「久しぶり」
 懐かしい声がそう聞こえて、私は慌てて椅子から立ち上がる。
 彼女と会うのは――高校卒業以来だから、五年ぶりだ。電話で話したときより声のトーンが若干落ちているが、唯一聞き馴染んだその声は、五年前のあの頃を思い起こさせる。
「ゴメンね、ちょっと遅れちゃった」
 軽快な足取りの彼女は、セミロングの髪をなびかせてまっすぐこちらに近付いてくる。化粧をしている彼女を初めて見るせいかもしれないが、高校時代よりずっと綺麗になった気がする。
「私も――いま、来たとこ」
「よかった」
 彼女が笑うと、狭いけれど品のいい喫茶店のマスターが、一瞬見惚れたようにグラスを磨く手をとめた。
 ――うん、彼女は綺麗だ。
 それに、スタイルもいいし。淡色系のブラウスにジーンズを穿いただけの出で立ちなのに、とても人目を引く。そのラフな服装は快活な彼女の雰囲気によく似合っている。
「吉沢さん、会社どう?」
 彼女――榎本夕菜は、椅子に腰掛け、アイスコーヒーを注文してから私にそう話しかけてきた。
「もう五年もいるから……慣れたよ。転職もちょっと考えてるけど」
「ふぅん? 事務だったよね?」
「うん。でも、何か他の事もやってみようかなって」
 漠然とした希望を口にすると、急に今の生活では満足しきれていない自分に気付き――私は、知らずに苦笑をもらした。
 それと同時に感じるのは、単調な作業しかしていない毎日に、それに慣れきった自分に新しい生活などできるのかという微かな不安。
 堂々巡りだ。
「いいね」
 不意にかけられた言葉に、グラスに落とした視線を、私は慌てて彼女に向けた。
「いいの?」
「うん、いいじゃない。新しいこと始めるのって、楽しいよね」
「……」
 面食らってしまった。
 楽しむということを、私は忘れてしまっていたらしい。
「榎本さんは?」
「あたし? あたしは――う〜ん、結構転職魔でね。今いるトコも、やっと一年」
 ウエイトレスがアイスコーヒーを置くと、彼女は小さく会釈してからストローを手に取った。綺麗にマニキュアの塗られた細い指で、くるくるアイスコーヒーを掻き混ぜる。
「吉沢さん、偉いよねぇ。五年もか〜」
「うん……」
 それは慣れてしまった環境から離れがたいだけで――偉いと言われるものではないのだけれど、私はどう言えばいいのかわからないまま、曖昧に笑って頷いた。
「昔からそうだったもんね。真面目っていうか。一途――なのかな?」
「そんなんじゃ……」
「悪いヤツに引っかかりそうって、皆で冷やかしたりしたもんね」
 やはり曖昧に笑うことしか出来ず、私は彼女のしなやかな指に視線を落とす。不思議な感覚だ。私は高校の頃の友人とほとんど連絡を取っていない。
 というより、極端に友人の少ない人間だった。
 だから彼女からの突然の電話にも――正直、かなり驚いた。
 彼女はただ会いたいと言い、詳細を告げずに待ち合わせの日時と場所を指定した。彼女は今、私の知らない土地で暮らしている。帰省するので会いたいと、彼女は電話口で短くそう告げたにとどまった。
「それでね、吉沢さんって……宝石、興味ない?」
 突然の呼びかけに、私は驚いて視線を彼女に戻す。
「え?」
「ダイヤ。マルチとかじゃないよ、ちゃんと保証書もついてるヤツ。分割払いもできるんだけど、吉沢さんってそういうの、興味ない? 宝石ってね、価値が変わらないんだよ。持ってても損はないし、知り合いのツテで安くなるんだ。元々は200万もするダイヤなんだけど……」
 ああ、だから電話が来たのか――
 何故か私は、ひどく冷静に彼女の話を聞いていた。
 高校の頃は、さほど仲のいい友人というわけではなかった彼女。気が合わないというより、住む世界が違うという印象だった、華やかな彼女。
 悪いヤツに引っかかるというのは、それはつまり――
 私は、目の前の彼女に微笑む。
「うん……宝石、興味あるよ」
 私の笑顔につられたように、彼女も微笑んでいた。
 私はその日、契約書にサインをした。一括とローンがあると聞いて、私は迷いながらもローンを組むことにした。一括で払えないこともなかったが、何かあったときにすぐ使えるお金は必要だと思ったから。
 彼女はバッグから小さな紺色の箱と、白い封筒を私に差し出した。
 それを受け取ると、彼女はレシートを持って颯爽とレジに向かい、支払いを済ませて片手をあげた。
「吉沢さん、今日会えて本当よかった。昔と変わってなくて」
 彼女は少し寂しそうに微笑んで、言葉を続けた。
「本当に、よかった」
 そう言って別れた彼女を次に目撃したのは、ブラウン管の向こうだった。
