夏祭り参加企画
使用お題 【夏期講習、汗、海、冷たい飲み物、風鈴、カキ氷、蝉、日陰、幽霊、水着、真夏の怪異】


  『 峠 の 茶 屋 』


 強い風が容赦なく吹き上げてきた。潮の香りがいつになくきつく感じ、彼は瞳を細めてかすむ水平線を眺める。うるさいほどの波音は、眼下に広がる断崖絶壁がつむぎだした悲鳴のようでもあった。
 山林が程近いため、波の音に蝉の鳴き声が混じる。耳を塞ぎたくなるような二重奏に息が詰まった。ジリジリと照りつける日差しが気温を押し上げ、否応なしに汗がしたたる。
 水平線がさらにかすんだ。
「いつまで突っ立ってんのよ!」
 あまりに果てのない景色に呑まれ、ぼうと意識が白み始めたころ、彼の白いシャツの端が掴まれて後方へ引っぱられた。よろめいた彼はその勢いで彼女の隣へと腰をおろす。瞬時に冷気が肌をつつんだ。
「誰かさんのお尻眺める趣味ないんだから」
 確かに目線はその位置になる。しかし、あらたまって告げられると妙な気恥ずかしさを覚え、知らずに表情が険しくなり、彼は彼女を睨んだ。
「ほら、なに頼む?」
 不機嫌になる彼を無視して彼女は木製のメニューボードを見せた。さほど豊富な品揃えではないメニューから選べる物などたかが知れている。彼はボードから視線をはずし、まるで確認するように周りを眺めた。
 そこは山の中腹にある小さな茶屋。木製の小屋にひさしの延長のような屋根が付き、そこに直射日光を防ぐためだろうよしずが立てかけてある。涼をもとめた風鈴が風にあおられて軽やかな澄んだ音をかなでるその隣には、「カキ氷はじめました」と、妙な自己主張をするのぼりが立っていた。
「……カキ氷」
「イチゴ? メロン? レモン? あとは、えーっと」
「抹茶金時」
「ジジクサっ」
 ぽそりと抗議して、彼女はメニューボードを赤い布をひいた木製の長椅子へと返し、奥の小屋に顔をむけた。
「おばちゃーん、抹茶金時と団子とおひやー!!」
「お冷って、お前」
「お水」
「わかるよ。ってか、お茶とかジュースとか、冷たい飲み物ならいろいろあるだろ」
「んー、いまはお冷が飲みたい気分?」
 どんな気分だよ、と彼は嘆息して笑った。なんともレトロな――時代劇のセットといっても通用しそうな風情の中、小屋の薄闇の中で人影が動くのが見えた。返事もしない店主だが、仕事はちゃんとしてくれるらしい。少しほっとしながら彼は長椅子に座りなおして大きく息を吐き出した。
「暑いねぇ」
 彼女は白い足を投げ出すようにし、両手を長椅子について空をあおいだ。はるか彼方、もうもうと入道雲が立ちのぼる様はまさに夏真っ盛りだ。よしずが作り出してくれた日陰でようやく涼めると思った彼は、不意に先刻の熱気を思い出して眉をしかめた。
「なんで制服なの?」
 雲を眺めながら時間を潰そうとでも言うように問いかけてくる。彼は腕時計を確認して、
「夏期講習」
 と短く返した。しまったと、心の中だけでつぶやく。どんなに急いでももう講習は始まっているだろう。遅れて緊迫した空気の中に入っていく気にはなれず、彼は視線を足元へと落とした。
「あー、サボったな!」
「……うるさい。お前はどうなんだよ」
「私は夏期講習じゃなくて補習! テスト悪くて、このぶんじゃ卒業できないぞーって」
「……補習は?」
「サボっちゃった」
 えへへ、と可愛らしいつもりの笑いをむけてくる。
「頭いいんだねー」
「仕方ないだろ、……気付いたら、こうなってたんだから」
「ふーん? まあ気楽にいこうよ、青少年!」
 明るく笑い飛ばして、彼女はあっと叫んで水平線を指差す。
「あそこ!」
 興奮しているせいなのか、言いながら体ごと指をゆらすのでどこを指しているのかさっぱりわからない。彼は子供のように無邪気な彼女に合わせるように水平線を注視して首を傾げた。
「どこ」
「あそこだって、ほらほら、あそこ!」
「だから、どこ」
「まっすぐー! 見える? ねえ!」
「なにが」
「金のシャチホコ!!」
「ンなもん見えるか――!?」
 彼が、迷いなく名古屋城の天守閣をかざる奇怪な魚類の名を出した彼女に向けて遠慮なく怒鳴ると、長椅子の上に巨大なカキ氷の山が登場した。こんな場所なのだから、こぢんまりとしたものが出されるとばかり思っていた彼はあわてて顔をあげ小屋を見たが、店主はすでに薄闇の中に消えて再びゴソゴソと動き始めていた。
 無愛想な女だと、彼は小さく溜め息をつく。
「シャチホコって心のキレイな人にしか見えないのかぁ」
 本気で首を傾げている彼女に呆れ、彼は慎重にカキ氷の器を持ち上げる。抹茶の深い緑と氷の作る白のコントラストが目に鮮やかで、丸くかためた小豆、まんべんなく全体にかけられた練乳が妙に食欲を誘った。
 そこでようやく、彼は自分の喉がひどく渇いていることに気付く。
「おいしそぅ」
「食う?」
「いいの? あーん」
 遠慮なくかぱりと口を開く彼女に苦笑し、スプーンで氷だけをざっくりすくって差し出すと、彼女は瞬時に口を閉じた。
「味のついてるとこちょうだいよ! はい、あーん!」
 再び口を開く。なんとなく彼女のペースに流されながら、今度は望みどおりの物を彼女の口へと運んだ。
「ん、おいしい」
 頬を両手でつつんで顔をほころばせ、彼女は満足げに頷いている。そして、透明な氷の入ったコップを持ち上げて差し出してきた。
「私のも飲む?」
「いらない」
「えーおいしいかもよ?」
「ただの水だろ。オレはこっちをもらう」
