【悪夢をささやく者】
赤黒く汚れたテーブルの上に、真っ白な紙を広げて先生は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「世界地図を描こうと思うんだ。精緻で完璧なものを」
――どうして?
僕は驚いて先生を見た。僕にとって、先生のその言葉はあまりに唐突で理解できなかった。
「不思議そうな顔をしているね」
先生は得意げに鼻を鳴らす。まるで僕の質問を待っていたかのような表情だ。お気に入りの羽ペンをペン立ての中から引き抜いて、先生はたっぷりと――たっぷりすぎるほど深く、インク瓶の中にその先を浸した。
「完璧な地図を作ったら、世界が自分のものになったような気がしないかい」
先生はインクを吸った羽ペンを紙の中央へと移動させる。ペン先に丸い黒い球体ができ、ゆらゆらと揺れる。
――先生、地図を描いても世界は手に入らないよ。
真っ黒なしずくがペン先から生まれ、紙の上で派手に弾けた。
――世界は変動するものだから。だから、世界なんて――世の怪≠ネんて、人間には記せないものでしょう。
「……なるほど、君はうまいことを言う」
くつくつと肩を揺らして先生が笑った。顔半面、ひどく暗い色が広がって、優しい笑みを浮かべるもう片側も醜く歪めていった。
ああ、これは。
僕は先生の顔をぼんやりと眺める。
これは、僕がさいごに見た顔だ。一見しただけでは到底それとはわからないけれど、きっと先生の本当の笑貌《》なのだろう。
「わたしは、神になりたいんだ」
先生は手を伸ばし、赤黒く汚れたそれで僕の頬をそっと包んだ。火傷するほど熱い手に驚く僕に、先生は言葉を重ねた。
「まだ実験が必要だ。なに、検体は世界が滅びない限り山のようにいる。魂の固定と肉体の維持、自我の束縛、今後はこれが最大の課題だな」
爛と燃える瞳の奥、その深淵にひそむのは見紛うことなき狂気の炎《》。けれど僕に見えるのは、先生の瞳に映ったうつろな僕の頭部だけ。
――先生、先生、探求心旺盛で屈することを知らない、敬愛なる死霊魔術師《》よ。
赤黒く染まったローブを引きずりながら、先生は粘着質な音を奏でる床をゆったりと踏みしめる。そうして赤黒い飛沫の跡が残る棚の上に僕≠置いた。
――嗚呼、先生。僕の後悔といえば、あなたの中によどみ続けるその真意を推し量れなかったことだけなのです。