【十八 後編】
思考が一瞬停止する。
まるで切り取られたかのような青空は、奇妙なほど清々しい。
その青空の下へ男はゆっくりと向かっている。
「陛下?」
ようやくたどり着いたガイゼは肩で大きく息をしながら、小さく拓けた空間を歩くバルト王を見つめた。
フィリシアが体をこわばらせる。
そこは、名もない墓標が二つ並ぶ静寂の空間。
(――三つ……)
皮膚が粟立つ。
以前見たときは確かに二つしかなかったはずの墓標は、もう一つ増えていた。
まだ新しいと知れる墓石には、何かがかけられている。それは日の光に鈍く輝き、自己を主張し続けていた。
フィリシアは重い足を引きずるようにエディウスのあとを追った。彼は墓石の前で立ち止まり、感情の読み取れない瞳でしばらく石を見つめていた。
「エディウス……?」
彼は一番奥の墓石を食い入るように見て、そしてようやく口を開く。
「なぜ増えている」
と。
フィリシアは彼の言っている意味がよく理解できずに息をひそめた。
「私の作った墓は、これだけだ」
彼は一番奥の墓を指差して、誰に語るともなくそう口にした。
「え……?」
「私が作ったのはアーサーの墓だけだ。お前の墓は作らなかった」
ざわりと背筋に冷たい物が走り抜ける。
忘れかけていたはずのその言葉は、まるで拒絶のように冷たくフィリシアの耳に届いた。
「わ……私を殺したの? アーサーといっしょに?」
ゆらりとエディウスがフィリシアに向き直る。それは、彼がクカを使い続けていた時に見せた茫洋とした表情だった。
「アーサーは一年前、祝儀の日に。お前はその二ヵ月後に――殺したはずの、アーサーの目の前で」
焦点の合わない瞳は、フィリシアでなくもっと別の物を見るかのように細められた。
それが地下牢で見たアーサーと重なって、あの時の恐怖がよみがえってくる。
「どうして――!?」
なぜ、この二人はここまで似ていながらも反発しあうのだろう。同じ血を分けた兄弟であるにもかかわらず。
「殺してなんかいないじゃない! アーサーも私も生きてるじゃない! 殺す理由なんてないでしょ!!」
フィリシアの言葉を聞いて、ふと、エディウスが微笑んだ。
「殺す理由……? お前が私を裏切り、アーサーと通じていたからだろう?」
どこか不思議そうに問いかける。
それがあまりに不自然で、フィリシアは激しく首をふっていた。
「そんなこと――してない!」
記憶はいまだに戻ってはいないが、そんなはずはない。裏切るなど考えられない。少なくとも、今の自分に裏切る気持ちなど微塵も存在しない。
それは確かだった。
「どうして信じてくれないの!?」
悲鳴のようなフィリシアの言葉にエディウスが薄く笑んだ。
「なにを、信じる?」
「私とアーサーは、あなたの婚約者と弟でしょ!? それがどうして――」
「違う」
ポツリと男はつぶやいた。
感情すらも凍りつかせ、彼はフィリシアを視界へ入れたまま再び口を開いた。
「あれは弟ではない」
「エディウス……?」
「あれは、私とウェスタリア様との間にできた不義の子だ」
なにを言っているのかがわからなくて、フィリシアはエディウスを言葉もなく見つめていた。
ウェスタリアはアーサーの母親で、イリジアの第三王女だった女。夫である前バルト王に相手にされず、クカを常用し、心を壊した女性。
(クカをエディウスに教えたのが、彼女?)
もともと常用していたのなら、そして正気を失っていたのなら、その機会は充分ある。王子に麻薬をすすめる者などそう多くはないだろから、身近だった彼女の手からエディウスに渡った可能性は限りなく高かった。
美しい側室に心を奪われた夫を、彼女はどんな思いで見つめ続けたのだろう。
愛する夫が別の女に生ませた子供は、彼女の目にどう映っていたのか。
エディウスの歳が二十九で、アーサーの歳が十七ならば、いくつの時にできた子供かは容易に想像がつく。
それは、あってはならない歪んだ愛情の形。
正気でない女がまだ幼かった少年にしたのは、人道を外れた背徳の行為だった。そしてその果てに生まれたのがバルトの第二王子=\―。
「アーサー……」
「なにを信じればいい? なにを疑えばいい? お前はとうに狂っていると言われたら、いったい何人がその言葉を否定できる?」
ささやきながら、エディウスはその場に座り込んで墓石に両手を伸ばした。
彼の言葉どおりなら、そこに眠っているのは彼の子供。不義の子とはいえ、長く彼の傍で彼を支えてきた大切な存在だったはずだ。
では、王城にいるのは誰≠セ?
