神の体は滅びない。

不変の肉体を苗床にし、魂だけが生まれ変わる。

いくども、いくども、幾度も――。


「下におりたいんだ」
 緊張した声が響く。
「セフィロト、僕は下界に……」
 言葉は重い溜め息にさえぎられ、少年はそれ以上続けられずにうつむいた。
 光の加減で銀にも見えるプラチナ・ブロンドが柔らかく波打って流れる。端正と表現されるだろう横顔には長い睫毛が影を落とし、少年の落胆するさまを一層強調させた。
「まだあなたには早すぎる」
「でも、僕が生まれてもう十年だ。早いなんてこと……」
「早いとオレが判断しているんですよ、アダム様」
 にべもなく言い放たれてアダムは唇を噛んだ。アダムを育て、教育し、未来の指南となるはずの男は、己の意見だけを口にして背を向けた。
 世界には多くの亜空間――狭間と呼ばれる場所がある。二人の住む宮殿もその一つに存在し、世界を彷徨いながら悠久の時の中に浮き沈みしている。
「どうして駄目なんだよ」
 セフィロトが部屋を出て行ったあとで、アダムは小さく反感の声をあげる。しかし、強く意見することはできずにうつむいた。
 視線の先には床があり、その一部は水瓶となっている。ゆらゆらと揺れる水瓶の水は、いつもなら惜しむことなく様々な世界を少年に見せ彼を喜ばせたのだが、今日に限って彼の顔以外何も映さなかった。
 不満そうな顔は生まれた頃から変わらない。死のない肉体には成長も老化もなく、彼は生まれた時から今と寸分もたがわぬ姿形をしていた。
「行かせてくれたって……」
 ふと、水鏡が揺れる。ぬるりと水の一部が盛り上がったのを見て、アダムは慌ててしゃがみ込んで水瓶を覗いた。
 水の奥には紺碧が広がり、目に痛いほど白い雲が浮かんでいた。


 気がつくと、アダムは雑踏の中に立ち尽くしていた。天界では耳にすることのなかった雑音で頭の中がひどく痛み、汚れた空気が肺に押し寄せる。ごほりと喉が嫌な音を立てて汚れた空気を吐き出したが、再び吸われる空気も汚れているため、彼は激しくむせた。
「大丈夫かい?」
 体を折るようにして咳き込む彼を横目に通りすぎる者が多い中、掠れたような女の声がかけられる。肺がキリキリと傷む。背にあたたかい何かが触れ、セフィロト以外の誰かに触れられたのだと悟ってアダムは慌てて顔をあげた。
「平気です」
 言った途端、咳でむせた。下界の空気がこれほど悪いとは知らなかったアダムは、自分が下界に降りられた原因を探ることも忘れ、この大気の汚染状況に困惑していた。
 頭痛がするほどの咳から開放されると、アダムはシャツの袖を口に当ててゆっくり空気を吸い込んだ。薄い布ではとてもフィルターの役目は果たせないが、それでも気休め程度にはなる。
 全身の力を抜いてから、ようやく彼は自分が着ている服が天界で身につけていたものとは違うことに気付いた。細やかな刺繍のほどこされた上質な布をふんだんに使ったゆったりとした衣装は、簡素で機能的なシャツとコットンパンツに化けている。足元のスニーカーを見ている途中で、アダムは視界に揺れる黒い物体に気付いた。
「あれ?」
 手を伸ばすと、いつもより少し硬い髪が指に触れ、視界の黒い物体も揺れた。目を丸くして顔に触れてみるが、造形まではよくわからない。
「どうなって……」
 不安を募らせると、背に触れていたものが腕を掴み、強引にひっぱられた。
「新太郎さん!!」
「え?」
「ああ、やっと迎えに来てくれたのね。ずっと、ずっと待って――」
 どこにこんな力があるのかと驚くほど老婆はアダムの腕をきつく握って揺さぶった。感極まったその瞳には涙がたまり、にごった瞳に移った少年の顔も泣いているように歪む。
 アダムは始めて地上に降りた。ゆえに、目の前の老婆とは初対面のはずだ。変容した顔が懐かしい誰かと重なったのか、老婆の瞳から零れ落ちた涙は、頬を滑って小さな珠になった。
 胸の奥に疼くような痛みが生まれる。
「あの、僕は」
「おばあちゃん!!」
 鋭い声にアダムは顔をあげ、老婆はほころんだ顔をわずかにこわばらせる。
「何やってるのよ!」
