act.22  曇りガラス


 近付けば近付いただけ、船体の色がはっきりとしてくる。
 全体はどこか黒っぽい青で塗られているが、所々に赤いまだらも描かれているようだ。センスの欠片もない配色である。
 陸は唸りながら足を止めた。その船に向かうのを躊躇ったのではなく、足が物理的にずっしりと重い。
「……ココロ……」
 しっかりと足にしがみついたココロは、骨が音を立てそうなほどの力で締め付けてきて陸の指先の感覚を奪っていた。
「ココロ、大丈夫だって。あそこに要がいるから連れ戻しに行くだけだ」
 すでにいるものと決めつけ、陸がココロの頭を撫でる。早く解放してもらわないと船に着くまでに足が壊死しそうだ。
「まいったな〜」
 う〜んと陸が唸り声をあげた瞬間、木の枝をへし折って木の葉をまき散らしながら男が一人、陸の目の前に飛び出してきた。
 奇妙な生き物に乗っている。とがった顔はウロコに包まれ、小さな鼻と大きな黒い瞳がある。長い首にしっかりとした胴が続き、小さな前足がだらりと下がる。前足とは逆に後ろ足が異様なほど大きくしっかりとしており、太い尻尾は豪快に草を薙いだ。
「ティラノサウルス小型版?」
 全身がウロコに覆われているものの、その生き物はまるで太古に絶滅したはずの恐竜のようだった。
「……やっぱここ、地球じゃないな……」
 再確認しながら、陸が呟く。
 もとの場所に戻るのはそう容易な事ではないかもしれない。目の前の男をしげしげ見詰め、陸はそんな結論に至った。
 目の前の男は、素肌に甲冑をまとっている。厚い胸板に太い腕、しっかりとした足腰――そして、あまりにも趣味の悪い青い毛皮には赤の斑模様がしっかりとある。
 どうやら、ココロを助けるために負かしたあの賊の仲間らしい。
 陸はココロの頭に置いた手をどかしてゆっくりと上半身を持ち上げる。
 見知らぬ男から奪ったから武器はあるものの、それを使ったところで勝てる気がしなかった。
 恐竜に乗った男は大振りの剣で軽く肩を叩きながらじっと陸とココロを見詰め、豪快に顔をゆがめた。
 男が何かを言っている。
「……悪いんだけどさ、さっぱりわかんねぇよ」
 溜め息と共に呟くと、男は驚いたように陸を凝視して、剣を恐竜に固定されていた鞘に差し込むとそこから降りた。
 彼はそのまま怯えるココロを力任せに陸から引き剥がした。
「待て! 乱暴するな!」
 反射的に怒鳴りつけると、男は再び驚いたように陸を見詰めてからニヤリと笑った。
 言葉が通じないのは厄介だ。
 簡単なことさえ伝えられない。
 軽くココロを抱きかかえて歩き出す男の肩に、陸は慌てて手を置いた。
「どこ連れてく気だ!?」
 わかりきった事を聞くと、男に捕まったココロが不意に暴れ出しだ。
「ココロ! 暴れるな!!」
 ぎょっとして陸が男からココロを奪って抱きしめる。少し暴れたが、彼女は小さな唸り声を上げながらも大人しくなった。
 それをしばらく見詰め、男は陸を手招きする。
「なに?」
 彼は恐竜の背に乗ると、その後ろを指差した。非常に座り心地は悪そうだが、鞍のような物がつけてある。
「……乗れって?」
 ポンポンと軽く鞍を叩く彼を見て、陸は意を決してその後ろに乗った。一人なら遠慮なく抵抗するところだが、今はココロがいる。たとえどんなに運動能力が優れていたとしても、彼女自身はそれを使いこなせないようだ。
 ここでこの男とやり合ってもし自分に何かがあれば――彼女は、一人であの船に行かなければならなくなる。
 陸はグリグリと小さな頭を撫でた。
「怖がるなよ。――大丈夫だ」
 その言葉が終わらぬうちに、恐竜が腰を上げた。
「え――!?」
 一瞬で上体が前のめりになり、陸はココロを抱きしめていた腕を外して、目の前の男に回す。
 視界が大きくブレる。
 浮遊感が全身を包んだ刹那、重力が加わった。
「ちょ……!!!」
 ちょっと待て、もっとゆっくり走らせろ!
