ひときわ見事な花を凝視して彼女は瞳を細めた。細く華奢な指を伸ばし、茎に触れるや否や無情にも直角に倒す。
 止める間すらなかった。
「可哀想だろ」
 そう彼が意見すると彼女は反論するように小さく鼻を鳴らした。
「咲いてるから綺麗なんだ。摘んだら枯れる」
 彼の言葉を耳にしながら、彼女は摘んだばかりの花を子供のように振り回して歩き始めた。
 長く続く一本道。
 地平線にまで続くその道を二人並んで歩き、ふと足を止めて振り返った。今まで歩いてきた道はわずかにくすんで見える。実際にそうであるのかはわからない。前に進めば進むほど、後ろに広がる世界が色あせていくようなその光景が、錯覚なのか現実なのか、彼はいまだに計りかねている。
 しかし彼女は彼の動揺など知ったことかと闊歩を続けた。互いの距離が少し開き、そこでようやく足を止めて振り向く程度だ。
「おそーい」
 口を尖らせて文句を言い、軽く手招く。隣に並ぶと彼女は再び歩き始めた。
「ねぇ、付き合うようになったきっかけ、覚えてる?」
「ああ。……ってか、思い出したくない」
「運命の出会いってやつだと思わない?」
「あれはハプニング」
 道端でバッグを拾い、交番に届けようと歩いている途中で彼女に出会って問答無用で殴られた。しかもご丁寧にグーで。
 さらに格好悪いことにアッパーが見事にきまって脳震とうを起こし、病院に運ばれて警察に問い詰められたというオマケつきだ。
 女にされただけでもみっともないのに、気絶してもバッグを離さなかったものだから余計にタチが悪い。誤解が解けるまで、よほど生活に困っているに違いないと噂されていたらしい。
「まさかこうなるとは思わなかった」
 目撃者の証言から引ったくり犯人でないと証明できたからよかったものの、それがなかったらどうなっていたことか。
 品行方正とまではいかないにしても、それなりに真っ当に生きてきた男としてはなかなかぞっとしない話だった。
 謝罪がてらお茶に誘われ、話しているうちに気があって。
 それから結婚の話が出るまで約二ヶ月。いっしょに暮らそうかと冗談めかした本気の言葉に、彼女が笑って答えたのは一週間前の出来事である。
「いや本当、人生イロイロ」
「オヤジ臭い」
「だってオレたち、一ヶ月後には結婚する予定だろ」
「あ、花嫁衣裳、インド風ってどうかな?」
「……なんでインド」
「可愛いじゃん。ガングロにしてさ!」
「それはイヤ。ナマステーって言いたいんだろ」
「言わないよ」
 膨れっ面になって言葉を返す。背後から迫ってくる闇も、さほど恐怖を抱かせる要因にはならなかった。眼前に続く道がどこかで途切れればそれが終着点なのだ。
 そこまで二人で歩いていけばいい。
「永遠に続いちゃったりして」
「腹は減らないみたいだからいいんじゃね?」
「この花食べられないのかなー」
「いやそんな、何ひどいこと言ってんの」
「おいしそうじゃん。ずーっと花畑だし、食べられたらラッキー」
「頼むから食べるなよ」
 肩を落としてあたりを見渡す。本当に見事な花畑が広がっている。極彩色の花々は思い思いの形をして咲き乱れ、甘い芳香を放っていた。
 お互いに花のことなど詳しく知らないが、そこに咲く花が花屋で売っているものと違うことだけはわかる。花弁の先にさらに小さな花が咲いている姿など、すでに奇異と表現するしかない光景だ。
 だが、見目が悪いというわけではない。ひとつの個性として、己を誇るように花はそこに咲くのだ。
 彼はちらりと彼女の手元に視線をやった。淡いピンクの花は、なぜか摘む前よりもいっそう輝いて見える。
「なんでその花選んだの?」
「一目惚れ」
「花に?」
「うん。なんか呼ばれちゃった気がして」
「……ふーん」
 いつもなら軽く笑い飛ばすところなのだが、表情とは裏腹に彼女の声音が真剣である気がして、彼は茶化すことなく花を握る手に自分のそれを重ねた。
 ちょっと驚いた顔で彼女は彼を見て、それからかすかに笑った。
「どこまで続くんだろうね」
 照れを隠すように彼女は明るく口を開く。
「さーなぁ。でもさ、二人でなら悪くないじゃん?」
「いい場所に続いてたらいいけど、変なとこだったらヤだよ」
「変なとこ?」
「地獄とかー」
「……って、死んでるの前提なんですか」
「だってそれっぽい」
 ちらりと背後を確認する。灰色になっていく世界に取り残された花は次々と枯れていく。終焉を告げるその光景に、死のイメージが自然と重なった。
「三途の川だったら踏ん張るんだけど、道ってどこに続くかわかんないんだよね」
「走ってみる?」
「走るの?」
「そうそう。息が切れるまで走って、倒れる瞬間ゴールって叫んで、グリコのマークの真似するの」