 言葉同様に鋭い表情の女は老婆の腕を引き、アダムは痛いほど掴まれていた腕が解放されて小さく息を漏らした。胸の奥には安堵とは別の感情があり、その正体を掴みかねてアダムは戸惑いを隠せず二人に視線を向ける。
「すみません、最近ボケちゃって……怪我、ありませんか? 何か変なことは……」
「いえ、平気です」
 言いながらも、すがるような老婆の瞳に困惑して後退する。
「心配させないでよ」
「でも、新太郎さんが……」
「生きてるはずないでしょ、戦争に行って帰ってきてないんだから。他人の空似よ。――おばあちゃんと同じ年頃ならこんなに若いはずないわ」
「そう……ね……」
 明らかに落胆して老婆の視線はアスファルトに落ちた。その様子を呆れたように見つめ、女はアダムに向き直って小さく頭をさげる。
「ごめんなさい」
 短い謝罪とともに彼女は老婆を連れて歩き出す。脳裏に残像がチラチラよぎり、アダムはこめかみを押さえて顔を伏せた。
 どこか出会ったような気がする。初めて人間界に降りたのだからそんなはずはないのに、その思いがどうしても消えない。
「……前任者の記憶……? でも、そんなの残ってるはずない」
 魂が入れ替われば思い出も消える。不変の肉体は引き継げても記憶までは引き継げない。
 ひどい違和感に悩まされながら、アダムは彼女たちとは別の道をゆっくりと歩き始めた。


 それからどこをどう歩いたのか記憶していない。とにかく空気のいい場所に向かって突き進み、彼は川べりの原っぱにたどり着いて座り込んだ。
 空気も悪いが、スニーカーというのがとにかく歩きにくい。天界とは違い、様々なものが落ちているところを裸足で歩くわけにもいかないから仕方なく靴を履くものの、いろんなところがこすれてひどく痛んだ。
「なんでこんな格好してるんだろうなぁ」
 天界と同じ服装だと目立つため、これはこれで助かるのだが、さすがにすんなりと受け入れるほど単純にはできていない。髪の色も、どうやら目の色も天界といたころと違っていることを知り、アダムは不安を覚えずにはいられなかった。
 セフィロトにはまだ降りるのは早いと言われていた。
 それにもかかわらず、水鏡の反応が何らかの変化であることを悟って手を伸ばしてしまった。軽率にも程がある。
 天界に戻ればセフィロトの説教が待っているだろう。普段、アダムは彼の命令には歯向かわない。反発する必要も、反発する意味も見出せなかった。
 しかし今回は本当に不満を抱き、可能性を無視し、興味本位で水鏡に触れてしまった。
「……怒ってるかなぁ」
 迎えが来ないことを考えれば、まだ気づかれていないのかもしれない。このままこっそり天界に帰れば、あるいはセフィロトに気付かれないまま終わる可能性もある。
「そうだ! 天界に帰る方法を――……帰る方法……」
 初めて地上に降りたアダムは、事の重大さに気付いて青ざめる。地上に降りてみたのはいいものの、帰るための手段など何も考えてはいなかった。これでは大人しくセフィロトを待つしかない。いや、待っていて迎えに来てくれるならまだ救いはあるが、どこに行くとも伝えていない状況では、迎えにきてくれない可能性だってないとは言いきれない。
 肉体は不変だが、寒さを感じれは痛みを感じ、空腹だって人並みにある。
 迎えに来てもらえるまで、頼れる相手がいない彼は一人ですごさねばならない。
「も、もう我が儘言いません」
 外見は十七、八の少年だが、中身はてんで子供である。何かを祈るように手を組んで天空に顔を向け、その途中で動きをとめた。
「おばあさん」
 雑踏の中で出会った老婆は道端で立ち止まり、不意にしゃがみ込んだ。それを目撃してアダムは慌てる。彼が砂利道に飛び出すのと、走行中の車が急ブレーキを踏むのはほぼ同時だった。
「死にたいのか!?」
 車の窓を開けて男が怒鳴ると、アダムは何度も頭をさげて謝罪してから振り返り、そこに座り込む老婆の肩に手を置いた。
「危ないから立って……」
「新太郎さん」
 彼女が顔をあげてから初めて、アダムは彼女が何を見ていたのか気付いた。手を泥だらけにして取ろうとしていたのは小さなピンク色の花をつけた雑草――花を摘まずにその根から掘り起こそうとしている彼女の隣に座り、アダムは慎重に土を掘り起こしてその株を手にする。
