act.34  タイル


 突然聞こえてきた悲鳴に、リスティはピクリと肩を揺らした。
 不気味な鈍い音とともに床がわずかに揺れるのがわかり、リスティは慌ててカーンとメリーナを抱き寄せる。
 随分遠くに見えた青い船体はすでに窓のすぐ外に見える。船体から突き出したオールは確実に水を掻き、水面を滑るかのような異様な速度で二隻の船の距離を埋めた。
 青い船体には、赤い斑模様が描かれている。
 リスティは運河と森、双方を縄張りにする盗賊団がいると耳にしたことがあった。
 彼らは見た事もない赤い斑のついた青い毛皮を愛用し、金持ちを襲っては金品を強奪しているという話だった。
 盗賊団の多くは金品を強奪したあと証拠を消す目的で、居合わせた人々を例外なく殺害していた。しかし、彼らは無闇に人の命を奪うことなく、死傷者をあまり出さないことから一部では義賊と呼ばれている。
 だが、人々に害を成すというその事実は変わらない。
「リスティ」
 前触れもなく扉が開く。
 一瞬体をこわばらせたリスティは、ドアを開けたのが見知った顔であることにホッと息をついた。
「賊と接触したらしい。お前のボディガード……レイラを借りるぞ」
 ドアを開けた主、クラウスはベルトに鞘を固定しながらそう続けた。普段はただの小うるさい王子だが、この状態で動揺を見せないあたり、一応それなりに腕には覚えがあるようだ。
 鈍く響いた音に彼はちらりと天井を見た。
「リスティ様」
 ドアの隙間から、男も青くなるほど見事な体躯の大女が顔を覗かせている。
「頼みます、レイラ」
「はい!」
 声をかけると、大女は背筋を伸ばした。
 その姿に少しだけ微笑んで、リスティはクラウスを見る。
「――あまり、無理をされませんように」
 リスティは美しいものが好きで、クラウスの見事な金糸の髪と鮮やかな紫の目を気に入っている。今回の旅の同行は、あわよくばそれを手に入れるためだったのだが、好機が目の前にあるというのに不意に口をついたのはそんな言葉だった。
 自分の言った言葉に少し驚いていると、クラウスも同じように驚いた顔でリスティを見詰め返していた。
「わかっている」
 そしてゆっくりそう返し、その顔を廊下に向ける。
「お前たちはどこかに隠れていろ。あれは義賊と名だたる者どもだが――」
 クラウスは剣を抜く。
「賊は賊だ。その末端まで統率できているとは思えん」
 最悪命を落とすこともあると、その声が声なくして語る。
 廊下を駆け抜けるのは悲鳴と怒声、何かを破壊する激しい音。それらを耳にして、リスティは二人の異形の子供の肩を抱く手に力を込め、小さく頷いた。
「リスティ」
 クラウスがドアを閉めると、怯えたような目でメリーナが見上げてくる。
 入り乱れる音が木製のドア越しにわずかにこもっている。しかし、普通とは違う子供たちの耳には、それらがはっきりと聞こえているに違いない。
「隠れましょう」
「……ダメだよ、見付かる」
 カーンが呻くように言った。
「あいつら、慣れてる。どこに行っても無駄だよ」
 真っ青になって、少年はそう吐き出して口をつぐんだ。
 天井が鈍い音をたてる。小さく聞こえてきた悲鳴はまだ若いと知れる女のもの。
 リスティは二人の肩を抱いてすぐ脇にあるドアに走った。ここで考えあぐねていては逃げられるものも逃げられなくなる。
 今はクラウスたちを信じて時間を稼ぐことが優先だ。
「ここにいてください」
 開いたドアは浴室に通じている。そこには大きな窓もあり、もし盗賊に見付かったとしても船外に出ることが可能だ。
 巨大な運河の中ほどを航行している船から岸に辿り着くには随分と距離があり、この二人が泳げるかどうかもわからないが、特殊な容姿を持った彼らをここで盗賊の目に晒すことだけは避けたい。
 リスティは二人を浴室に押し込んでから、部屋のドアに施錠がされていないことを思い出して慌てて踵を返した。
 ドアに鍵をかけ、自分は武器を持って別の場所に隠れて――
