キーを何度ひねっても、エンジンは気のない唸り声を繰り返すばかりで一向に動く気配をみせなかった。
 十数回無駄な行動を繰り返し、麻弥子はハンドルに突っ伏して重い息を吐き出す。
「もう……」
 こんなことなら素直に高速に乗ればよかった。いつもより早い時間に実家を出て、少しドライブをしていこうと考えた、浅はかな過去の自分を呪いたい気分だ。
 都心に程近いマンションが恋しくて仕方ない。先週買ったばかりの熱帯魚は主人の帰りを待っているだろう。勝手にそう考えると、郷愁にも似た想いが胸に湧く。
「今月きついけどJAF呼ぶかぁ」
 金をケチって会員になっていないのは痛いが、対向車も後続車もない山道の途中で一晩明かす気にもなれず、麻弥子は助手席に置いたバッグを引き寄せた。外はすでに夕闇が広がっている。いまから呼んでも日が暮れたころにしか来てくれないだろう。そう思うといっそう憂鬱になった。
 ルームランプをつけて携帯電話を取り出し、開いてから麻弥子は目を疑った。いつもはきっちりたっている左端の三本の柱が綺麗に消えている。思わず友人に電話をかけてみるものの、無愛想な女の声が聞きたくもないメッセージを繰り返すばかりだった。
「ちょっと! 冗談やめてよ!!」
 明日は月曜日だ。なにがなんでも今夜中に自宅に帰らねばならない。いや、それ以前にこんな山奥にたった一人で野宿など想像するだけでも恐ろしい。
 近くの木が大きく揺れとっさに身をすくませた。羽音と鳴き声で緊張を解いて、麻弥子は車外の薄闇を睨みつける。
「カラスかぁ、脅かさないでよぉ」
 暗闇は子供のころからどうしても苦手で、寝るときは必ず明かりを絶やさないようにしている。このままここにいたら闇の中に孤立しているのも同然だと気付き、麻弥子は慌ててもう一度携帯を握りなおした。
 しかし、電波は届かない。仕方なくバッグにしまったところで、彼女の瞳は左手の密林にポツリと建つ洋館を捉えた。
 玄関には小さな灯がともっている。
「助かった……!!」
 遠目にも大きな建物であることがわかる。麻弥子はバッグ片手に車から飛び出し、車のキーを抜くか差し込んでおくかを悩んだ挙句、緊急時には鍵はつけっぱなしにしておくほうがいいと聞いていたがロックまでかけて車から離れた。
「いくら山道でも、もしものことがあるもんね。戻ったら車がないのも困るし……あ、ライトだけはつけておこう」
 これで少なくとも追突の危険だけは緩和される。自己満足とは知りつつ、彼女は足早に洋館まで移動した。しかし、意外と距離がある。緩やかな傾斜とはいっても手入れされていない山は予想以上に歩きにくく、ローヒールを履いていたせいもあってバランスが悪く、一歩進むのにも苦労する。
 買ったばかりなのにと、麻弥子は心の中で悪態をついた。三ヶ月前から欲しくてたまらなかったブランド物の靴を大奮発でようやく買って、まさかそれで山の中を歩く羽目になるとは思いもしなかった。
「最低」
 呟くと、どこかで再び羽音が聞こえて麻弥子は身をすくませる。夕日が消えた山は刻々と闇が濃くなっていく。思わず背後を振り返り、車のライトを確認して安堵の息を吐いた。
 とにかく洋館に行って助けを求めなければ話が進まない。顔を上げて目的地を確認すると、そこに小さな雫が落ちてはじけた。
 麻弥子は頬に手をやって声をあげる。さらに雫が落ち、雨が降り始めたのだと気付いて天気予報を思い出し舌打ちした。夜半過ぎから降るとの予報は見事に外れたらしい。本当についてない。しかしここで文句を言っても虚しいだけだと思い直し、彼女は洋館に続く道なき道をひたすら歩き続けた。
 雨が本降りになる前に何とかそこにたどり着くと麻弥子はチャイムを探す。それらしいものがないことを確認してからライオンの頭部を模したドアノックを掴んで数度打ちつけた。
 予想以上に大きな音に麻弥子は息を飲む。けれど、洋館内部からの音は聞こえず、彼女はもう一度同じ行為を繰り返してからちらりと背後を見た。