 水なんて飲んだらせっかく作ってもらったカキ氷の味が飛んでいってしまいそうな気がして、彼は長いスプーンを氷の中へと潜らせた。じわり、と緑が広がる。蜜を吸った氷を口腔におさめるとわずかに抹茶の味がして、彼は思わず目を細めた。
 夏休みなのに二人して制服を着たまま、こうして茶屋でのんびりとくつろぐ。なんとなく、贅沢をしている気分になる。
 遠く聞こえる潮騒が子守唄のようにあたりを満たしていくのをぼんやりと感じ始めたころ、彼女は不意に立ち上がって深呼吸した。
「あー泳ぎたいなー。飛び込んじゃおっかなー」
「そっから落ちたら普通に死ぬぞ?」
「そうかなぁ」
「死ぬって。断崖絶壁。泳ぎたいなら砂浜行けよ。水着かしてやるから」
「水着?」
「昼から学校のプールで泳ぐつもりだったから海パンが」
「って、下しかないじゃん! 上は!」
「男なんだから上つけたら変だろ」
「女がなしで泳いでも変でしょ!」
「露出狂?」
「絶対、嫌!」
「じゃあ家に帰って水着持ってくればいいだろ。俺、学校行かなきゃ」
「行くの? 私一人になっちゃう」
「友達呼べよ。まさか皆海外行ってるってオチはないだろ」
「ううん……」
 背伸びをしながら彼が立ち上がると、彼女は逆に項垂れるように長椅子に腰かけた。
「友達、いないから」
「……いないって」
 驚いて見おろすと、彼女は顔を伏せたまま首をふった。なぜかぎくりとして、彼はそれ以上なにも尋ねることができなくなって口をつぐみ、まるで彼女から離れるように崖へと歩き出した。
 不思議なことに、うるさいほどだった波音や蝉の声がぷつりと途切れ、身を焼くような日差しや暑さも今はまったく感じない。
 ――それどころか。
「私、友達いないんだ。何度も何度もチャンスがあったのに、どうしても」
 ひたり、と冷気が背中に貼りついた。唐突に襲ってきたのは体の芯だけが冷えていくような奇妙な感覚。
 ここはどこだ。
 彼はここが見知らぬ景色であることにはじめて気付く。通学路ではない。通学路にこんな人気ひとけのない道などなく、彼はいつも耳障りな騒音をかかえた繁華街をぬけて学校へ通っていた。
 俺はどうしてここにいるんだ。
 学校が、とくに成績のいい生徒だけを集めて特別に設定した夏期講習に行くために家を出たはずだった。
 期待を裏切るわけにはいかない。全国模試は何番だったか、塾の試験はいつだったか、学校の課題はなんだったか。次の、試験は、どれだったか。
 期待を。
 裏切るわけには――。
「ずーっと、独りだったの」
 少女の声が耳元で聞こえた。全身に鳥肌がたち、体が動かない。思考が鈍くなり、直前に迫った崖だけが脳裏に刻み込まれる。
 鈍い思考の中で小さく疑問が生まれた。
 ――彼女は、誰だったのか。
 ついさっき言葉を交わしていたはずの少女の顔が彼にはどうしても思い出せない。制服を着ていることはわかったのに、学校も特定できないほど記憶が曖昧に崩れていく。
 吹き上げる潮風はやけに冷たく、彼は茫然と白波を眺め、そしてその途中で自分が靴を履いていないことを知った。
 茶屋は簡素な、露店といっても差し支えがない建物だった。靴を脱ぐ必要などない。背後への恐怖が揺らぎ、彼は愕然とした。
 彼は自分がここに来た理由を思い出した。
「俺は……」
「背中を押せば、友達ができるの。でも、どうしてもできなかったの」
 背中を覆う冷気が移動して軽く肩に触れた。ひやりとしたその感触は不快なものではなく、全身を包んでいた緊張を瞬時にとかし、彼の体を軽くした。
「いままでいっぱい頑張ったんだよね。だから、たまには休んでもいいんだよ。私みたいになっちゃダメ」
 柔らかな声がそう告げると同時、体から力が抜けて彼はその場に座り込んだ。不意に視界が大きく歪み、息をのんで両手で顔を覆うと、ようやく自分が泣いていることを知る。
 必死だった。
 毎日毎日、ただ一身に期待を受け、それに応えていくのが彼の日課だった。苦痛だと思ったことはない。ただがむしゃらだったのだ。
 その糸が緩んだのはいつだったのか。
 短い手紙をしたためて、彼は彷徨ううちにここへたどり着いた。死を望んでいたわけではなかったが、これ以上の期待に応えていく自信もなく、ただ楽になりたいがために崖へ吸い寄せられた。
 飛び降りれば助からないとわかりそうなものだが、先刻の彼にはそれを判断する気力が残っていなかった。
「は……はは、こっから落ちたら、死ぬな、俺」
 四つん這いになって飛び降りようとしていた崖を覗き込み、転がっていく小石に息を呑んだ。
 助けられたのだ。背を押すだろうと思っていた彼女は、そのかわりに彼の中にわだかまり続けた思いを言葉にしてくれた。
 乱暴に顔を擦って涙の跡を消し去り、彼は深呼吸をしてから振り返った。
 瞬時、どっと熱気が押し寄せ、潮騒と蝉時雨せみしぐれが鼓膜を揺らした。引いていた汗が頬を伝って流れ落ち、熱風にさらされてわずかな熱を皮膚から奪って気化する。
 彼の双眸は茶屋に――いや、茶屋であっただろう廃屋に釘付けになっていた。小屋の板ははずれ、長椅子は転倒し、よしずはとうに取り外されたのがどこにも見当たらない。ひびの入ったくすんだ風鈴が風にあおられて鈍い音を発する。
 茶屋の近くに自転車が一台、これは真新しいまま置かれている。そして、彼の近くにはきちんとそろえて脱がれた靴に、メモのような遺書が一通。
「ま、待てよ」
 その光景を凝視して、彼は頭を抱えた。
「俺、礼言い損ねてる」
 冷たく冷えた喉だけが、その幻想ゆめを現実へと繋げていた。