 アダムはクラクションに驚いて立ち上がり、深々と頭をさげて老婆とともに原っぱへと移動した。
「どこに植える?」
 きっとどこにでも咲いている雑草だろう。そうわかってはいたが、アダムは彼女に問いかけながら原っぱを歩き、斜面に差し掛かる手前で足を止めた。
「あそこがいいな。ちょっと待っててね」
 不安そうな老婆をおいてアダムは斜面を降り、わずかにできた窪地に小花をつけるその株を丁寧に植え替えて彼女の元まで戻る。
「あそこなら強い風が来ても大丈夫。きっとまた来年、綺麗な花を咲かせてくれるよ」
 笑顔を向けると涙ぐまれ、アダムは訳もわからずうろたえた。何か気に障ることを言ったのかと尋ねたが、彼女はなんでもないと言いながら首を振るばかりだ。
 胸が痛むのは彼女の涙のせいなのだろうか。
 名を聞こうとして、しかしアダムはその問いを飲み込んでいた。
 会話しようにも適した話題がなく、ただ沈黙だけが穏やかな風に乗って流れていく。そうしてずいぶん長いこと、アダムは彼女の隣に立って町を眺めていた。
 不思議と息苦しさがないことに気付いた頃、彼女の視線が河川の向こうを捉えていることを知る。
「……帰るの?」
「ええ、少し心臓が悪くて……ボケも入ってるって言われてるから、早く帰らないと家の者が心配するの。……また、……いいえ、なんでもないわ」
 彼女は寂しげな笑みを浮かべて頭をひとつ下げてゆっくりと原っぱを後にした。その小さな後ろ姿がひどく切なく映り、アダムはやりきれなくなって座り込む。
 彼女がアダムを誰と重ねていてもそれは決して彼自身ではない。見ず知らずの誰かでも、彼の前任者の「神」であったとしても、別の命としてこの世に存在する限り、やはり彼自身とは違うのだ。
 優しい言葉をかければ嘘になる。
 その嘘を、彼女は喜ばないだろう。
「早く上に帰りたいなぁ」
 少し、風が冷気をまとい始めている。春の兆しがあるとはいえ、夜がくれば寒暖の激しいこの世界は身を裂くほど冷えるに違いない。
 アダムは知らずに肩をすくめ、それから視界に柔らかな緑以外のものが映って動きを止めた。
 手を伸ばして掴みあげ、小さく声をあげる。
「ハンカチだ!」
 小さな布には刺繍があった。イニシャルというものだろう。アダムは立ち上がり、砂利道を見渡してから駆け出した。ずいぶん時間がたってしまったが、彼女が歩く速度はさほど速くはなかったから、急げば追いつくかもしれない。そう思って痛む喉と肺を無視して大地を蹴る。
 まだ生まれて間もないアダムは世に通じ、世界を感じる術がない。持って生まれた勘だけを頼りに濁る空気を掻き分けるように町を横切り、小さな彼女の背中を捜した。
 いくつもの交差点の角を折れ、アダムは目を見開いた。捜していた人の姿を発見すると、まるで何かに呼ばれたかのように彼女が振り返った。
「新太郎さん……!」
 必死の形相に驚いて、アダムは立ちすくむ。うるさいほどのクラクションが長く大気を震わせ、次の瞬間、彼の視界は大きく揺れた。
 空が、見える。澱んだ小さな空。箱の中に押し込められているようだと、薄れゆく意識の片隅でぼんやり思った。


「いえ、突き飛ばしたんじゃなく庇ったんですよ。とにかく来てください。非常に危険な状態です――わかっています。しかし、延命はご本人が拒否されました。……そんなことを言われても……とにかくできるだけ早く来てください」
 雑多な音、雑多なにおい。ああ、ここも空気が悪いなと、アダムはぼんやりと考える。
「気分は?」
 事務的に問われ、セフィロトに質問された気がしてアダムは慌てて体を起こした。
「まだ寝ていたほうがいい。痛いところはありますか?」
「え……いえ」
「あとで精密検査を受けてください。君は直接接触がなかったとはいえ、突き飛ばされた衝撃で道路に転倒してる」
「転倒」
 顔をあげると、白衣の男が受話器から手を離してカルテを確認しながらそう口にした。カーテンで仕切られた白い小さな部屋を見渡し、アダムは必死に記憶の糸をたぐり寄せる。
 彼女とわかれたあとでハンカチを拾い、町を走り回っていたのは覚えている。
「ハンカチ」
「ハンカチ?」
