【三】

 当たり前の日常がゆっくりと変化し始める。
 手を繋ぐ回数が増えて、内緒話のように言葉を交わす。学校にいる間は今までどおりそっけないそぶりを通したが、一歩出れば一転した。ごく自然にキスをして帰路につく。いつの間にかそれが当たり前になっていた。
 肌を重ねる事も、思いを重ねる事も、思った以上に心を満たしてくれた。
 このまま一緒にいれば美奈子と結婚するんじゃないかと漠然と思った。不思議と不満はなく、騒がしいだろう未来が待ち遠しく感じる事もあった。
 ときどき美奈子は校庭の裏に呼び出される。
 それまで気付きもしなかったが、明るく親しみやすい彼女は好感を抱かれやすかった。軽口をたたくことが多く、男子生徒とも打ち解けてよく話をする。だから、別段美人でも可愛いというわけでもなかったが、他の女子に比べると告白される事が多かった。
 美奈子はそのすべてを断って、焦りで混乱する惣平の腕の中に当たり前のように帰ってきた。
 安堵する自分に気づいた時には、笑ってしまうくらい溺れていた。
 高校を卒業したらいっしょに暮らそうと約束して、大学はどうするんだと言う話になって――じゃれあう以上に真剣に、お互いの進路も相談しあった。
 不確かな未来を形にするために、ゆくゆくはお互いの両親をきちんと説得できるように、夜通し話し込むこともあった。
 子供の口約束にはしたくなかった。彼女を抱きとめられる存在であることが初めて嬉しいと思った。
 それなのに。
 少年の名を呼ぶ声が響く。聞き馴染んだその声は、けれど彼の記憶にはない名を繰り返し呼び続けた。
 鮮やかな色彩が視界に飛び込んできた。
 ゆったりとしたドレスの裾を邪魔そうにしながら、中庭を横切って少女が駆け寄ってきた。
 彼は体を起こした。中庭の一角に設けられた庭園は、身を隠すにはもってこいの場所である。寝転がれば驚くほど鮮やかな空が見えた。
 彼は駆け寄る彼女から視線をはずしてもう一度空をあおぐ。光が目にしみてひどく痛んだ。
「どうしたの?」
 息を弾ませながら問われ、少年は視線を少女へと戻した。見慣れた笑顔がやけに遠かった。
「なんでもないよ」
 笑顔を返して立ち上がる。体についたゴミを軽く払い落として歩き出すと隣接した森から小鳥のさえずりが聞こえてきた。
 のどかな午後の日差しは暖かく世界を包む。けれど少年の心を暖めるための火にはなり得なかった。
「行こう、フィリシア。お茶の時間だろ?」
「まだ早いわよ」
「そうだっけ? お腹すいたのに」
 何気なく交わされる言葉に叫び出したくなる。楽しげに笑う彼女の横顔をまぶしそうに見詰めてから、少年はその視線を再び空へと向けた。
「ミナ」
 小さな命を未来永劫抱きしめたまま、彼女は暗い地中で眠る。絶望を振り払うために何度も確認したがその事実は変わらなかった。
 覚めることのない悪夢は彼の心を蝕みながら、いまだに終わることなく続いていた。

=終=

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