 そう言ってやりたかったが、陸は見事に舌を噛んで大きく呻いた。揺れ方が半端じゃない。男と自分に押しつぶされる形になっているココロも気の毒なくらい悲鳴をあげ、背中に背負っていた荷物は遠慮なくその背を叩いた。
 乗り心地は最悪だ。いや、これは絶対に移動用の乗り物ではない。
 悪趣味な赤い斑模様のある青い船の前で降ろされた時、陸はココロと肩を並べて運河の端で吐き気と眩暈に唸り声をあげた。
 あれを平然と乗りこなすなど、人間技とは思えない。
 吐き気と眩暈が治まると、ようやく陸はヨロヨロのココロを抱き上げて男の元へ戻った。
 彼が苦笑している。
 頭を掻きながら何かを言っているが、多分謝ってくれているに違いない。
 彼はそのまま船を指差し、手招いた。
 付いて来いと言いたいらしい。
 船の周りには、悪趣味な毛皮を羽織った男たちがうろついている。時折陸たちに視線をやっては何かを話し合っているこの状況では、逃げ出すわけにもいかない。
「行くしかないよな〜。あぁあぁ〜忍び込む気だったのにな〜」
 そして要を見つけて人知れず脱出予定だったのに。
 陸は内心大きく溜め息をつきながらココロを抱いたまま乗船した。
 船内は薄暗い。
 きっと灯りがあったらその薄汚い光景に顔を引きつらせたに違いない澱んだ空気が立ち込めていた。
 狭い廊下が軋んでいる。
 すれ違う男たちは皆、悪趣味な青い毛皮を羽織っていた。あれが仲間の印のようだが、この広い船内にどれだけ彼らの仲間がいるかは想像できなかった。
「山賊じゃなくて海賊って言うのか? 海じゃなくて川だから……」
 半ば諦めたように陸が呟く。この内の四人はしてしまったから、牢屋確定なのだろう。ココロだけ行かせるわけにはいかなかったが、こうなるとどうしていいのかわからない。
「要どうやって探そう……」
 そう口にしたとき、目の前を歩いていた男は部屋の一つで立ち止まった。
 彼はドアを開けると陸に入るように指示し、すぐにその場を離れていった。
 鍵はない。
 そこは牢屋というより、船室の一つのようだ。陸は唖然としながら部屋を眺める。ベッドと据え付けのハンガーラックがあるだけの、恐ろしくシンプルな場所である。
 陸はたった一つだけある窓ガラスに歩み寄った。
「汚ねぇ……」
 白く濁ったガラスに悪態をつき、陸はそれに手をかける。
 しかし、ハメ殺しではないはずなのに、その窓はなかなか開こうとはしなった。
 陸は諦めて曇った窓ガラスを指でなぞる。
「……どうしようなぁ、ココロ」
 船が出港の準備をしている。
「ヤバいよなぁ、ココロ」
 あまり元いた場所から離れるのはよくない気がしてならないのに、状況は陸の思いに反して確実に進みつつある。
 陸が窓から視線を外すと、ドアの前にさっきの男が青い毛皮を持って立っていた。
 もちろん、赤い斑もしっかり入っている。
 彼はそれを陸に渡すと、何かを言いながら嬉しそうに陸の背中を大きな手で叩いて部屋をあとにした。
「――ココロ、今のはわかるぞ」
 渡された悪趣味な毛皮を見詰め、陸が低く呟く。
「仲良くしよう、兄弟」
 どうやら、盗賊と間違われてしまったらしい。


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