「物忘れ病ですな」
「……」
 目の前の、確実に棺オケに片足を突っ込んでいる医者が興味深げにそう言った。
「なによそれ!? もっといいネーミングはないの!? ボケ老人みたいな言い方しないでよ!!」
 少女はあきれるほど豪奢な天蓋てんがいつきのベッドで、場違いな悲鳴をあげて老医師に詰め寄る。
「いや、珍しい症例でしてな。といっても、アーサー王子に続き、二人目ですが」
「王子!?」
「そうですよ、フィリシア様」
「誰がフィリシアよ!?」
「あなた様ですよ」
 少女は微笑む老医師をまじまじと見た。
 記憶はない。なのにこの医者は、まるで当然のようにそう呼んでくる。そういえば、このぶっ飛びたくなるような中世ヨーロッパ調の城に連れてこられて一ヶ月、皆の反応が親しげなのにも引っかかる。
 命にかかわるような大怪我だったためまったく部屋から出してはもらえなかったが、城内のメイドたちや警備員は、なぜこうも自分に親切なのだろう。
「……ねえ、オルグ先生」
 彼女は意を決して、老医師に声をかけた。
「私、家に帰りたいんだけど」
 老医師は困った顔で椅子に座りなおした。
「何度も言うようですがね、フィリシア様。あなたには記憶がない。帰る場所も思い出せないのでしょう」
 それこそ聞き飽きるほど聞いた答えに、少女――フィリシアは歯噛みした。
 連絡手段が恐ろしく乏しい。隣の町の知人に連絡を取るのだって、早馬と呼ばれる「伝達人」が重宝されるような世界だった。
 自分がいたはずの世界とはどうも違う。
 確信はないが、フィリシアはそう感じずにはいられなかった。
 記憶のない娘の家を探すなど、雲をつかむよりも難しい。いや、難しいどころか、不可能に近いのではないのか。
「それに」
 と、老医師は言葉を続けた。
「あなたは、エディウス王の婚約者でしょう。そうそう城を出て大怪我をして祝儀を延ばすわけには――」
「は!?」
 老医師の声を掻き消す勢いで、フィリシアは天蓋つきのベッドから乗り出した。
「いま! 今なんて言った!?」
「ですから、大怪我をして祝儀を延ばすわけには、と」
「誰が結婚すんのよ!?」
「あなたとエディウス王ですよ」
「知らないわよ、そんなの!!」
「……ああ。物忘れ病でしたな」
 自分で診断しておきながら、今はじめて気づいたかのように老医師はシワだらけの手を打った。
「祝言の当日に行方をくらませたんですよ、あなたは。一年間も」
「……」
 あまりのショックに言葉もない。なるほどだから、メイドたちはあれほど親切で、警備員は過剰なほどの警護を余儀なくされていたのだ。
 未来の王妃であり、失踪の前科をもち、記憶をなくして帰ってきた娘。
 それが自分。
 それがフィリシアという少女なのだ。
「……え、でもちょっと待ってよ。私、何も覚えてないんだよ? 結婚なんて無理よ!」
「王は、それでもよいと仰せです」
 まるで神をあがめるように、老医師はうっとりと宙を仰ぐ。国王の寛容さに感極まっているようだ。
(冗談じゃない!!)
 フィリシアは青ざめた。
 どんな経緯で結婚なんてすることになったかはこの際おいておこう。現状でもっとも問題なのは、つまり国王がまだ結婚の意志を放棄していないことだ。
 相手が記憶をなくしてしまっているのに。
 なにも知らない、それこそ初対面に等しい相手との結婚なんて、拷問のようなものだ。
 それに、相手の意思も確認せずに話を進めるなんて、いったいどんな精神構造の持ち主なのだろう。まずこの場合、お互いに話し合うことが最優先ではないのか。
 そんな配慮もできない相手との結婚など想像もしたくない。
 だが、自分が駄々をこねてどうにかなるはずがないことに、フィリシアはすぐに気付いた。
 記憶がないというだけで、自分の家すらわからなくなるということは、おそらく自分は大して身分が高くなかったということだ。
 相手が悪すぎる。
 国王≠ニ、平民≠フ娘。
 世にいうサクセスストーリーだ。しかもとびきりタチが悪い。
「……ねえ、それ、もしかしたら別人かも」
 恐る恐るフィリシアは意見する。
「まさか! いくら記憶がないと言われましても、別人などありえないでしょう。そんなよく似た他人など、考えられませんよ」
 老医師はフィリシアの考えを一蹴した。
 しかし。
「一年間、あなたがどこでなにをしていたかは要として知れませんが。……まあ奇妙な点といえば、あなたが着ていたあの服ぐらいですかな」
「服……?」
 フィリシアは小首をかしげた。
「異国の服でありましたよ」
「……」
 ピースがいくつか欠けている。フィリシアは息を呑んだ。
「あれ、は……セーラー服」
「フィリシア様?」
 呆然とつぶやいた少女に、老医師は眉をひそめた。彼にはひどく聞き慣れない単語だった。
惣平そうへいと私と、あとは……」
「フィリシア様!?」
 ぐっと肩をつかまれ、フィリシアは我に返った。
 何かを思い出せそうだった。何か、思い出してはならないような記憶を。
 懐かしくて残酷な気持ちを。
「私……本当の私は誰なんだろう……」
 どこか遠くにいた気がする。何もかもが新鮮で楽しくて、いやな思い出の一切を忘れさせてくれるような優しい場所。
「……フィリシア様」
「私が結婚する相手……どんな人?」
 柔らかく体をつつむ上等のシーツを強く握り締め、フィリシアは震えるような声で問う。
 老医師は細い目をいっそう細めた。
「聡いお方です。民を第一に考え、聡明で潔癖。生涯、妻をめとることはないだろうと誰もが感じるほど……誰にも心のうちを見せることのないお方でした」
「どうして私が……」
「あなたの美しい舞いに、心を奪われてしまったのでしょう」
 老医師は、笑みを深めた。
「フロリアム大陸一の舞姫と謳われたあなた様の舞いが、王の心を動かしたのでしょう」
「……」
 再び、フィリシアは言葉をなくす。
 大陸一の舞姫。
 平民どころか旅芸人のレベルだ。
 身分が違いすぎる。本来なら、王妃などという立場はありえない。側室にだって召し上げられるかどうか。
「なんでそんな突拍子もない話になってんのよ!? 誰か反対しなさいよ!!」
 悲鳴をあげるフィリシアに、老医師は苦笑した。
「それはもう、家臣一同大反対でしたよ。バルト国はフロリアム大陸でも有数の大国。婚姻の話などは引きもきらない。現に多く姫君や名家、名門の女性がこの城を訪れました」
 感慨深げに老医師はうなずく。
「王もよわい29。とうに王妃を娶っていいはずですのに、美しく上品な娘にはまったくといっていいほど興味を示さなかった。それは王の性癖や身体的な疾患を心配する輩がでるほどでした」
「……つまりあれね。下賤者には興味を持った。結婚はさせたくなかったけど、一生独身って言うのも世間体が悪かったから、この際これでいいかと手を打ったと?」
 フィリシアは怒りで肩を震わせながら、自分を指差した。
「誤解のなきように。王は、あなた様を愛しておいででしたよ」
「どうだか」
 ため息とともにぼやくフィリシアを優しく見詰め、老医師はゆっくりと立ち上がる。
「愛しておいででした」
 そして、悲しげに瞳を曇らせる。
「……心を、病んでしまわれるほどに」

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