その墓の隣にある墓標の下に眠るのは――。
アーサー≠ヘフィリシア≠ノ言った。
あれが彼と自分の墓であると。
けれどあれがもっと別の意味を含む言葉であったのなら。
そこまで考えたフィリシアの視線が、誰が作ったとも知れない真新しい最後の墓標をとらえた。
その墓標には、世界に二つと存在しないだろう見覚えのある首飾りがかかっていた。
わずかな風に揺れ光を反射するのは、緻密で優美でどこか
「セルファに盗られた……守り人の鍵……」
その鍵は、大きく曲がっている。もともと壊れていた大きめの鍵は完全に二つに折れ曲がり、小さめの鍵の中央にあったはずの赤い石は砕かれて欠片がわずかに残るだけとなっていた。
骨董品としての価値も出そうだったその鍵は、すでにガラクタと化して墓標にかけられている。
守り人の鍵はセルファが奪い、それを追いかけて森へ入った。
そこにはアーサーがいて、彼はセルファが城へ帰ったと言った。
けれど実際、その姿を見た者は一人としていなかった。彼の荷物はそのまま放置され続け、やがて倉庫へと押し込められた。
フィリシアはぐるりと森を見渡して、その光景に愕然とする。
セルファを捜していた途中に彼に会ったのもここだ。
そう、確かにここだ。
だがセルファはここにはいなくて――。
(でも、もしここに彼がいたのなら)
辻褄が、合うのではないのか。
昨日セルファの行方を聞いたとき、彼は確かに言ったのだ。
鍵はもう使えない。
あれは壊れた、と。
その言葉の意味も深く考えず、彼女は聞き流したのだ。その不自然な会話を。
鍵の状態を知るはずのない彼がそれを語ったことよりも、鍵の存在を知っていることばかりに気をとめていた。
それを語る彼がいつもと別人に見え、その事に気をとられていた。
フィリシアはその場にしゃがみ込む。
「フィリシア様……」
青ざめたガイゼが小さく呻くように声をかける。
しかし、それすらフィリシアの耳には入ることなく、彼女は震える指で鍵に触れた。
「セルファはこの下にいるの?」
それを報せようとでもするかのようにかけられた鍵。
「セルファを殺したのは、アーサー?」
フィリシアの言葉にガイゼが息をのむ。
「私を許せない? ――でも、恨んでも……いない?」
混乱する。過去に彼からもらった言葉と、それにまつわる情報があまりに曖昧で。
「どうして人を殺せるの? 赤ちゃんを取り上げたいって――」
そう嬉しそうに話してくれた人が、同じ顔をしたまま人を殺せるのか。あれほどまでに憎悪をにじませ笑むことができるのか。
「だから、産婦人科の……?」
何かが引っかかっている。
小さく。
ほんの小さく気付かぬほどに。
いい医者になりそうと言ったら、二回目だと返して笑った。
フィリシアはなにかに惹かれるように、鍵にそそぎ続けていた視線を中央の墓標に移した。
そして、目を見開く。
墓標にこれほど近付いたことはなく、だから、そこに名が刻まれているとは思いもよらなかった。
ずっと名もないと思いこんでいたその墓標には、小さな小さな文字が、まるで隠すように刻まれていた。
それはこの国の文字ではなくて。
それはあまりにも懐かしい過去の残像。
「エディウス」
震える声を抑えることができなかった。
そう、だから彼はこれほどまでに――。
「エディ」
これほどまでに、憎悪するのだ。
エディウスを、フィリシアを――そしてこの世界そのものを。
「彼を、止めなきゃ」
急激に色を失っていく世界に向かって、フィリシアはあえぐように言葉を続けた。
「止めなきゃ――あそこにいるのは、アーサーじゃないの」
そう、あそこにいるのは優しい時間をくれた、大切な大切な――
過去の、残像。