act.44  飛んだ


 ひとまずココロから五歩離れ、陸は背を向けた。
 心臓がバクバク脈打っている。
 少し成長しただけの、実際には弟たちと同じくらいの少女にときめくなんて、変態としか思えない。そんな性癖はなかったはずだと自分に言い聞かせ、陸は周りの奇異の視線すら気付かずに大きく何度も深呼吸した。
 気の迷いは冷静になれば吹っ切れるはずだ。
 それに、こんなことで時間をつぶしている場合ではない。さっさとこの部屋から抜け出さないと、あとあと面倒になることなど目に見えている。
「よし」
 気合を入れるように頷いて、陸は振り返った。
 その視界に、不安そうなココロの姿が映る。陸が視線を向けると、不安顔は瞬く間に笑顔に変わった。
 それを目の当たりにして、陸はさらに三歩後退する。
 一体いつ成長したのだろう。
 きっと寝ている間だ。寝る子は育つというし、だから一晩であそこまで変わったんだ。
「でも動悸がドキドキしたら立派な変態さん――!!」
 すでに自分でも何が言いたいのかわからない彼はそう叫ぶなりうずくまった。
 異常な成長速度に対する疑問も、翼の変化も今の彼にとってはたいした問題ではないらしい。
 彼にとっての問題は、小首を傾げながら近づいてくる少女が、確実に恋愛対象の枠に入っている点だ。
「お巡りさんごめんなさい〜ッ オレは変態です――!!」
 どうしても昨日のイメージが抜けず、陸は床に向かって叫ぶ。睨みつけるように見詰めていた床をココロの小さな足がペタペタと踏んだ。
「ど、どどどうするこの場合。カミングアウト?」
 しゃがんで顔を覗き込んでくるココロにちらりと視線をやって、陸は肩を落とした。どう見たって可愛い気がしてしまう。
 自覚すればするほど泥沼にはまっていく感じがした。
「うぅ〜」
「あのさぁ」
 低くうなる陸をまじまじと見詰めていた男が口を開いた。だが、すでに自分のことで手いっぱいの陸はその声を見事に聞き逃す。
「でもこのまま順調に育ったら普通っぽいか!?」
「キメラと人は、同じ時間を共有することはないだろ。どうしたって短いんだ」
 ぶっきら棒にかけられる声に陸が顔をあげた。一番にココロの笑顔にぶち当たって思わず不自然な笑顔を作って応対し、彼はすぐに胡坐をかく船長≠見詰めた。
「短いってなにが――」
 問いかけの途中で、陸は身を乗り出した。
「あんた! 日本語話せるんじゃん!?」
「あ?」
「日本語! だったら初めから話せよぉ」
 脱力してうめくと、男は首をひねった。
「日本語?」
「いま話してる……」
「……日本語ではありません」
 男と陸の会話に静かに割り込む声があった。
 慌てて視線をめぐらせると、リスティが緊張したように陸を見詰めていた。
「彼が話しているのはフロリアム大陸の共通語です」
「え? でも」
「貴方が話す言葉はなんですか?」
 唐突な質問に、陸は言葉を失った。
 日本語を話しているはずだ。昨日となんら変わらない言葉を、今も使っているはずだ。そう思いながらも、その手は知らずに自分の喉元を押さえていた。
「オレの、言葉……?」
 言葉がブレる。耳馴染んだはずのそれは、奇妙な発音となって耳の奥で木霊していた。
「なんだよ、これ……」
 自分の声がいくつも重なって聞こえてきた。その中には日本語も含まれている。
 ようやくその身に起きている異常事態に気付き、陸はこめかみを押さえた。
「りく」
 その腕にすがるようにココロが覗き込んでくる。そういえば交番を探し忘れたなと考えて、のん気な自分に苦笑を漏らした。
「大丈夫だ」
 手をのばしてくしゃくしゃと少女の髪を撫でると、背後の羽が服の下で窮屈そうに動くのがわかった。
 考え込んでいる暇はない。
「オレ、たぶん今ちょっとおかしいから」
 断言して笑うと、リスティと男は驚いたように目を丸くした。
「そのうち治るとは思うけど、今は便利がいいからこのままにしとく。そんでオッサン、あんたなんでこんな所にいるの?」
 陸はココロを引き寄せながらそう問いかけた。男は海賊船の船長――つまり、旅客船を襲っていた野蛮人たちのボスなのだ。甲板で何らかのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。
 すでに一度面識のある男は、頭をかいた。
「色々大人の事情があるんだよ」
 どうやら言いたくないらしい。
 どうせたいした事ないんだろうなと思いながら陸はココロの背中を見た。むずむずと翼が動いている。
 一瞬考えてから楽にさせてやろうと服に手をかけた。
 幸い布地は薄い。何か切れるものはないかと甲冑を探る。
「お前こそ、どうしてその鎧を着てる?」
 さすがに偽物という事はばれているらしい。陸は小さく溜め息をついて甲冑から手を離す。
「通りがかったお兄さんからちょっと借りたんだ。まずかった?」
 開き直って問いかけながら、翼の位置を確認しながら布地をつまむ。ぐっと左右に引くと、ずいぶん脆いらしい布地が伸びるのがわかった。
「まずいって、お前……」
 男が呆れたようにそう呟いた時、ココロの着る服の布が小さく音を立てた。何だ意外と簡単に裂けるんじゃないかと苦笑すると、裂けた穴に手を突っ込んで翼に触れる。
 驚いたように振り向くココロにじっとしていろと伝えて翼を引き抜くと、手の中のそれが不自然にずるりと伸びた。
「……え?」
 手の中で翼が形を変える。
 小さく羽ばたくのみだったそれが一つ空気をかぐと大きな風のうねりが生じた。
「え、えぇえ!?」
 思わずもう片翼を穴から引き抜くと、それも同様に手の中でずるりと伸びる奇妙な感覚があった。
 ほんの一瞬で少女の背丈ほども成長した翼は、とても今まで服に納まっていたとは思えない。茫然とココロを見ると、それ以上に驚いているらしいあどけない顔にぶつかった。
「やっぱ天使……」
 溜め息のように言葉を吐き出すと、ココロが大きく翼を羽ばたかせる。
「……飛べるか、ココロ」
 はるか頭上を指差すと、ココロは何度か翼をばたつかせてから頷いた。その姿に微笑して、唖然と見詰めるリスティと男の前で陸はココロの体を支える。
 大きく羽ばたくそのタイミングにあわせ、その体を押し上げる。
 ココロの体は傾きはしたものの、確かに空中を飛んで窓へと辿り着いた。
 それを見上げていた陸は、瞬く間に笑顔を凍らせてよろめく。
「しまった、パンツはいてなかった」
 ああゴメンなんて、ちょっと間抜けに心の中で懺悔していた。


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