 霧雨が闇に埋もれる世界を灰色に染めている。暗闇はひどく不安になって恐ろしいが、森が薄ぼんやりと浮かび上がる光景も同じように気味が悪い。静寂に飲み込まれてしまいそうな気がして、麻弥子は思わずノブをひねっていた。
 小さな音とともに予想外にノブが回る。確かな手ごたえに戸惑いながらノブを引くと、観音開きの巨大なドアが低い音を立てながらゆっくりと開いた。
「あ、あのー……」
 洋館の中は底冷えした。流動のない空気にぞっとしたあと、むせるような臭いが押し寄せてきて彼女は数歩後退った。肩に雨があたったのに気づき、彼女は慌てて洋館の中に足を踏み入れた。
「誰かいませんか?」
 ひどい悪臭がする。鼻を突くそれに顔をしかめたが、ほかに頼るあてもなく広いフロアを進んだ。
「すみません! 誰かいませんか!?」
 張り上げた声は洋館のあらゆる場所に反響して小さくなっていったが、返ってくるのは壁を打つ雨音だけだった。
 外には明かりがある。人がいるはずだ。そう考え、麻弥子はセンサーで点灯する照明があることを思い出す。
 この館は無人なのかもしれない。薄暗いフロアをぐるりと眺め、麻弥子は緊張をほぐすように双眸を閉じて大きく息を吐き出した。
 気分が悪くなるほどの悪臭がわずかに和らぐ。
「電話借りよ」
 外部への連絡手段が確保できればいい。無事にここを出たら、あらためて家人へ謝罪に来ようと思い直し、麻弥子はくすぶる罪悪感をやり過ごして携帯を取り出してライトをつけ、その明かりを頼りに視界の悪い建物の中を歩き始めた。
 闇は慣れない。一歩進むごとに先刻ほぐしたはずの体がこわばっていくようだった。汗で湿った手の平を何度も服で拭き、麻弥子は背後を気にしながら闇の中へと潜っていく。
 しばらく歩くと、小さなアラームとともに唐突に手元の明かりが消えた。
「え!? 嘘! ちょっと……!!」
 慌てて携帯の電源を押すが、画面は暗くなったきり何の反応もない。電池は確かに心もとなかったが何もこんなときに切れることはないだろう。
「役立たず!!」
 携帯に向かって悪態をつき、彼女はそれをバッグに突っ込んでそろりそろりと足元を確認しながら歩き、壁に辿り着くとそれに沿うように前進を始めた。
 大きな窓に差し掛かったとき、不意に視界が明るくなる。
 直後、耳をつんざくような轟音が響き、麻弥子は悲鳴を上げながら座り込んだ。余韻を残し遠ざかっていく音に、ようやく雷が落ちたのだと知って頬を染めた。
「脅かさないでよ」
 カラスのとき同様に毒づいて立ち上がった拍子に腕が何かに当たる。視界の先で、背の高い豪奢な花台が大きく揺れ、その上に乗っていたのだろう花瓶がゆっくりと傾いていった。
 とっさに手を伸ばしたが、指先は花瓶にわずかに触れただけにとどまり、鋭い音とともに床の上で弾けた。
 唖然と立ち尽くしてから、のろのろと膝をつく。花瓶の欠片を手にとって眺め、泣きたい気分になった。
 アールデコだ。年代ものだ。つい先日、興味もないのに友人に引っぱっていかれた美術館で嫌というほど拝ませてもらった柄にそっくりだ。
「勘弁してよ」
 たかが電話一本借りるために、いったいいくら支払わなければならないのだろう。
 さぞ値が張るだろう花瓶は木っ端微塵に砕けている。その欠片を花台に戻している途中で、茶色く変色した花に目をとめた。拾い上げて薄闇にかざしてから、彼女はそれが薔薇であることを確認する。
「バリバリだ、これ」
 花に触れると音をたてて崩れた。まるで風化したようだと感心して、そんな悠長なことを考えている場合でないことを思い出して溜め息をつく。
 薔薇の花を花台に置き、それからそこに引き出しがあることに気づいた。一瞬ためらったが、麻弥子は結局引き出しを開け、そこに蝋燭と燭台を見つけて小さく歓声をあげた。
 バッグを探り、つい先日合コンで名刺代わりになにげなくもらってきたマッチを取り出す。芯が紙でできているマッチを一本引きちぎると着火して、その火を蝋燭へと移し、燭台に設置して闇にかざした。
「よーし、電話電話!」
