act.25 強弱
世界がぐるぐる回る。
激しい吐き気が襲い、要はわずかに息詰める。
どうしてこんな事になったのだろう。考えても無駄なのに、そうと知りながらも問わずにはいられない。
陸のせいじゃない。
それは、わかっている。あいつのせいにしてやりたいのは山々だが、それでは何の解決にもならない。
あいつのせいでこんな世界に来たと考えれば楽に怒りの矛先が固定できるが、乳幼児の頃から一緒という超腐れ縁のヤツのことは、今更誰に聞く必要もないぐらいよく知っている。
あの馬鹿にこんな芸当ができるはずない。
だったら、これはなんだ。
知らない土地で知らない人間に囲まれて、通じないはずの言葉さえ理解し神様扱いされる、この現実≠ヘなんだ。
平凡だったはずの日常を一気に塗り替える、この異常事態はどう解釈すればいい。
要は低く呻く。
閉ざした瞳の奥ですら、世界が変わらず回り続けている。
吐き気は、寄せては返す波のように終わりなく続く。
何かが要の体にそっと触れた。
そのたびに襲ってくる不快さは、なんと表現すればいいのだろう。
しばらくするとそれは消え、しかしさほど間をおかずに再び何かが彼の体にそっと触れる。
気持ちが悪い。
何かが触れるたび、悪寒が全身を包む。
それは繰り返し、終わる事のないような拷問のようだった。
「………………」
うなされながら目を開けると、大きなシャンデリアが見えた。
要はうつろな目を彷徨わせる。
広めの部屋は、レースのカーテンがたなびき、凝った装飾のほどこされたタンスやクローゼットのようなものが並んでいる。
壁紙は淡いクリーム色に、小さな薄いピンクの花柄。壁には大きな姿見が設置され、化粧台に妖精を模した彫刻なんかもあった。
国王の部屋とは違い、随分と物が多い。ちょっといびつな人形や、古い本棚もある。
要は自分の状態がよく理解できず、何度か瞬いた。
手を伸ばす。
ふかふかの布団は、太陽の匂いがする。
上質と知れる布は肌によく馴染み、要を一層戸惑わせた。
つい先刻まで謁見の間にいたはずだ。
国王の隣に立ち、彼の娘であるラビアンと向かい合ったまでは記憶している。
「…………?」
要はベッドから体を起こした。
上品な花柄で統一されたベッドは少女趣味丸出しだ。センスは悪くないが、あまり居心地はよくない。
ベッドから降りようとして、要は低く呻いた。
緩やかになっていたはずの吐き気が、再び胃の内容物を逆流させようとしている。
「寝ていろ!!」
鋭い少女の声が聞こえたと思ったら額が冷やりと冷たくなって、強引に体が後方へ倒された。
「何……?」
朦朧としたまま冷たくなった額に手をやると、湿った布が触れる。
「取るな」
小さな命令が耳に届く。
要は声の出処を探して、ようやくそれを見つけた。
「……ラビアン」
独特の容姿をもつ、バルト国王女。
彼女は少年のような格好をして椅子にどっかりと腰を据えていた。謁見の間で見たときはドレスを纏い、王女然とした洗練された立ち振る舞いだったのに、今はどことなくその気品が霞んでいる。
「オレは……」
「お前が神かもしれないという可能性は残しておいてやる」
彼女は不貞腐れたように窓を見た。
「まさか城内の疫病を掃うなど、高位の魔術師でも簡単にはいかないから」
「……城内?」
怪訝そうに問いかけると、睨みつけられた。
「浄化の能力がオデオにあるとは聞いてはいないが、それは神の領域だ。可能性はある。だが、確信はない」
「……なに言ってるんだ?」
「――お前は触れただけで、相手の中の病を浄化したんだ」
「オレ、誰にも……」
途中まで言いかけて、要は口を閉ざす。
自分では触っていない。
そうだ。国王のときも、ラビアンの時も、一方的に触られっぱなしだ。
しかもその後きまって気分が悪くなり、国王の時はなんとか持ち直したが、ラビアンの時には意識を失い、そしてそれからあの不快な思いは繰り返し訪れた。
「まさか、オレが気絶している間に……」
「城内全員に触らせた。たいした能力だと褒めてやろう」
「…………」
全く褒められた気がしない。それに、ベッドの中で無様に寝込んでいる相手に対して、それはあんまりな仕打ちだと思う。
「ひとまず鎖に繋ぐのはやめる」
少女はにっこりと不気味に微笑み、小さなリングを要に見せた。
まだ意識がはっきりとしない要は、彼女が彼の左手を取った事にあまり注意を払わずにいた。
「ただ、人にくれてやるには惜しい」
彼女が要の左手の薬指にぶかぶかのリングをはめる。それはいったい何の真似だと聞こうとした瞬間、リングが締まった。
ぎょっとしてラビアンの手を払い、要は自分の手を見る。
小さな黄金のリングには、文字が刻まれていた。
「――契約の施行」
読めないはずの文字が、彼にそう告げる。
「それは神話の時代の神々が使った文字。……お前、ちょっと面白い」
ラビアンが笑った。あんまり嬉しくないことを口にして。
黄金のリングに記された文字はすぐに消え、そこには見事な装飾が浮かび上がる。小さな指輪にどうしたら描けるのかと首を傾げてしまいたくなるその模様は、花や葉のような自然をモチーフにしたものだが、それらは生きているかのように刻々と変化している。まるで手品のようだ。
「契約って……」
茫然と要が呟くと、ラビアンが己の左手を見せた。
その薬指に要のしているものと全く同じ柄の黄金の指輪がはまっている。
「私が主人で、お前が奴隷。これは神話の時代の遺物――誓約の指輪」
ラビアンの言葉を聞いた瞬間、要は慌てて指輪をはずそうとそれを引っぱった。しかし、まるで皮膚と同化しているようにびくともしない。
それどころか指輪自体がどんどんきつくなって要の指に食い込んでいる。
「はずせ!!」
「じゃあ、首輪がいい?」
少年の姿で微笑む少女はその見た目も相まって、要の目には悪魔のように映っていた。