act.32   夢なのか?


 双眸を閉じていても目の前≠絶え間なく流れていく光の帯が見える。それが幻覚だと気づいた時、褐色の肌の男が口元を歪めた。
 頭部を殴られるような疼痛はやむことなく彼をさいなむ。息を吸うその行為でさえ痛みを激しくさせているのではと思うほどだ。
 以前から痛みは続いていた。
 彼はゆっくり手を頭部へと移動させる。
「……トゥエル?」
 頭部を押さえていた手に、別の手がそっと添えられる。
 幼少の頃から度々耳にする女の声をトゥエルは別段気にする事もなく聞き流していた。彼女は彼がとくに苦しんでいる時に決まって現れ、短い言葉をかけて去っていく。
 危険な因子を持ち合わせない奇妙な女。
「ひどい怪我……古いものね」
 女が声をひそめた。普段は赤い髪で隠れているその場所には、大きな傷跡が残っている。
 女にしては随分荒れた指先が、その傷跡を気づかうようになぞる。
「1歳にも満たない時のものだ……痛みはない」
「……そう」
 ベッドに突っ伏したまま王都ルーゼンベルグの若き王が呟くと、女は再びその手を褐色のそれに重ねた。
「トゥエル、神が降りたわ。けれどその神は、完全体であり不完全体でもあるひどく曖昧な物。破滅の予兆となるかもしれない」
「……」
「神話の時代を呼び戻すかもしれない。でも創世は一度でいいのよ」
「……このままでは、王都が滅びる」
 精神さえ蝕むほどの痛みの中で、トゥエルはそう呻いた。
「表層しか見ない王が何代続いた? その結果、王都が辿ったのはどんな道だ? オレはもう長くない。これから先なにが起こったところで無様にうろたえるものか」
「トゥエル」
「余命くらい知っている」
 ひどくなっていく頭部の痛みにくわえ、最近では意識を失う事も多くなった。視力も弱ってきているらしい。
「オレは長くはない」
 度々嘔吐し、体の一部が痺れ――
 いずれ、その体の機能は動くことすら放棄するだろう。
「だが民を飢えさせる訳にはいかん」
 トゥエルの言葉を聞き、女は小さく溜め息をついた。
「昔から頑固な子。この地の女神に愛されているのに」
「……なんだ、それは」
 トゥエルは肩を揺らして笑った。
 白いシーツとは対照的なその褐色の肌を女の手がゆっくりと撫でる。
「貴方と同じように、巫女を母にもち女神に愛された者がいるわ。……貴方は興味がないでしょうけど」
「役に立つなら会いに行く」
 そう答える男に、女は苦笑を漏らした。
「トゥエル――ねぇ、トゥエル――私を起こさないでね?」
 女は不意にどこか切羽詰ったようにそう囁く。
「私はこのままで幸せなの。でも、あの人が私を起こそうとする。トゥエル、お願い。私はこの土地が好きなのよ」
 悲痛な訴えに、トゥエルは慌てて顔をあげた。声のしていたほうに視線をやり、彼は大きく目を見開く。
 今まで体温さえ感じるほど近くにいて、そして実際に彼に触れていた女。
 その息遣いも透き通るような声も彼の耳に届き残っているというのに、肝心の彼女の姿はそこにはなかった。
「……どこに……」
 己のいる場所さえ把握できず、彼はベッドの隣にある窓を見た。
 窓の外には清浄な流れを生み出す広い川が存在し、その奥には密林と化した木々が視界を埋めんばかりに生い茂っていた。
 真っ白な雲が青すぎる空に浮かんで刻々と形を変えていく。
 トゥエルは刺すような痛みを訴える頭部をきつく両手で押さえた。
 ここは王都ルーゼンベルグでも一、二を争うほどの速度を誇る高速船の一室。どうやら部屋に入って衣服を脱ぎ捨てるなりそのまま眠りに落ちてしまったらしい。
「……夢?」
 女の慈悲深く柔らかな声も、少し荒れた指先の感触も総てが幻だったのだ。
 自分以外誰もいた形跡のない部屋からトゥエルはそう結論を出した。何もかもが生々しいまでに現実味を帯びているが、そう思わなければ目の当たりにした現象に説明がつかない。
 魔術師が現存しキメラを作るようなご時世だが、無から有が作り出せないように、今あるものを跡形もなく消し去る事も不可能なのだ。
 部屋にいた女が忽然と姿を消すなどありえない。
 トゥエルは小さく溜め息をついた。
 ふと触れた己の肩に雫が一粒落ちていた。
 トゥエルは眉を寄せながらそれを指でぬぐい、口元に運んだ。
「……夢の中で泣く女」
 頭部を襲い続けていた痛みがわずかに和らぐ。
 彼はそのまま深い眠りに落ちていった。


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