今まで一度もエディウスの部屋を訪れたことはない。
 きちんと話したのは、城下町での一度きりだ。婚約者であるはずなのに、彼は一度としてフィリシアに会いに来ることはなく、そして彼女も、彼に会うことを――恐れていた。
 はっきりと何を恐れていたのかはわからない。ただ、一番話を聞かなければならないはずの婚約者≠ノ、フィリシアはあえて会いに行こうとはしなかった。
 まるでお互いがお互いを避けるかのように、不自然に時間だけが流れていったのだ。
「王はどこ!?」
 謁見用の大広間に走りこむなり、フィリシアは大声を張り上げた。
 ぐるりと見渡す。いつもは忙しく使者が訪れるその場所は、今日に限って誰もいない。広すぎるその部屋は天井が他のどこよりも高く作られている。フィリシアの声はむなしく響くだけだった。
 フィリシアがきりっと唇をかむ。
 踵を返した瞬間、
「フィリシア様?」
 聞き馴染んだ声が不思議そうにかけられる。
 白衣を着た老医師が一人、大きな石柱からひょこりと姿を現す。
「オルグ先生!!」
 駆け寄るとオルグは驚いたようにフィリシアを凝視した。
「どうされたのですか?」
「ど――どうも、こうも……!」
 言いかけて、フィリシアは押し黙った。
 国王がクカを使用していることを、彼は知っているのだろうか。人の心を狂わせるものであるのなら、医者として、彼はエディウスを止めているだろう。
 彼がクカを買い続けているのなら、おそらくオルグは何も知らない――
(知らないのなら、知らせないほうがいい)
 フィリシアは無理に笑顔を作った。
「王を探してるの。今どこにいるか知らない?」
「王を? ……この時間でしたら、寝所でお休みになられているでしょう。あと一時間もすれば、会議が始まりますので」
「そ、そう。ありがとう!」
 フィリシアは謁見の間を飛び出した。
 その姿を見詰め、オルグは小さく溜め息をつく。
「どこで狂ってしまったのでしょうな……」
 そう言って、彼はフィリシアの出て行ったドアから視線をはずし、石柱に向かってうやうやしく片膝をついてこうべをたれた。
「今しばらくお待ちください。準備はとどこおりなく……」
「任せる」
 低い声が、石柱の影から静かに応じた。
 感情を押し殺したような低い声。それは、バルトの持つ闇そのもののように暗く澱んでいた。
 声の主はそのままゆっくりと立ち去ろうとしている。
 オルグは顔を上げようと試みて――やめた。
 すさまじいまでの殺意が、老医師を飲み込んでいた。悲壮とも思える憎悪。その何たるかを彼はまだ計りきれずにいた。
 ――同時刻。
 フィリシアはドレスと大格闘していた。
 ドレスの裾が足に絡んでうまく走れない。いらだつようにたくし上げると、周りにいた者たちがぎょっとしたようにフィリシアを見た。
「王の部屋は!?」
 近くにいた男はフィリシアの姿に唖然としていた。白く長い足に目が釘付けになっている。確かに以前より肉付きがよくなっている。全身がバネのようだった一年前に比べると、その体は恐ろしくなまめかしかった。
「――ちょっと」
 無意識にぼうっとなってフィリシアの太股に吸い寄せられた男の顔は、白い膝で思いきり上向きに修正された。
サカってんじゃないわよ」
 殺気さえ感じる声で、フィリシアが男をめつけていた。
「案内しなさい」
「は――はひ」
 ようやく自分が何をしようとしたのかに気付き、男は青ざめたままコクコクと小さく頷いた。
 フィリシアは小突くように男を走らせ、城の二階へと上がる。今まで一度も足を踏み入れたことのない場所――城は、迷路のようだった。
 フィリシアは幸い、非常にわかりやすい部屋を与えられていた。あまり必要ではなかったから城内を積極的に歩き回ることも少なかったが、城下町で見たとおり、この城の規模は半端ではない。
「フィリシア様……」
 男がちらりとフィリシアを見る。もう案内は必要ないだろうとでも言いたげな表情だった。
 フィリシアは前方を見る。
 長く続く廊下には、真赤な絨毯が敷き詰めてある。光沢のある幾分毛足の長い絨毯には汚れひとつない。手入れの行き届いたそれは、ずいぶんと値のはるものだろう。
 フィリシアは一歩足を踏み出す。
「いいわ、さがって。――ありがとう」
 男は会釈して、慌てたようにその場を立ち去った。
(王の寝所、か)
 ごくりと唾を飲み込んだ。
(な――なんか緊張する)
 唇を噛んで、フィリシアは平静を装って歩き出す。なぜだろう――どこか薄暗い。王の部屋の近くであるというのに、この息苦しさはなんだろう。
 焦る心とは裏腹に、足が重い。
 のろのろと迷うように歩く自分に苛立ちを覚える。
 どくん、と大きく心臓が跳ねる。
 さっきは勢いで部屋を飛び出した。何も考えることなく。
(クカを使っているならとめなきゃ――でも)
(でも)
 自分にその権利があるのか。
 麻薬に溺れているということは、そうなる理由があるということだ。その原因の一端を担っているのはおそらく一年前の自分。
 失踪する前のフィリシア。
 記憶のあったころの舞姫だ。
(でもそれは、今の私じゃない)
 記憶もなく、誰の子とも知れない胎児を宿した自分ではない。
 自分とフィリシアの共通点など、所詮はよく似た容姿というだけなのではないのか。
 フィリシアは立ち止まる。
(なら、どうして私はここにいるの?)
