act.20  没頭


 目の前で、ふわりと柔らかな布が舞う。
 何度も何度も舞っている。
 クラウス王子はそれを遠目で眺めながら、若干満足そうにしていた。ちなみにその隣にいる従者二人は、紙面に視線を落としたまま見事に石化していた。
 紙には、目が眩みそうなほどゼロが並んでいる。船から降りたほんの数十分の間に、この暴君はいったいいくら使ったというのだろう。
 いや、その見事なゼロの羅列と、偉そうに書かれたサインを見れば一目瞭然で。
「……ど、どうしよう、トム」
「オレに聞くんじゃねぇよ、ジョニー」
 今頃これと同じ紙面を持った人間が、ニュードルに向かっているだろう。それを見た後の国王の顔を想像して、従者二人は再び石化する。
 莫大な財を築いた大国の王は、金に汚い男ではない。それどころか、必要なことには金を惜しまない、ある意味心の広い人物である。
 しかし、これはないんじゃないかと、従者は言葉もなく暴君に視線を向けた。
 暴君、クラウス・ヴァルマーは、そんな従者の心情も知らずに目前の光景をただ黙って見詰めていた。
「あぁ、あなたにはこちらが似合いますね」
 嬉しそうに弾む声にあわせて柔らかな布が再びふわりと舞った。それは少女の前で止まり、微かに揺れる。
「こ、こんな高価のもの――」
 戸惑ったような幼い声を聞き、ドレスを手にしていた中性的な容姿を奇抜な服で包んでいるリスティ・カルバトスが、にっこり微笑んでみせる。
「そのままの格好ではいけません」
 まだ年端もいかない子供が、競売のためとはいえ、ずいぶん挑発的な黒いドレスを着ている。大きく開いた胸元、きつく締め上げられた腰、丈の短いスカートの上には、薄く透ける布が幾重にも重ねてある。
 両性具有という触れ込みで売られた子供。しかし花で飾りたてた長い黒髪や、線の細いその体は少女のように儚げだった。
「お名前は?」
 リスティの問いに、子供は一瞬言葉を詰まらせる。
「メリーナです」
 頬を赤らめながら、そう言った。
「そいつ、今までずっと番号で呼ばれてたんだよ」
 少し離れた所から、少年の声が響く。
「番号?」
 リスティが振り向きざまに問いかけると、壁に背をあずけたまま、少年が小さく頷いた。鋭い瞳をわずかに細め、少年はメリーナを見る。
「オレも、そいつも、番号で呼ばれてた。実験材料だから」
「……王都の魔術師はキメラを作るという噂か」
 クラウスの言葉に、少年は皮肉っぽく鼻で笑った。
「噂じゃない、真実さ。神を降ろすための依代よりしろを作って、たくさんの失敗作が生まれる。売れそうなやつは、売るんだよ。金がいるから」
 陰惨な微笑で、少年が淡々と語っている。
「売るときに、名前がないと不自然だから。だから、そいつの名前もオレの名前も、あの会場で初めてつけられた――どうでもいい名前さ」
 顔を伏せると黒髪から尖った耳が見え隠れする。鋭い犬歯、灰色の小さな翼。まるで神話の時代のような、異形の生き物。
「王都が、ずいぶんとふざけた真似をしてくれるな……」
 王都ルーゼンベルグがフロリアム大陸を完全に掌握し、強大な力を有したのはもうずいぶん昔の話だ。今ではすっかり落ちぶれ、ニュードルの足元にも及ばない名ばかりの王都と成り果てている。
 それが、神を降ろすための器を作っている。
 王の意志か、魔術師の意志か。
「ふん……神はすでに降りたというのに、無駄なことを……」
 ボソリと言って、クラウスは眉間に皺を寄せた。
 リンゴ畑に囲まれた一軒家で、クラウスは魔術師である男からアルバ神とオデオ神がバルトへ降りたと聞いた。この旅は、その双神の内、オデオ神を掌中にするために始められた物だった。
 奇妙な符合だ。
 神話の時代はとうに終わっている。それは天地を創造し、命を育み、世界を光で満たして終焉したはずだった。
 しかし、総て伝説の域を出ない夢物語に過ぎない。
 それが真実であったと証明するものは何もないのだ。確かな文献があるわけでもなく、ただ脈々と語り継がれるだけの昔話だ。
 クラウスがこの話にのったのは、ほんの気紛れだった。神が本当にいるのなら、それを狩るのも面白いと――それだけの事だった。
 だが、何かが違う。
 自分以外に神≠フ存在を知り、あるいは信じ、そして手に入れようとしている者がいる。
「降ろす神は誰だ?」
 クラウスの意外な問いかけに、少年は戸惑ったように灰色の羽を小さく動かした。
「それは、知らない。ただ、そう話すのを聞いただけで――」
 クラウスは小さく息を吐く。
「まぁいい。で、お前の名は?」
「……カーン」
 恥ずかしそうに頬を染め、少年はクラウスから視線をはずしてそう言った。名を聞かれること、名を答えることに慣れていないのだろう。
 けれど名を与えられた事は素直に嬉しいらしい。その声色からそれを判断すると、カーンの目の前にリスティが素早く移動した。
「それじゃあ、あなたの服も選びましょうね」
 嬉しそうに微笑んで、リスティが大量の服を持ってカーンに詰め寄っている。美しいものが大好きなリスティに、どうやら気に入られてしまったらしい。
 ぎょっとした少年を半ば同情の目で見詰めながら、クラウスは微かに苦笑した。
 当分はあれやこれやと着せ替え人形代わりにされるに違いない。気に入ったものを目の前にすると、いつも理性の箍がはずれるのだ。
 盲目とも言うべきその光景を思い描き、ふと従者の顔を見た。
 二人の従者は相変わらず彫刻のように固まっている。
 一枚だと思い込んで見ていた紙が、実は二枚であったことに気付いたらしい。
 山積みになった派手で上質な服の支払いも、彼らを落札した支払いも、もちろん総て父であるニュードル国王に一任している。
 その金額は、一般常識を超えまくっていた。


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