 それから彼はいつものように勉強に打ち込んだ。勉強ができると言うのは周知の事実、そしてなにより、彼自身も勉強そのものが嫌いではなかったのだ。
 ただ変わった事もある。
「いた! 委員長!!」
 周りには生真面目で通っている彼のあだ名は「委員長」である。誰がつけたか知らないが、中学校からこれで固定されていてなぜか高校まで持ち上がってこの呼び名が定着した。
 級友は肩で大きく呼吸しながら荒々しい呼吸の中から問いかけてきた。
「志望校のランク落としたってマジ!? 横井が真っ青になってた!」
「なんで」
「学校創立以来初の快挙だって騒いでたの知ってるだろ! もう少し勉強すれば何とかなるって――」
「俺、無理するのやめた」
「なんでだよぉ、もったいねー! この頭よこせ!! 俺が有効利用してやる!」
 叫ぶなり両手で頭を固定されてガンガン揺すられた。しかし、もう背伸びするのはやめることにした彼は、ただ笑うだけでとりあう気はない。
「マジ信じらんねぇ。あーあ、大学行ったら合コンのセッティング頼もうと思ってたのによお。知ってるか? 可愛い子多いんだぞ、あそこ」
「そうかなぁ。普通じゃね?」
 楽しげに返すと級友はむくれる。それをみてひとしきり笑った彼は、級友がオカルト研究同好会なるものを一人で勝手に設立し、受験を控えたこの夏、泣かず飛ばずのままめでたく解散の運びとなったことを思い出した。
 夏の日の不思議な出来事はいまだに彼の中で色鮮やかに生き続けている。
「なあ、オカルトって言うか、茶屋の噂ってない? 女子高生がでるような」
「珍しいな、委員長。嫌いじゃなかったっけ?」
「……信じてないだけで、嫌いじゃない。あるのか?」
「都心伝説みたいなやつかな。受験を苦にした女子高生が自殺して、同じ年頃の奴を道連れにするって話」
「……峠の、茶屋?」
「お、そうそう、そういう名前。実際には峠じゃないのになぜかそう呼ばれてる。一説にはあの世とこの世の境界線、てっぺんにある茶屋だからってゆーんだけどな」
「じゃあ違う」
 彼は小さく笑った。背に触れた手は、微量の力さえ加えられずにそこから離れて肩を叩いたのだ。
「峠の茶屋、それ、おせっかいな女の子の話だよ」
 目を見開く級友に微笑して、彼は空をあおぐ。
 二度と会うことはないだろう。名も顔も、何一つ彼の中に残さず、彼女は消えてしまったのだ。
 不意をついて涼しげな風が頬を撫でた。それを心地よく感じながら、彼は双眸を閉じる。
 身を焦がすように鳴き叫ぶ蝉時雨が消えた空には秋の風が吹きはじめ、彼の住む小さな世界から夏の熱気を緩やかに押し出していった。

=終=

こちらは競作小説企画「夏祭り」参加作品です

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