 小さな町の宝石店の色落ちした丸椅子に腰掛けたとき、私は化粧けのない彼女の顔をテレビのワイドショーで見つけた。
「ああ、これネズミ講ってヤツ? 被害総額億単位とか――どんどん届け出てるらしいから、もっといくだろうね」
 そう言って、中年の店主は白い手袋をはめながら首をひねってテレビを一瞥した。彼の手には、あの日彼女から渡された紺色のケースが乗っている。
「幹部の子、この町出身の女の子がいたとかって。その子から宝石買ったって女の子が何人も来て、やっぱり偽物掴まされてたよ」
「そう――ですか」
「うん、これと同じ感じのケース」
 そう言って、彼はフタを開けた。
「そうそう、全く同じ感じの……流行ってるのかな、このケース」
 小首を傾げるようにして、彼は私に背を向ける。
 私は店主の大きな丸い背中をしばらく見詰め、それからテレビへと視線を戻す。ワイドショーのキャスターは深刻な顔をして事の顛末を事務的に説明している。
 私には、関係のないことだ。
 そう、関係のない――
 ただ彼女が。
 数日前に見かけた懐かしい顔が、何度も何度も繰り返しテレビに映し出されているだけだ。
 どうして彼女はあそこにいるのだろう。
 何が彼女をあそこに導いてしまったのだろう。
 そして、私に会いに来た意味は、本当はなんだったのだろうか。
 茫然と、ただ茫然とブラウン管を凝視する。三原色から成る濁りきった色彩の渦の中で、彼女だけが鮮明に脳裏へと刻まれる。
「このダイヤ……」
 店主が椅子ごと体をこちらに向け、眉根を寄せていた。
「どうする気だい?」
 その予想外の問いに、私は一瞬答えを見失い、慌てて口を開いた。
「ペンダントトップに……」
「へぇ……いくらで買ったんだ?」
「……元々は200万円だったって……」
「そりゃ吹っかけられたな」
 私の言葉に、店主は即座にそう返して苦笑いをしている。
「でも分割で……130万円ぐらい……」
 躊躇いがちに答えると、難しい顔をした店主はフンフンと頷いた。
 それから急に顔をくしゃくしゃに歪めて笑った。
「200万はいかないけど、それなら妥当な――いや、まぁいい買い物だよ、姉さん」
「――え……?」
 意外な言葉に、私は店主を凝視した。
「それ、本物……なんですか?」
 テレビに映る級友の顔は土気色で揺れている。憔悴しきった顔。あの華やかさの欠片もない、まるで別人のような顔。
 その彼女から受け取ったダイヤだった。
 偽物でも気にならなかった。どうせ模造品でも本物でも、私がつけるのだから大差はないと思っていたから、偽物でもかまわないと思った。
 ただ石だけではどうしようもないから、何かに加工してもらおうと、そう思っただけだった。
「本物だよ、これ。最近偽物ばかり見てるからこれもそうかと思ったけど、これは本物。4Cもしっかりしてるし」
「4……?」
「カラット、カラー、クラリティ、カット。とくにカットがいいね。いいプロポーションだ。どうしてもカラットが落ちるからカットが甘くなるんだが、これは希少だよ」
 そう言って、店主は私に小さな器具を持たせてダイヤをその前に差し出した。
「見てごらん、これ。完全なシンメトリーでアローとハートもある。いい腕の職人さんが手がけたんだね。鑑定書は偽物だから再発行したほうがいいけど、石自体はいい買い物だよ。――姉さん?」
 視界がぼやけている。キラキラ光るダイヤが水面に移って揺れるように、その輪郭を崩していく。
 彼女から渡された光の欠片を、私は震える手で受け取った。
 きっと私が彼女の出会った最後の友人だろう。騙してくれてもよかったのに。別に傷つくこともなかったのだから。
 模造品の宝石を高値で売りつけていたその会社は、内部告発で警察の手が入ったらしいと誰かに聞いた。
 それが誰だったのか私は知らないけれど、彼女のあの寂しそうな顔が何度も何度も脳裏を掠めた。
「これ、ペンダントトップにしてください。友達に……渡してあげなきゃ」
 きっとそれは警察に届けなければいけない物に違いない。そうはわかっているけれど、キラキラ光る宝石は押収されて警察の薄暗い保管庫に押し込められるより、彼女の胸元を飾るべきだと思った。
 彼女に会いに行こう。
 いろんな話がしたい。
 私は高い位置に設置されているテレビを見た。
 ブラウン管の向こう側――
 どこか清々しく空を仰いだ彼女が、小さく微笑むのが見えた。

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