act.30  爪


 どうやら少女には爪を噛む癖があるらしい。
 見た目は銀の髪を一つに束ね、質素な服で身を包む真紅の瞳を持った少年である。無論その容姿がどこにでもいる∞ありふれた&ィでないことは周りから向けられる視線の多さからも想像はついた。
 場所はバルト国城下町。
 あまりいい状態とはいいがたい露店が大通りの左右を埋め、その間を人々が縦横無尽に歩き回っていた。
 様々な国の者たちが集まっているのだろう。統一感のない服装の上には個性的な顔が並び、話す言葉もまちまちで、かなりのなまりが聞き取れた。
 ところどころで揉めた客たちが喧嘩を始めている。それにすら目もくれない人々は、各々目的の商品を手ごろに買い求めようと店主と真剣にやり取りしていた。
 その中で、少年の姿をしたバルト国の王女ラビアンはどうしようもなく目立っている。それは彼女のせいではなく彼女の容姿から来るものだから文句を言っても仕方がないのだが、彼女はその好奇の目がどうにも気に入らないらしい。
 そんなに嫌なら髪を染めたり隠したりすればいい。目深にフードでも被っていれば少しは真紅の瞳も気になりにくいだろうし、そもそも目立たないように城にいればいいものを――
 その考えは、塵ほどもないようだ。
 要は不機嫌そうに左手の親指の爪を噛む少女を溜め息と共に見詰めた。
 ジャラジャラ着飾った上に宝石入りの首輪をつけさせられるという屈辱的な格好から解放されたが、さらに厄介なものが彼と彼女を繋いでいた。
 ラビアンの左手の薬指には刻々と模様を変える不思議な指輪がはまっていた。
 そして、それと全く同じものが、要の指にも食い込んでいる。幸い鬱血はしていないが、指先がわずかに赤くなって脈打っているような気がする。
 無論、今問題にすべきはそこではない。
「……なんで左薬指……」
 確か右手の薬指の指輪は、恋人がいます≠ニいう主張だと聞いたことがある。そして左手の薬指の指輪は――
 あまり考えたくない。
 抜こうにも全くビクともしないその指輪は、まるで意志を持っているかのように要の指に喰らいついている。
 誓約の指輪、と言うらしい。
 神話の時代の遺物。冗談としか思えない話だが、この冗談のような世界に迷い込んでしまった手前、それをあっさり笑い話にする事もできなかった。
 とりあえず体に感じる痛み≠ヘ本物なのだ。
 頬をつねって夢でないかを確認するシーンを漫画で見かけるが、今はそれをする必要がないくらい体のいたる所に響くような疼痛があった。
 ただ道を歩いているだけの彼の体に異常はない。怪我をする要因も、した形跡もない。
 要は顔をしかめる。
 そうとなれば考えられるのは一つ――
「また何かやってるな、あいつ」
 どこに行ったのかもわからない幼なじみの顔を思い浮かべ、要は小さく毒づいた。どういった理由なのかは不明だが、一緒にこの異世界に落ちてきてしまった幼なじみの痛みは、要が総て肩代わりさせられている。
 しかも、今は胸の奥までチリチリ痛い。
「……何やってるんだ?」
 それは怪我の痛みではない。
 怪我ならこんな得体の知れない感情にはならないし、もっと直接的な激痛と言うべきものに発展するだろう。
 いま彼の胸の内を締め付けるのは、それとは全く異なるものだった。
 悲しみと怒りが混じったような――ひどくいたたまれない気分になる。
「陸?」
 そこにはいない幼なじみに呼びかけて、要は浅く息を吸った。
 何か辛いことがあったに違いない。彼は元々感情の起伏が激しいタイプで、感受性も要よりずっと豊かだ――だからきっと、辛いことに直面しているに違いない。
「早くあいつ、見付けないと」
 痛みに対する感覚がないのは、本当に厄介だ。
「オレが肩代わりするのはいい――それは、いいんだ」
 痛みに慣れることはないが、それはかまわない。
 それくらいはいい。
 問題なのは、本来体を守るために備わっているはずの痛覚≠ェないことで、陸が無茶をしかねないこと。