 視界が確保できたことによって妙に気分が明るくなった。長く太い蝋燭はその芯もしっかりとしていて、多少の風には消えそうにない。そのことが、彼女の不安を払拭ふっしょくした。
 長い廊下をただ歩いていても電話はないかもしれないと思いついて、彼女は近くにあるドアがわずかに開いているのに目をとめて手を伸ばした。
 悪臭がきつくなったように感じたが深く追求せず、彼女は思い切ってドアを開け、そしてぼうっと立ち尽くす男に悲鳴をあげて顔を背けた。整った顔の男は白い肌に赤い唇が嫌に目につき、黒いタキシードに光沢のいいシャツ、ルビーのタイピンという時代を逆行する格好のまま両手に真紅の薔薇の花を抱え、艶やかな黒髪を風に流しながら麻弥子に流し目を向けている。
「ごめんなさい! 電話借りたかっただけなの! 花瓶は弁償します!! 蝋燭も返します――!!」
 まるで死人が立っているようだった。麻弥子は必死で謝罪して、それから何の返答もないことに怯えながら恐る恐る顔をあげた。唇の脇に犬歯を覗かせながら笑む男は微動だにせずそこに立ち、先刻と変わらず麻弥子に視線を向けている――本当に、寸分の狂いもなく立っている。
 麻弥子は蝋燭を男に向け項垂れた。柔らかな光の中には、等身大の油絵が一枚置かれていた。
 さっきから馬鹿なことばかりやっている。一人でよかったと初めてそう思い、明るく光った窓に雷鳴を予期して身をすくませた。雨足はひどくなっているようで、窓を激しく叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。窓辺によって空を見上げて溜め息をつき、ふと眼下に視線をやって驚きの声をあげた。洋館には巨大な中庭があり、薄暗いながらもそこが薔薇園であることが見て取れた。ずいぶんと手入れが成されているように思え、麻弥子はかすかな違和感に小首を傾げた。
「じゃ、この匂いって薔薇の香りかー。うーん、確かにそんな気も……するかなぁ?」
 普通に嗅ぐなら悪臭と変わらないにおいだが、薔薇の香りといわれるとそんな気もしてくる。麻弥子はクンクンと匂いをかぎながら振り返り、ベッドの上に長方形の箱が乗っていることに気付いて動きをとめた。
 黒光りする箱はきっちりと蓋が閉まっている。
 どっと胸が鳴ったような気がした。薔薇の芳香はさらに濃度を増し、やはり麻弥子にとっては悪臭でしかない。
 こくりと唾を呑み込んで麻弥子はベッドに向かって足を踏み出す。炎が揺れると、濡れているかのように光る黒い箱に反射した光も揺れた。
 気味が悪い。
 麻弥子はベッドの数歩手前で立ち止まった。
「棺だ」
 年代物なのか新しいものなのか、麻弥子の混乱した頭ではよくわからなかった。ど、ど、と心臓が胸の奥をノックし続ける。
 危険だ。車などめったに通らない山中、灯りもない洋館、人の気配がないにもかかわらず手入れされた薔薇園、笑みを刻む男の口元に鈍く光る犬歯、そして、ベッドの上の棺。
 それは、あまりに異様な光景だった。
 人の気配はない。麻弥子は確認するように心中で繰り返す。
 そう、人の気配はないのだ。
 言いえぬ不安に体が震えた。人ではないなら、一体その棺に何が入っているのか。小刻みに揺れる炎に照らされた棺の中には、もしかしたら何もいないかもしれない。あるいは、予想通りのモノが眠っているのか。
 逃げろ、と、本能が囁く。
 早くここから逃げ、今日のことは忘れたほうがいい。それが自分自身のためだ。
 じっとりと手に汗がにじんだ。
 逃げ出したい衝動と反するものが胸の奥で「進め」と命令し続けている。恐怖を通り越したその感覚が麻弥子の足を前進させた。
 息が詰まるような重苦しい空気を掻き分けて歩き、麻弥子は棺の前に立った。カタカタと燭台が揺れ、それに伴って炎も大きく揺れた。深く息を吸い込んで、開けるなと命令を出し続ける己の本能を無視して、彼女は棺に触れた。
