胡散臭い男がもう一人増えた。
 フィリシアは本気でそう思いながら、目の前でニコニコ微笑んでいる男を見る。
 初めて見る恋人≠ヘこれ以上ないほどどこにでも転がっていそうな旅人だった。
「会いたかったよ〜フィリシア〜。問所に連行させるなんてひどいじゃないか〜」
 ひどい以前の問題なのだが、自称フィリシアの恋人――セルファは寛大なのかとぼけているのか、まったく怒った様子はない。
「私、あなたのコト知らないんだけど?」
「迎えに来るのが遅いから怒ってるの? だってキミ、急にいなくなっちゃったじゃないか。探すの大変だったんだよ?」
「本当に知らないんだけど」
 問所から解放されたセルファは、こともあろうに国王直属の親衛隊総長のガイゼに城まで送らせた。
 そして今はフィリシアの部屋の豪奢な椅子にどっしりと座っている。どこにでもいそうな旅人なのに、独特の貫禄がある。物怖じしないその性格が、彼を大きく見せているのかもしれない。
「意地悪だな、フィリシアは」
「――噂、聞いてないの?」
「ああ、僕の赤ちゃん!!」
 パッと瞳を輝かせるセルファに、フィリシアが赤面した。
「露骨に言ってんじゃないわよ!! 何であんたの子供になんのよ!?」
「え〜だって恋人じゃないか」
「知らないって言ってるでしょ!?」
 フィリシアの怒鳴り声にセルファはきょとんとし、同室していた侍女のマーサは驚いて体をこわばらせる。
「私が言ってるのは、記憶がないって話のほうよ!!」
「ああ、町の人がそう言ってたな。え――まさか、僕のことも忘れちゃったの!?」
 だいぶ鈍いらしい。セルファは目を見開いた。
「覚えてるわけないでしょ!」
「そんな〜愛する人のコトぐらい覚えておいてよ〜」
 涙目になって懇願された。
「誰が愛してるって!?」
「もぅ、恥ずかしがり屋サン」
 頬を赤らめるセルファを見て悪寒が走った。この男――かなりイっているらしい。
 何かおかしな電波でも受信していそうだ。
「多分恋人じゃないわよ」
 がっくりと項垂うなだれながら、フィリシアはそう返す。生理的に合わない。いくら記憶がなくても、そのぐらいはわかった。
「きっと人違い。他を探してちょうだい」
 ひらひら手をふると、大きくて少し荒れた手ががっちりと掴んできた。
「なに言っているんだ! 恋人を見間違うはずないよ!」
 うっとうしいほどの真摯な眼差しが近づいてくる。
「キミはフィリシアなんだろう?」
「――わからない。そうかもしれないし、違うかもしれない」
「フィリシアだよ。女神の名≠名乗る女は、キミ以外に考えられないよ」
「――女神?」
 いぶかしむ様にフィリシアはセルファを見詰めた。男が言わんとする意味がよくわからない。
 わずかに興味を持ったフィリシアに、男は心の中で邪悪に微笑む。
 さぁ、喰いついてこい。鍵を持つ少女よ――
「フィリシア≠ヘ、僕の生まれ故郷でまつられている女神の名だよ。豊作の女神。神話の中で誰よりも祭りを愛する神――歌と踊りの女神、舞姫とも呼ばれる」
「舞姫」
「9歳のキミがたった一人で初めて舞った場所なんだよ、僕の村は。キミはそこで、女神の名を手に入れたんだ」
 セルファの言葉を茫然と聞き、フィリシアは慌てたようにマーサを振り返る。彼女はフィリシアに少し首を傾げてみせた。
「疑ってるの? まぁいいけど」
 セルファは小さく笑った。
「それなら、そうだな」
 男は少し考えて、
「鍵を持っているだろう?」
 そうフィリシアに問いかけた。
 ピクンと少女の肩が揺れる。微かな動揺――しかし、セルファにはそれで十分だった。
 ほら、喰いついた。
 人のよさそうな笑顔の奥にいびつで醜悪な笑顔を忍ばせて、セルファは言葉を続けた。
「僕がプレゼントしたものだよ。二つの異なる鍵をチェーンでつないだもの。一つには赤い石がはまってるヤツ」
「それ」
 こくりと少女が息を呑む。フィリシアは普段はそのネックレスをつけて出歩いたりはしない。なるべく人目から――自分の目にも届かないような場所においておく。
 初めて会ったのなら、この男がそれを知っているはずはない。
「それ、持ってる」
「ほら、じゃぁキミは僕のフィリシアだ。僕の恋人だよ」
「ま――待って」
「鍵、見せてよ」
「ダメ……」
 あえぐように言って、フィリシアは頭をふる。
「どうして? 僕があげたものじゃないか。キミが欲しがったから」
「私が欲しがった?」
 あんなに不快な思いをさせるものを自分から?
(そんなはずない。絶対に)
 しかし、目の前の男の言葉を強く否定できるほどの自信もない。フィリシアはにっこりと微笑む男をきつく睨みつける。
「あれは、誰の目にも触れてはいけないの。誰の手にも」
「……そう。ねぇキミ、本当に記憶がないの?」
「え?」
「だって、前にもそう言ったよ?」
「――え?」
 セルファの言葉に、なにか引っかかるものを感じてフィリシアは彼を凝視した。
「目にも手にも触れてはいけないもの。り人の鍵だとね」
「守り人?」
 鸚鵡返おうむがえしのフィリシアに、セルファは苦笑した。
「参ったな、キミ本当に覚えてないの? それとも、忘れたフリしてるだけ?」
 困惑しているフィリシアに、セルファは小さく溜め息をつく。
「いいよ、今度ゆっくり話し合おう。あのガイゼとか言うオッサンに部屋頼んでおいたから、僕もしばらくここにいさせてもらうよ」
 よっと声をかけながら立ち上がったセルファは、あっけに取られてしまいそうなほど颯爽とドアに向かった。
「ま、待って!!」
 少女の声に、男が立ち止まる。
「私とあなたの出会いは?」
 極力感情を出さないようにしているだろう声を聞いて、セルファは少女に背を向けたままニヤリと笑った。
「一年前、キミが僕の前に現れた」
 ドアノブに手を伸ばし、セルファは続ける。
「キミは僕に何も言わなかった。ただあてどもなく旅を続ける僕のあとについてまわっていただけだよ。僕もキミには何も聞かなかった」
「――どうして?」
 フィリシアの問いに、セルファはゆっくりと振り返る。
「だってキミ、傷ついてたから。だから、僕はキミが話してくれるのを待つしかなかったんだよ」
「……」
「キミの過去などたいした問題じゃないと思っていた。僕は、今のキミを愛しているから」
 そこまで言って、男は苦笑した。
「でも、キミが突然消えて、天罰だと思った。僕はキミが話してくれるのを待っていたんじゃない。キミの過去を恐れていただけなんだ。それがわかったから――だからもう一度やり直そうと思って、キミを探したんだよ」
 男は寂しそうにそう言って、ドアを開けた。
「でもね」
 閉じたドアの向こう側で、男は嘲笑する。
「そんなのは全部作り話。けど、記憶のないキミには、それが真実と同じ重みになる。キミにとっての真実なんて、いくつでも用意できる」
 闇の内側でのみ語り継がれる至宝は、手を伸ばせばすぐに掴み取れる場所に存在していた。

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