act.53  かみなり


 ゆらゆらと、闇の狭間で闇よりなお暗いものが揺らめいていた。
 それは一見、ひどく近い場所での出来事であるかのようだった。しかし、要は瞬時に理解する。ソレと自分との間にある、無限の距離を。
 彼は安堵した。
 これだけの距離があれば、そう簡単には追いつかれないだろう――漠然と考え、吐息をつく。
 しかし、揺らめくものは瞬くよりも早く彼の目の前に移動した。
「な……」
 逃げることすら許さない圧倒的な闇が人の形をもち、混乱する要に手をのばしてきた。
 ああ、と心の中でうめく。
 この手に一度触れられたのだ。二度目のそれは、一度目とは意味が違う。彼≠ヘ自由になる器を求めている。
 そして器の半分は、すでに彼が掌握している。
「口惜しい。不完全な力では、器ひとつ、自由にはならぬか」
 低く、うめくように彼が呟く。
「――オデオ神」
 破壊と創造をつかさどる神であるにもかかわらず、負の名で呼ばれ続けられるもの。要の中に宿る、神話の時代の神。
「これは、オレの体だ」
 重い足を上げ、要はようやく半歩、闇から離れた。闇が顔をあげる。青白いそこには虚を映す空洞が二つ開いていた。
 その空洞が細まる。まるで笑みを浮かべるように。
「ひとときなら、その器を御せる。アルバ神の邪魔がなければ、あるいは永遠に」
 要はさらに半歩、二つの小さな空洞を睨みつけながら後退した。走り出したい衝動と、逃げてはいけないという思いが葛藤する。
 要はそのどちらにも応えられずに眼前を睨みすえる。
 膠着状態が続いた。
 息をつく隙さえ与えてくれない闇は、余裕の表情を崩す気配がない。
「おい!」
 唐突に、世界が震えた。
「おい!! 誰か医者を呼んでくれ!」
 少女の声が世界を揺るがせ、世界が激しくぶれた。
「要! 起きろ、この馬鹿者――!!」
 鋭い痛み。
 闇に細い亀裂が入り、それが強引とも言えるほどの速度で広がった。
 視界に鮮やかな真紅の瞳が飛び込んできた。白銀の髪に縁取られた顔は、切迫した表情で要を見詰め、ホッとしたように緩んだ。
 彼女は振り返り、少し離れた位置で動向を見守っていたトゥエルを睨みつけた。
「妙なものを見せるな! コイツは――コイツは病弱なんだ! 心臓が止まったらどうしてくれる!!」
 もっと他の理由をつけて欲しかったが、要はあえて口を開くことはしなかった。
 体を起こし、どこかの部屋のソファーで寝かされていることを確認する。体をまさぐり、ひとまず自分が動かしている≠アとに安心した。
 痛む頬に手をやってそれが闇に亀裂を作った原因だと確認する。文句を言いたいのは山々だが、今はそれに助けられたので溜め息だけにとどまった。
 破壊神は要の中にいる。だが、いつでも簡単に出てこられるわけではない。
「きっかけが必要、か」
 ガラスのはめ込まれていない鏡が引き金となった。一瞬途切れた意識は夢を経て現在へと繋がっている。
「鏡見た後、オレ、なんかした?」
 恐る恐る問いかけると、ラビアンは怪訝そうに首を傾げた。
「アルバ神に会いに行くと言って部屋を出て、廊下で昏倒」
 格好悪い、と、要はつくづく思う。
「覚えてないのか?」
「……いや、そういうわけじゃ……」
 どう答えたものかと考え込んでいるとトゥエルが近づいてきて、要は慌てて言葉を呑み込んだ。
「アルバ神が降りたか」
 褐色の男は険しい表情でつぶやく。
「お前は誰だ?」
「私の奴隷だ」
 トゥエルの問いにラビアンが割り込んできた。
「証拠もあるぞ! 見ろ、誓約の指輪だ。私が主人でこいつが奴隷。奴隷の一人や二人でグダグダ言うな」
「……誓約の指輪? 神の、遺物か」
 誇らしげに左手をトゥエルに突き出したラビアンを見て、要は頭を抱えたくなった。左手の薬指にはめられた指輪――たとえこっちと自分たちの住む世界とは意味が違っていたとしても、ハプニングで付けたいものではない。
「ほう」
 トゥエルは瞳を細めて少女の指輪を観察する。抜こうとするのを見て、ニヤリと笑った。
「簡単には抜けんぞ。なにせ誓約の指輪――」
 言葉を言い終わる前に、ラビアンの指からするりと指輪が抜けた。明らかにサイズの変わったそれをトゥエルは光にかざす。
「どうして抜けるんだ!?」
 慌てふためくラビアンとは対照的に、トゥエルはどこかつまらなそうにその指輪を彼女に習って左手の薬指にはめた。
 要は唖然とそれを見守ってから自分の左手の薬指に手をかけた。きっちりと指に食い込んでいる指輪は、相変わらず微動だにすることなく様々な模様を刻んでいる。
「……抜けんな」
 しばらくしてから、愕然と己の指を見おろす要の耳に、どこか困ったようなトゥエルの声が聞こえてきた。


←act.52  Top  act.54→