 そう意見して、手を繋いだまま見本のようにポーズをとると、彼女は声をあげて笑った。なにかツボに入ったらしく、発作のようにしばらく笑い続け、落ち着いてから大きく手を前後に揺らしながら彼を見る。
「手は?」
「繋いだまま」
「走りにくそー」
「花、絶対離すなよ」
 なんとなくそう言って一歩を踏み出した。その直後、肩を揺すられ視界が大きく揺れた。
 彼は低くうなってその不躾な何かから逃れようとしたが、体が自由に動かない。彼女の手を離せば少しは動けるようになるかもしれないと考えたが、どうしてもそんな気にはなれなくて、逆にいっそう手に力をこめた。
 次の瞬間、名を呼ばれる。
 慌てて目を開けて、彼は視界に映るクリーム色の天井を凝視した。どこだろう、と首をひねってようやくベッドの上にいることに気づく。
「よかったぁ」
 彼女の声を耳にして視線をさまよわせると、身を乗り出すように顔を覗き込んできた。
「あれ? 生きてる?」
「同じこと言ってる」
「は?」
「私も目が覚めたとき、そう言ったんだよ」
「だって花畑が」
「三途の川、渡ってないじゃん」
「でも花畑が!」
 そこまで言って、彼は記憶の糸を辿りながら上半身を起こして小首を傾げた。彼の疑問を察したように、彼女の瞳がどこか意地悪な光を宿す。
 記憶が正しければ、彼は彼女の両親に挨拶に行くためバスの中にいた。緑豊かな山は感心するくらい深く、都会生まれの都会育ちという彼は、その見事な景観に子供のように歓声をあげていた。
 バスは三時間に一本しかないのに、駅から乗ったのは彼と彼女以外誰もいない。
 そのことにも素直に驚いた。
 バスが山道を三十分走っても車一台見かけない。これはすごいところに来たぞと胸を躍らせると、カーブで何かが飛び出してきたのだ。
「あ、鹿が……」
 真っ黒な瞳でこちらを見ていたのは覚えているが、それ以降、彼の意識はプツリと途切れて現在に至る。 
「……まさか、天国?」
「まさかぁ」
「だって、目が覚めたら花畑で道しかなくて、そこ歩いてて、オレ、走る途中で――」
 手を、繋いで。
 そう続くはずの言葉を呑み込んで、彼は左手をゆっくり持ち上げた。ベッドから出ていたその手は、彼女の右手をしっかり握ったままになっている。
 夢と現実の境い目を見失って、彼は何度か瞬きを繰り返した。
 やっぱりここは天国じゃないのかと問おうとしたが、ドアの向こうで子供の楽しげな叫び声が聞こえて思いとどまる。
 かすかに消毒のにおいがした。緩やかに時を刻み続ける時計を見上げ、柔らかな日差しに気づいて彼はようやくここが現実なんじゃないかと考え直した。
 窓の外には淡いピンクのワンピースを着た女性がいて、それがナースだと気付くにはさほど時間は必要なかった。パジャマ姿の男がのんびりと日向ぼっこをしている光景に吐息をつくと、彼女が握っていた手に力をこめてきた。
「納得した?」
「運転手どうなったんだ!?」
 焦って聞くと彼女は笑い声をあげる。
「無傷だよ。一人だけ起きない人がいたからちょっと大騒ぎになったけどね? 頭打ったわけじゃないのに、本当呑気なんだから」
 安心すると同時にまた嫌なところで目立ってしまったことを暗に語られ、いたたまれなくなった彼は哀愁ただよう顔を伏せた。果たして医師がどんな苦笑いで診察してくれるのか――それを考えただけで、もう一度眠りたい気分になってきた。
 彼の心情を察し、彼女がこらえきれずに腹を抱えて笑い出す。
「笑ってろよ、もう」
 不貞腐れながらも苦笑すると、思い出したように彼女が声をかけてきた。
「離すなって言ってくれたじゃない」
「え?」
「夢の中で、花」
「あ、ああ?」
「なんで?」
「……なんでって、……離しちゃいけない気がしたから」
 唐突な質問に戸惑いながら答えると、彼女は真剣な表情を崩して笑顔を作った。
 奇妙なことに同じ夢を見ていたらしい。そのことをようやく理解して、不思議な現象は臨死体験だったのかと空恐ろしいことをぼんやり考えていると、再び遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえた。
 彼はなんとなくそれを耳にして安堵する。
「あれさ、離すなって言ってくれたの結構嬉しかったんだ。それでね、目が覚めて、なんか変な感じがするなぁって思って調べてもらったの」
 笑顔が眩しく思え彼は瞳を細める。少しだけ照れたように口ごもって、彼女は小さく息を吸い込んでから口を開いた。
「あの花、持って来ちゃったみたい」
「は?」
「ピンクの、一等可愛いヤツ」
 誇らしげに彼女が言う。彼の視線が知らずに下へとおりた。
 雪が溶けて世界が色づき始める頃、幸せをたくさん抱えた小さな花が二人のもとにやってくる。

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