 見詰める先には、二人の男が立っている。仁王立ちしたまま、無表情にフィリシアを見ている。国王直属の親衛隊総長ガイゼ・アクスと同じ鮮やかなブルーの布地を基調とした服。主要部を守るようにつけられた鎧からするに、彼らも親衛隊に所属する人間なのだろう。
「ここより先は立ち入り禁止となっております。お引取りを」
 丁寧だが有無を言わさぬ口調で、男が告げる。
「立ち入り禁止?」
 フィリシアは瞳を細める。どこからか、わずかに漂ってくる芳香。
 毒を含む甘い香り。
 ここの警備にあたっている彼らが、それが何であるかを知らないはずはない。
「――お前たち、なぜ気付かないフリをするの? 君主の狂う姿がそんなにも見たい?」
「な――」
 二人の男は、一瞬息を呑んだ。うろたえたようにお互いの顔を見合わせ、そして視線をフィリシアに戻す。
「何をおっしゃっているのです?」
 声がわずかに上ずり、手にしていた槍が小さく揺れている。
「親衛隊ともあろうものが、なぜ目をそらすの? これは親衛隊の総意? お前たちの判断? 総意であるのなら、ガイゼを呼びなさい」
 きついフィリシアの言葉に、男は一瞬言葉を失った。たかが小娘と、彼らはフィリシアを甘く見ていた。確かに一年前のフィリシアは、恐ろしくきもすわわった少女だった。しかし今の彼女にはその記憶がない。
 強気に出れば、引き返すだろう――
 彼らは、そう思っていた。
 この娘は村娘と大差ない。夜会での失態は有名で、それゆえに彼女と舞姫は切り離して考えられていた。
「答えなさい。親衛隊の総意?」
 しかし、そうではなかった。静かに事実だけを問うその口調は、今までこの国を訪れたどんな高貴な娘たちよりも堂に入っていた。
 ザッと男たちはひざまずく。ここにいるのは、記憶喪失の娘ではない。いま自分たちの目の前にいるのは、未来のバルト国王妃なのだ。
「我々の意志です」
 青ざめながら、男は答えた。
「そう。――さがりなさい」
「しかし」
「さがりなさい。しばらくは誰も近づけないで」
「はッ」
 跪いたまま深く頭を下げ、二人の親衛隊隊員は小走りにその場を立ち去った。
 その後ろ姿を横目で見詰め、フィリシアはようやく大きく豪奢なドアに視線を向ける。
 甘い匂い。
 心を少し楽にする代わりに、大切なものを少しずつ削り取っていく麻薬。
「ほっとけないじゃない。婚約者だとかそんなことじゃなくて」
 フィリシアは歩き出した。
 好きかどうかなんてわからない。
 ただ城下町で見たあの姿が忘れられない。美しい紺碧の瞳の、穏やかな銀細工師。
 薄汚れた小さな酒場で出された料理に舌鼓を打つ、そんなごくありふれた人。
 フィリシアのためだけに小さな空間を作ってくれた人――
「私は、あの人にもう一度会いたいのよ」
 フィリシアは優美な装飾のされた古い木のドアをゆっくりと押し開けた。

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