「彼女に渡そうと――」
 そうだ。彼女に渡そうとしたら、凄い音がして――。
 そして、それ以降の記憶がひどく曖昧になっている。驚愕する彼女の顔があまりに鮮明で、それ以外のものが希薄になる。
「僕、どうしたんですか? なんか、よく思い出せなくて」
「目撃者の証言によると、車にはねられかけたところを桜井さんに助けられたようです」
「桜井さん……?」
「この病院に運び込まれたおばあさん――」
「先生! 急患お願いします!」
 話の途中で白衣の男は丸椅子から立ち上がった。
「まったく人使いが荒いな……すまないが、動けるようならこの書類の記入を。親御さんに連絡したほうがいいな。あとでナースを呼ぶから少し待っててください」
 溜め息をつきながら白衣の男が慌しく出て行くと、アダムはしばらく茫然と渡された書類に視線を落とし、はっとして硬いベッドから降りた。置かれているスニーカーをはき、カーテンを少し開けて人がいないことを確認してから通路を横切り、クリーム色のドアを静かにスライドさせる。
 今まで小さかったざわめきが大きくなる。アダムは広めの通路に出てあたりを見渡した。
「あのおばあちゃん、桜井さんって言うんだ……」
 男の話しでは、彼女はここにいるらしい。誰かに聞こうとしたが忙しく歩き回る人かひどく顔色の悪い人ばかりで、結局声をかけられずに再び勘に頼って歩き出した。
 たくさんの人が集まるそこは病院と呼ばれる。水鏡で何度も見た光景は、実際目にするよりも殺伐とした雰囲気があった。
 その中をアダムは突き進んでいく。
「うーん、上……っぽい?」
 建物はいくつかの棟で別れているらしい。階段の前で立ち止まり、少し考えながらも足を踏み出して上の階に行き、彼はさらにもう一階上がった。
 そして三階の廊下、ナースステーションの前を通り過ぎる途中で立ち止まる。
 面会謝絶の文字が目に付いた。
「すみません、ここ」
 声をかけると白衣の女性が顔をあげて近づき、
「ご家族ですか」
 短く問いた。
「お、おばあちゃんが、ここにいるって」
 嫌な文字が目に飛び込んできてアダムが混乱したまま口を開くと、白衣の女性は深刻な表情でドアに手をかけた。
「そばにいてあげてください。お父さんとお母さん、もうすぐ着くそうです」
 女の声を振り切るようにスライドするドアの中に飛び込んでアダムはベッドに駆け寄った。
 静かな部屋に響くのは一定のリズムを刻む電子音と苦しげな呼吸。
「朝子さん」
 ふっと名が胸のうちに湧く。見知らぬ笑顔が眠る老婆と重なって、アダムの心の中にゆっくりと溶けていく。
 彼女は道端の草を見つめていた。空襲に怯える日々に、それは小さな灯りとなって彼女を励まし続け、あるとき小さな花をつけた。
 激化する戦時下で出会った彼女はひたむきで明るく、「今」を賢明に生きる少女だった。
 泣き言など一度として口にしなかった。毅然と前を向き、敵兵の奇襲に備えて死を覚悟で竹やりを握った時ですら、彼女は下を向くことはしなかった。
 その鮮烈な魂に惹かれずにはいられなかった。
「……朝子さん」
 己の立場もわきまえず、人の娘を愛してしまった彼はただ苦悩した。血臭が世界を染め体に変調をきたすまで、彼は地上に留まり続けて彼女のそばにいた。
 しかし限界が来た。
 来てしまったのだと、アダムは心の中で呟く。
 目頭が熱くなり瞳を伏せた。
 出会っていたのは前任者の「神」だとそう悟る。記憶しているのは心ではない。その体、細胞のすみずみまで、彼女のことを確かに知っていたのだ。
「新太郎さん」
 か細い声が聞こえ、アダムは苦しげな呼吸を繰り返す彼女に手を伸ばす。白く曇った酸素マスクの下で、唇だけが静かに動いた。
「ごめんなさい、あの花、枯れてしまったの。大切に大切にしてきたのに、枯らしてしまったの」
「違う……!!」
 それは彼がついた小さな嘘。
「枯れるって、わかってたんだ。だから――」
――上からお呼びがかかった。僕も戦争とやらに行かなければならない。
――朝子さん。来年、この花が咲いたころに迎えにいくよ。
「だから、嘘を……」
 刻む時間ときがあまりに違いすぎて、永久を生きるその肉体はあまりに不変で不条理で、だから優しく残酷な嘘をついた。