 盗賊がドアを開け、部屋を物色し始めたら息を殺す。金品を持ち去るだけならよし、カーンとメリーナのいる浴室のドアを開けようとするなら飛び出して背後から後頭部に一撃を喰らわせる。
 何不自由なく生活し、安全を約束されていた今までとは違うのだ。
 これが興味本位でついてきてしまった代償なのかと、ただ青ざめながら考える。
 武器となるものを探してその視線があたりを見渡す。その耳に聞き慣れない金属音が飛び込んできた。同時に聞こえてきた乱暴な足音は、船員のものでも、ましてや上品な上流階級の人間のものでもない。
 激しい音が廊下に響き渡る。
 いくつもの悲鳴と無粋な笑い声が交差する。
 すでに盗賊はすぐそこまで来ているのだと気付き、リスティは慌てて足を踏み出した。
「っ!!」
 大きく一歩出た足に何かがぶつかり、体が大きく傾いた。激痛が一瞬呼吸を奪い、視界が大きくぶれる。
 何かが足元で砕ける。
 リスティはうずくまりながらそこを見た。
 床にあったのは、珍獣としか呼びようがない不恰好なタイル貼りの置物である。確か翼があったはずだが、床に白い粉が撒き散っているだけでそこにあるべき物がない。
 どうやら思い切り蹴飛ばしてしまったようだ。邪魔にならないところに置いてあると思った置物のせいで、幾重にも重ねられた布に真紅のシミがじんわりと広がってゆく。
 リスティは痺れるように続く足の痛みに息を殺しながら顔をあげた。
 床に散った白い粉は廊下へと続くドアに向かっていた。
 コツリと乾いた音が室内から聞こえた。
「へぇ……こりゃえらく綺麗な姉ちゃんじゃねぇか」
 折れた翼を軽く蹴飛ばした薄汚れた靴がゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「情報は正確だったみたいだな」
 笑いを含む声がそう囁く。
「情報……?」
 男の声を、リスティは繰り返した。その瞬間脳裏を掠めたのは、カーンとメリーナを競り落とした薄汚い町での視線。
 ひどく引っかかりながらも、気のせいだと自分自身に言い聞かせて歩き出した。――しかし実際には、路地裏から物色していたのではないのか。
 豪華客船と呼ばれるクイーン・ロザンナ号に乗船した人々が金になるか否かを。
 そして、わずかの間に結論を出したのではないのか。
 ぎこちなくあげた視線が男のそれとぶつかると、ざわりと背筋が冷えた。
 路地裏から向けられた陰惨な視線と男のものが、ひどく似通っている気がした。
 奇妙だと感じた時、それが何であるかを調べるべきだったのかもしれない。
「金になりそうだな」
 男がニヤニヤ笑っている。
「あなたは、義賊なのでしょう?」
 動揺を悟られまいと低い声で問いかけると、男は大げさに肩をすくめてみせた。
かしらがバカ正直なんだよ。もっと効率よく金を集める方法がいくらでもあるってのに」
 男が大振りの剣で肩を軽く叩くとその剣から血が滴り落ちて床に赤い花を咲かせる。
 男の体に付着したのは返り血だろう。顔にも飛び散っていたそれを鬱陶しそうにぬぐい、男が近付いてきた。
 リスティは武器になるものを探す。ふだん護身用のものを一切身につけない事がありありとわかる頼りないその動きに男は獰猛な笑みをたたえる。
 大げさに剣を振り回し、男はそれを床に突き刺した。
 威嚇を兼ねた音にリスティは身をすくませた。息があがる。逃げ出そうと腕に力を込めるものの、思うように動かない。
 辛うじてうつぶせ気味の体の向きを変えることに成功したが、足にすら力が入らずにそのままズルズルと後退するのが精一杯だった。
「暴れるなよ、お嬢さん。傷モノにしたら値段が下がる」
 後退は、すぐに壁で阻まれた。
 リスティの体の状態を察したのか、男は慌てることなく怯える様を楽しむかのように一歩ずつ近づいてくる。
 そしてリスティの目の前でひざまずいて太い腕を伸ばしてきた。男の腕には、これまで彼が歩んできた道が決して平坦なものでない事をしらせるように、多くの傷が残されている。
 引きつるような古い傷、大きく肉を抉り取られたのだろう醜い痕、まだ新しいと知れる血を滲ませたもの――その総てが、彼を獰猛な野獣にかえる。
