act.6  リンゴ


 ざわりと大気が大きく歪む。甘い香りをまとわりつかせた空気が奇妙にうねっている。
 小さな窓から背の低い老人が外を見ていた。ずるずると引きずるほど長いマントをつけ、フードを目深にかぶった男。刻まれたシワの深さから、彼がかなりの高齢であることが知れる。
 老人は白く濁った目で空を見上げていた。視界が狭い。それは彼の目が濁っているからではなく、その小さな家が、木々に覆い隠されるようにポツンと建っているからである。
 その家の周りは、リンゴの木で埋め尽くされている。故に、風に香りがうつる。
 生い茂る葉の間からのぞいた空は、ひどく歪んでいた。
 珍しい光景だった。ここ数十年、これほどの異常が現れたことはない。
「ほう……?」
 しゃがれた声が驚いたように、溜め息とも言葉ともつかないものを発する。
「これはこれは、ずいぶんと奇異なモノが降りたようじゃ」
「奇異?」
 しゃがれた声とは別の若々しいハリのある声が静かに問いかける。
 老人は視線を室内へ戻した。
 部屋にいたのは、年若い男であった。壁に背をあずけてただ立っている――それだけなのに、妙に威圧感がある。
 手入れの行き届いた見事な金髪は軽く束ねられている。鮮やかな紫水晶のごとき瞳、高い鼻梁、皮肉にゆがめられた唇。態度ににじみ出る気位の高さが、彼の身分を物語っているかのようである。身に纏っている服も質素に見えがちだが、実際には平民ではとても手の届くものではない。
「奇異とはなんだ?」
 重ねて男が問う。
 老人はのそのそと歩き出し、長椅子に掛けた。
「神を宿すものが降りました」
 老人は言いながら、ゆっくりと手を伸ばす。その先には、長年愛用されているのだろう低いテーブルがあった。テーブルの上には紫色の小さなクッションが二つ。クッションの上には同じ大きさの水晶が一つずつのっている。
 老人は目の前の二つの水晶に手を当てる。
「神? 神話の時代でもあるまいに、戯言ざれごとを」
 男がバカにするように吐き捨てる。
「神が降りたのではありません。それと同等の力を有するものが、この地に降り立ったのでございます」
「くだらん」
「掌中にすれば、世界を支配するとしても――?」
 男が老人を見た。
 老人は白く濁った目で水晶を覗き込んでいる。
「まことに珍しい。神を宿す者が二人、降り立ったか。神話の時代の再来ですかな」
「二人……」
「左様でございます、クラウス様。一人は、死と再生をつかさどるアルバの神。一人は、破壊と創造をつかさどるオデオの神。双神でございます」
「双神?」
「双子の神。どちらも神々の中では反する力を持つが故に異能≠ニされたのでございます。貴方様はオデオ神を探しなさい」
「神探しか……」
 くっと男は喉を鳴らして笑った。
「面白い。退屈しのぎだ、いい余興となろう」
 光沢のあるマントが大きく弧を描く。
「――場所は?」
 背を向けたまま、クラウスが老人――ギニアに問いかけた。
「バルトでございます」
 ギニアの言葉に、クラウスはちらりと視線を向ける。
「バルト? 聞かぬ名だな」
「まだおこったばかりの国でございますよ。国王がやまいとこに伏し、いつ消えるとも知れぬ、取るに足らぬ小国であります」
「そこに神が落ちたか。滑稽なものよ」
 クラウスは口元を歪める。
「では、オデオ神を狩りに行くか」
「朗報をお待ちいたします、クラウス王子」
 ギニアが深々と頭をたれる。
 男は颯爽と小さな家を後にした。野心家として名をはせる、ニュードルの第四王子、クラウス・ヴァルマー。
 彼は、自らの意志で神の領域を侵そうとしていた。
「オデオ神は破壊と創造をつかさどる神。神々の中で、最も恐れられた破壊神≠ナもある。さてクラウス王子。その者、果たして貴方の手に足るでしょうかな?」
 深々とこうべをたれたまま、ギニアは嘲笑した。


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