 まるで、石棺に触れるような冷たさが指先から伝わってきて、麻弥子は体を大きく揺らした。しかし、その手は棺に吸い寄せられたかのように離れることなく、しっかりと添えられている。
 うるさいほどの心音を耳にしながら、麻弥子は銀の十字架が刻まれた棺の蓋をゆっくりと持ち上げた。
 室内に蝶番がきしむ低い音が響きわたり鳥肌が立った。思わずそむけた顔を、麻弥子はゆっくりと棺の中に向け、そして凍りついたように動きを止めた。
 棺の蓋の奥、そこには、真紅の薔薇を一輪くわえ、すよすよと眠る全裸の男の姿があった。
 肌が異様に白いとか、絵画と同一人物だとか、口元の犬歯がやけに目立っているとか、ナニの形状などどうでもよくはないのだがこの際どうでもいい。
「い……」
 麻弥子は振り向きざまに駆け出した。
「嫌ー!! 変態! 変態よー!!」
 しかもナルシストだ。手に負えない。かかわりたくない。ああいった手合いはしつこくて陰湿で、俺様天下な性分に違いないのだ。
「変質者――!!」
 瞬時に正しい判断を下し、麻弥子は今度こそ本能の命じるまま闇の中を出口に向かって一目散に走る。濃密な薔薇の香りも闇への恐怖もすべて振り切り、降りしきる雨の中へ飛び込んで何度も転びそうになりながら明かりめがけて突進した。ロックを解除し車に乗り込むと、キーを差し込み思い切りひねる。
「かかってよ! スクラップにするわよ、このポンコツ!!」
 ガンガン蹴飛ばし数度かキーをひねると、小さな唸り声を繰り返していた愛車が奇跡的に動き始めた。アクセルを思い切り踏み込むと、タイヤがわずかに空回りしてから濡れた路面を捉えて車体を前へと押し出す。
 全身の毛穴からどっと汗が噴出した。途中で蝋燭がなくなっていることに気付いたがどこで落としたのかどうしても思い出せず、わずかな疑問を抱きながらもアクセルを踏み続けた。
 しばらく走ってからようやく、彼女はこわばった体から力を抜いて、高速道路のゲートをくぐった。


「遅ようございますー」
 翌日、麻弥子が出社すると同僚が呑気に茶をすすりながら新聞片手に声をかけてきた。時計はすでに十時を指していた。
「車のエンジンかからなかったのよ!」
「ありゃりゃ。買い替えですか?」
「中古探さなきゃいけないの。もーすごい出費。今月ピンチなのに」
 そこまで言って、麻弥子は口を閉じた。同僚は新聞を広げた手を止めて視線を投げる。
「麻弥子さん?」
「あれ? なんかこの話ってしたっけ?」
「聞いてませんよ。実は寝ボケてます?」
「失礼ね」
 怒ったふりをすると同僚はニッと笑顔を見せて新聞をめくり始める。給湯室に行ってコーヒーを淹れて戻ってくると、同僚は少し難しい顔をしていた。
「山火事があったらしいですね。洋館全焼だそうですよ」
「最近火事多いよね。気をつけなきゃ」
「そうですねぇ。麻弥子さん一人暮らしだし、とくに危ないですよねぇ」
「お互い様でしょ」
「あ、そうでした」
 軽い会話に笑顔を浮かべ、何かがほんのわずかに引っかかっている気がして首をひねった。しかし何も思い出せない。
 何かとても大切なことだったような気もするし、忘れたほうがよかった記憶だった気もする。麻弥子が正体の掴めない不安に動きをとめ考え込んでいると、新聞をフォルダーにしまおうと立ち上がった同僚もふっと動きをとめた。
「あれ? 麻弥子さん香水替えました?」
「え?」
「薔薇の香りがしますけど」
 とくりと心臓が小さくはねた。
「――つけてないわよ、気のせいじゃない?」
 何かを、忘れている気がする。しかし、やはり彼女は何も思い出せずにいた。デスクに戻ろうと歩き始めた彼女の髪から、どこからついたのかもわからない赤い薔薇の花びらがひらりと舞い落ちる。

 ――薔薇の館の主人が「男爵」と呼ばれ、彼を殺害した「ハンター」に制裁を加えるべく吸血鬼たちが血眼になって犯人を探しているなど、今の彼女は知る由もなかった。

  Back


一言感想フォーム  *は必須項目です
*作品名   *ご意見 
コメント
Powered by FormMailer.(レンタルサーバーリンク)