――必ず帰ってくるよ。
――だけど、もし。
――もし戻ってこなかったら、僕のことは死んだと思って忘れて欲しい。
 お国のために死ねるなら栄誉だ。そう笑って彼女と別れた。
 不変である肉体は死ぬことはない。けれど万能というわけでもない。与えられた永遠を手放すのは、彼女と別れることよりはるかにやすかった。
 病んだ体をセフィロトに託し、そして前任者は永久の眠りについた。
 謝罪の言葉をその肉体に残したまま。
「わかっていました」
 彼女の唇が言葉もなくそう動く。苦しげに歪んだ顔は、なぜかアダムの目には笑顔に見えた。
「怨んではいないの。私は、ねぇ、強がりじゃないのよ。私は幸せだったの。花が枯れてしばらくは泣いて暮らしたけど、でもいい人に出会って家族を持って、本当に幸せだったの」
 震える手を掴むと、今度は本当に笑顔を見せた。
「ただあなたが自分を責めてやしないかと、それだけが心残りだったの」
 微笑む彼女に何も返せなかった。それから彼女はドアを見つめて瞳を細めた。
「ああほら、大切な家族が来てくれた。でも残念だわ。あなたを送ってあげなくちゃ」
「朝子さん……?」
 不思議に思った刹那、手を強く引っぱられて目を見開く。病室のドアが開く直前に見たものは、幼ささえ残る笑顔を浮かべた少女だった。
 高い電子音が長く長く室内に響いている。
「さあ、行きましょう」
 柔らかな風をまとった少女がささやいた。巻き上がる風に驚いて瞳を伏せ、風が治まったのを確認して目を開けると、狭苦しい病室は完全に消えうせ、替わりに見慣れた水鏡があった。
 アダムは息をのんで辺りを見渡す。白い石柱が何本も立ち並ぶ空間は大理石の巨大なフロア。空気は喉と肺を傷つけることなく緩やかに流れ、耳につく雑踏はなく、静寂だけが世界を満たす。
「……夢……?」
 茫然と呟いたアダムはわずかに揺れる水面に気付いて座り込み手を伸ばした。
 波紋の中心には淡いピンクの花びらが一つ、小さく弧を描いて揺れている。アダムはそれを手にとって、そっと己の胸に押し当てた。
 小さな雫が幾度も落ちて水面を揺らす。広がり続ける波紋を直視することができず、生まれたばかりの神様は、幸せそうに笑う少女の笑顔を胸に刻み込みながら静かに涙をこぼしていた。


「ねえ、お父さん」
 押入れをひっくり返す勢いで探し物をしていた女は、目的のものを見つけると丹精した庭を眺めていた男を呼び寄せた。
「見てよ」
「なに?」
「お義母さんの写真」
 女が指した色あせた写真を見て、男は小さく声をあげた。
「あの日ね、お義母さんの様子が変だったの。急にいなくなったり、一人で帰れるとか言いだしたり……ねえ、本当に新太郎さんが来てくれたのかもしれないわね」
「おいおい、お前までそんな……」
「でもこれ」
 女が指す写真を見つめ、男は眉をしかめる。母は少年を助けるために車に轢かれたという。意識がほとんどない状態にもかかわらず延命処置を断ったという話も奇妙なのだが、それ以上に奇妙な出来事があった。
 若い母の写真を見て、男は小さく唸り声をあげる。
 母が眠る病室には、母以外に別の人間が「二人」いた。その一人が、色あせた写真の中で楽しげな笑みを浮かべて映っていたのだ。
「あ、新太郎さん」
 女が指差す。
「これ、絶対本人だわ。そっくり」
「病室にいた子とは違うみたいだな」
「え?」
「だって、病室にいたのは金髪碧眼の美少年だったろ。これは日本人だよ」
「同じ人よ、お父さんの目も節穴ねぇ」
「いや、別人だって」
「同じよ」
「別人だったら」
「同じ人です」
「……お前も頑固だな」
「あなたもね」
 顔を見合わせ苦笑して、同時に空を見上げた。
「天国ではいっしょにいるのかしら」
「どうだろうね。いっしょなら親父がヤキモチ焼くかも」
 再び顔を見あせて笑い、故人に思いを馳せながらアルバムをめくりはじめた。
 過去を辿り今を辿って変化した思いは、ゆっくりと形を成しながら、やがて未来へと受け継がれていく。

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