act.35  意味


 王都ルーゼンベルグが誇る最速の船は巨大な運河を快適に航行している。
「トゥエル様、問題が起こりました」
 シーツの海に沈んでいた褐色の肌の男は、そう告げる硬質な女の声で薄く目を開けた。
 かすむ視界に重要な部位のみを守っている甲冑をまとう女が入る。鍛練の賜物たまものだろうひきしまったその体からは、女らしい柔らかさを感じることはできない。
 金髪碧眼で整った顔立ちではあるが、そこにいるのは守られるばかりの女ではなく、自らの力で戦い、今を生き抜いていこうとする一人の戦士だった。
「ジョゼッタ」
 掠れた声で女の名を呼ぶと、彼女は小さく会釈をしてから口を開いた。
「前方に海賊船があり、民間の船が襲われているようです」
「……」
「救助しますか?」
 ジョゼッタの問いに、トゥエルはふと口元を歪めた。
「捨て置け。先を急ぐ」
 女の表情が一瞬曇った。しかしトゥエルはあえてそれに気付かないふりをしてゆっくり体を起こす。上等なシーツが褐色の肌を流れるように滑り落ちた。
「失礼します」
 硬い声でそう告げ、ジョゼッタは部屋を後にした。
 トゥエルはしばらくドアを見詰め、それから机の引き出しを開けるとそこから双眼鏡を取り出して窓の外に向けた。
 ぼやける視界をこらし、メモリを調節すると小さな船影が二つ見えた。
「――青いな。ワンズの船か」
 そう呟いて、注視する。
 青い船体は一見民間の船のようだが、その内部構造はまったく違う。通常の機動力は風に頼るものの、いざという時には人力を、さらに必要とあらばそれ以上のものを用意している。
 王都ルーゼンベルグが極秘裏に作った海賊船。
「あれが船長を務めるなら問題なかろう」
 あの船は腕が立ち、人のいい、忠義に厚い男が指揮をとっている。多少のトラブルこそあれ、大きな問題を抱えることはないだろう。
 内情を探らせるために使者も一人送っている。その男から何の連絡も入っていないことからも、トゥエルはそう判断した。
 義賊として陸と川を制する猛者――
 それは、窮地にたつ王都ルーゼンベルグが作り出した盗賊。彼が治める国は、そこまで堕ちていた。
「まだ金が足りん」
 今以上に国民から税を徴収すればどうなるか、その結論はすでに出ている。
 だがこのままでは国の機関そのものが麻痺し、そう遠くない未来に破綻するだろう。王都ルーゼンベルグの力が失われた時、表層しか見ようとしなかった前王たちが行ってきた悪行のつけは国民にも及ぶ。
 他国がどう動くかなど、考えるまでもないことだった。
 父を討ったのは、このままでは確実に王都ルーゼンベルグが滅ぶと確信したからだ。それを止めるためにとった行為を非難され、父殺しと罵られようと心は痛まなかった。
 前王たちの罪の一切を受けるつもりなどないが、王家に生まれた者として、己の責務はまっとうするつもりでいる。
 どうせ残り少ない人生だ。
 そのくらいの善行はしておいてやろうと、彼は小さく笑った。
 有り余る金で遊び暮らす者たちから徴収したもので国を建て直し、新たな王を迎える準備を――
 そう、あの国には新たな支配者が必要だ。
 彼に子はない。
 王家の血は彼の代で途絶える。
 けれど、王都ルーゼンベルグは存在し続けなければならない。そこに住む民のために。
 彼は双眼鏡をおろそうとし、ふと視界に入ったものが気になってもう一度窓の外を見た。
 白い物が川沿いを歩いている。
「……ほう、珍しい」
 トゥエルは口元を歪めるようにして笑った。バルトの王女は雪のように白い髪に、陶器のような肌、そして赤い瞳を持った――かなりのはねっかえりと耳にした。
 双眼鏡に映るその容姿は王女と言うより旅の少年風だ。長い白銀の髪を一つに縛り、簡素な服を着て肩に小さな荷物の入った袋を引っ掛けてずんずん歩いている。
「はねっかえり、か」
 同じ容姿の者がそう多いとは思えない。あれが王女である確率は限りなく高い。彼女は少年を連れ、急ぎ足でどこかに向かっている。
「誰か!」
 トゥエルはドアに向かって声をあげ、もう一度双眼鏡を覗き込んだ。
「あれを捕まえれば、交渉の役に立つ」
 まだおこったばかりのその国の王妃は病ですでに命を落としており、彼女に兄弟はいないという話だった。
 国王はさぞ娘を大切に育てていることだろう。
「王女を捕らえて、神を差し出させるか」
 王女とともにいるのが誰≠ネのかも知らぬまま、王都ルーゼンベルグの若き支配者は獲物を狙う肉食獣のように鋭い黒瞳をすうっと細めた。


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