 さらに、心の痛みまで気付けないのであれば――
 急ぐ必要がある。
 体の傷も心の傷も、深すぎれば致命傷になる。
 要はラビアンを見た。軽装に小さな小袋を一つ持っただけという彼女は、不機嫌そうにあたりを睨みながら人波を掻き分けて歩いていく。
 体調も戻ったことだし、ここは人ごみに紛れて逃げたほうが無難だろう。
 そう要が判断すると、白い手がしっかりと彼の腕を握った。
「迷子になる」
 本気で心配してくれているらしいラビアンに、要が引きつるような笑顔を向けた。
 余計な世話だとは言えない雰囲気だった。
「ならない」
「なる。こんな所ではぐれたら、探すのが大変だ」
 ポソリと付け足して、彼女は黙々と人波を掻き分ける。
「……何処に行く気?」
「船着場」
「……船着場?」
「知らないのか? 船が停留する――」
「知ってるよ!」
 小馬鹿にするように見られて、要はムッとしながらそう返した。
「オレが聞いてるのは、病み上がりの人間をどうして連れまわしてるのかだ!」
 思わず怒鳴ると、ラビアンは唇を尖らせた。
「私がご主人様なんだから、お前は黙ってついて来い。これからクイーン・ロザンナ号に乗るんだ。豪華客船で船旅だぞ。楽しそうだろう?」
 ヒクリと要の頬が引きつった。
 理由を言わない上に、あまりに強引な話の進めかた――この少女は、かなり甘やかされて育ったに違いない。
 どうにか別れて森に行かないと、陸が何をしでかすかわからないと言うのに。
「あのさ! オレはお前の道楽に付き合ってる暇ないの!」
 要の言葉を聞き、ラビアンが左手を上げた。するとその左薬指にはまった指輪が太陽の光りを受けとめてキラリと光る。
 効力なんてものは知らないが、何だか異様に嫌な感じがした。
「使われたくなかったら、素直について来い」
 偉そうに薄い胸を張って、少女は顎をしゃくる。王女様とは程遠いその仕草に苦虫を噛み潰したような顔になりながら、要はわずかに眉根を寄せた。
 目に痛いほど反射するその指輪が、急に眩しく見えて目を逸らし――そして、小首を傾げる。
 奇異の目を向け続ける人々の上には、ぬけるような青空が広がっている。真っ白な雲にさんさんと照りつける太陽。いつもなら、目を細めて眺める景色である。
 それを今まで、彼は平然と見詰めていた。
「……あれ?」
 景色が違っていたからだろうか。それとも、直面した現実にまだ戸惑いを感じるばかりで混乱した頭を整理しきれていなかったのか。
 あまり気にも留めずにここまでラビアンについてきていた自分自身にも驚きながら、彼は大通りをゆっくりと見渡した。
「……なんだ?」
 ぶっきら棒に少女が問いかけると、要は彼女の顔をじっと見詰めた。
 その顔も、そういえばいつからかはっきりと見えるようになっていた。普通ならぼやけてしまうはずの総ての景色が、彼女同様に鮮明に彼の視界に飛び込んでくる。
「視力、0.1以下なんだけどな……」
 コンタクトは地下牢で踏み潰されていたのだ。当然片目だけはめておく訳にもいかずに裸眼ですごす事になったはずだが――
「いつから見えてた?」
 王の寝所に行くまでの視界は最悪だった。境目もなくぼやける世界は全く途切れる気配はなく、それは永遠に続くものだとあきらめていた。
「……あの時か」
 国王とやらに腕を掴まれたとき、何かが変わったのだろう。
 反転する世界でそれどころではなかったが、病魔の浄化と何らかの関わりがある可能性は否定できない。
 自分の体であるにも関わらず、あまりにも扱いにくくなっている。
「何を言っているんだ?」
 語尾を荒げながら問いかける幼い王女の言葉に要は瞳を伏せた。
「……神様って、面倒臭いと思って」
 ゆっくりと消えていく体の痛みとは裏腹に強くなる心の痛み。
 それを感じ取りながら、要は小さくそう返した。


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