いていた。
 船がある。しかもここから確認できるなら、それは決して小船という部類のものではない。見覚えのあるマストにトムとジョニーは歓喜した。
「クイーン・ロザンナ号!!」
 船首に微妙な彫刻を掲げ、マストも品性の欠片すらうかがい見ることのできないハリボテの豪華客船。初めのころはどんな感性だとあきれもしたが、今は何より心強かった。
「なんで乗り捨ててあるんだ!?」
 何の話だと言いたげにエリオットは振り返った。それでようやく、自分たちがどうしてずぶ濡れで川沿いを歩いていたのか、どうして移動するための足が必要だったのかを説明した。
「なるほど」
「動いてないよな? あれ、人乗ってないよな?」
 船が一隻しかないことをマストで確認し、トムは小首を傾げた。乗り捨てる意味がわからなかったのだ。
「いらなくなったからだろ。どうせ目ぼしいものなんて何も残ってないぞ」
「そりゃそうだけどよ、じゃぁオレたち川に突き落とされることなかったじゃないか?」
「あとを追ってこられちゃ困る――殺さなかっただけ、船に火をつけられなかっただけ、良心的だったんじゃないのか?」
 あっさりとそう返したエリオットに、トムとジョニーは感心したような目を向けた。
「あそこ、人がいると思うか?」
「いないだろうな。意味がない。戦利品をもって、とっくにアジトに戻ってる」
 再びトムとジョニーは感心する。
 気持ちがいいほどスッパリした返答だ。そして、なんとなく信用したくなる力強さがある。
「カッコいいなぁ」
 人生控えめなジョニーは羨望の目でつぶやく。確かに頼もしく思えるので、トムも頷いた。
「問題は、船が動かせるかってことだ」
「ああそれなら」
 トムの言葉に、エリオットは豪快な笑みを浮かべた。
「問題ない。だいたいの船は操縦できる」
 従者二人は盛大な拍手で半裸の男を褒めていた。その格好さえまともになれば、なかなかいいかもしれないぞと余計な事を心の中でつぶやきながら。


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