「止めてください」
 伸ばされる手の意味を悟り、リスティはもはや震える声を抑えられなかった。
「やめてください、私は男です」
「……この期に及んで、か。嘘ならもっと上手くつけよ」
 せせら笑う男の手から逃れようとしたが、その抵抗を瞬時に捻じ伏せるように左手がリスティの白い喉を締め上げた。
「なぁに、商品としての価値はさげないようにしてやるよ。安心しろ」
 ギリギリと喉元を締め上げながら男が優しくそう囁く。リスティの手が太い腕に爪をたててその皮膚を掻き毟ったが、男はそれを楽しげに見詰めて微笑みながら右手を下肢へとまわした。
 乱暴とも言える力で布が引きむしられる。
 リスティが再び体をこわばらせた。
 男の視線が下肢に向かい、それから小さく声をあげる。
「なるほど男だな。しかし、女でもある」
 残酷な言葉に意識が遠くなりそうだった。
 美しいものが大好きで――
 ただただ憧れていたのは、自分が醜いと知っていたから。体に失陥のある子供の多くは、生まれてすぐに人買いの手に渡り悲惨な一生を過ごすと聞く。
 それは、人のカタチをした家畜。
「ふたなりとは珍しい。この容姿なら、いい値がつく」
 くっと喉が恐怖に引きつる。
 ひた隠しにしてきた事実は、館でも父と数人の侍女しか知らない。たった一人の跡取り息子の異変に、父の落胆はすさまじかったと聞く。
 けれど彼は育ててくれたのだ。
 多くの異形の者が辿る道を歩かせないように、この事実を誰にも知られないことを条件に。
 時に厳しく、時に寛容に育ててくれたのだ。
「大きな町に――」
 それ以上の言葉を聞きたくなくて、リスティは双眸をきつく閉じた。男のごつごつとした手がゆっくりと内股を撫でる感触に、鳥肌が立つ。
 息すら止めたその瞬間、鈍い音が聞こえた。
「ったく、ケモノか!?」
 声が、聞こえた。
 少年の呆れたような声。
 それと同時に、ずっしりと重いものが体に覆いかぶさってきた。
「あ、この場合ケダモノか!!」
「けだも……」
「ココロ、それは覚えなくてもいい」
 慌てたようにそう言って、声は小さく苦笑を漏らす。
「お姉さん大丈夫?」
 ひどく聞き慣れない言葉がそうかけられた。昔、父の命令で何人かの教育係から様々な言語を習っていたリスティは、混乱したままそれが異国の――いや、異世界のものであると判断する。
「……言葉、通じなかったっけ。う〜ん」
 恐る恐る開いた目には、身をかがめた少年の姿が映った。
 趣味の悪い赤斑入りの青い毛皮を肩に引っ掛けた少年は、王都ルーゼンベルグの家紋の入った鎧を身につけ、片手でタイルを貼り付けただけの不恰好な置物の翼を握り、片手で幼い少女を抱きかかえている。
 欠けた翼の一部がパラパラと床に落ちる。彼はそれを軽く後方に投げ捨て、気を失っていまだにリスティにのしかかっている男の首根っこを引っ掴んだ。
「ヤベ、手加減するの忘れてた」
 後頭部を凝視して苦笑しながらそう呟いた彼は、背丈はあるが声同様に随分と若いようだった。
 おそらく自分とそう変わらないだろうと、リスティはぼんやりと考えた。
「お姉さん?」
 小首を傾げる少年は唖然としたように言葉を失って、慌てて視線をそらしてキョロキョロ部屋を見て、近くにあるドアに突進した。ドアの向こうで何かをひっくり返すような音がしたかと思うと彼はすぐさま戻ってきた。
「ひとまずこれ」
 気絶した男を蹴飛ばして、彼はベッドから引き剥がしてきたシーツでリスティの体を包んだ。
 そして盗賊を見て怯えているだろう少女をあやすようにしながら、あいた手を差し伸べてきた。
「あんたなんての? オレ、大海陸って言うんだけど」
 そう言ってから、彼は「しまった」というように口を閉ざす。
「――リスティ・カルバトスです」
 素直に答えてその手を握ると、まさか答えが返ってくるとは思っていなかったのか、少年はひどく驚いてすぐに破顔した。


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