番外編 ひみつ


    1

 はじめは、不可解な女だと思った。
 いつも不機嫌顔で、気を利かせて警察署から押収品を回収して渡したら、思い切り平手打ちを食らわせ(これは下着を大衆の面前でさらしたためなので反省した)、人のことをエロ神父だの暇人だのとののしり、かと思えば労働もせずにだらだらとすごし、ことあるごとに不快極まりないという視線を向け悪態をついてきた女だ。
 間違っても異性≠ニして意識したことはない。
 だらしないと思ったことはあっても、魅力的な女性だと思ったことはない。
 ジャンが古賀食堂にいるから仕方なく通い、結果、接点を持っただけの相手だ。
 ――そのはずだった。
「玲奈」
 呼びかけると小山が揺れた。
 否。ベッドの上で膝をかかえ、毛布を頭からかぶった玲奈である。
 なにが怖いのか、ぎゅっとすぼまった彼女の肩が小刻みに震えていた。
 一瞬、抱きしめたいと思ってしまった。

    2

「で、電気を……」
 部屋が暗いから妙な気分になるのだ。自分にそう言い訳して腰を上げると、
「つけちゃだめ」
 玲奈に拒絶されてしまった。思わずオーギュストは眉をひそめた。
「……今日はだめ。いつもはいいけど、今日は、光に、寄ってくるから」
 なにが、と訊こうとして閃いた。玲奈は悪魔のたぐいを言っているのだ。いもしないものに怯えるなんてよくあることだ。最近は悪魔より、将来のことや病気、人間関係、仕事のことに悩む人間のほうが多く、教会にやって来る者たちの不安の声も多いのだが――どうやら玲奈は、いまだに悪魔に怯えているらしい。
 町中に札が貼られたあの日も、玲奈は悪魔に怯えていた。
 そう、あの日から。
 ――玲奈との関係が変化した。
 いや、兆候は以前からあったのかもしれない。
 玲奈の先輩だという男が現れてから。あるいは、思い切り罵られてから。
 それとも、出会ったときにすでに――。
 オーギュストは慌てて頭をふって危険な思想をふるい落とした。
 一階から話し声が聞こえ、オーギュストはちらりと時計を見る。すでに深夜の三時だ。まだ人がいるのかと驚く反面、これを機に部屋から出られると少しだけほっとした。
「なにか飲み物をもらってくる」
 立ち上がったオーギュストが素早くドアに向かう。だがドアノブに触れる前に上着の袖を掴まれ、強く引かれてバランスを崩した。膝をついたオーギュストは、息を呑むような声にとっさに体を反転させる。すると、玲奈が毛布ごと倒れ込んできた。
 酔った玲奈を寝室に運んだときと逆の状況だ。
 あのときは、足をもつれさせた玲奈の上にオーギュストが倒れ込んだ。彼女を潰さないようにとっさに腕を出したから肘を強打したが、今回は勢いよく倒れてきた彼女に胸を押されたせいで、一瞬、息ができなくなった。
 なにか言おうにも声すら出ない。
 ようやく呼吸できるようになったのは、もつれるように床に倒れてから二分後――彼は、文句の一つも言ってやろうと口を開いた。
 だがその前に、玲奈の顔を見てしまった。
 雲が空一面をおおう夜なのに、不思議と彼女の表情はよく見えた。ぎゅっと唇を噛みしめ目元を赤くする、怒ったときの顔だ。
「な、なんで一緒にいてくれないのよ――っ!!」
 ――どうしてくれよう、この女を。
 上着を掴み訴える玲奈を見てオーギュストは渋面になる。飲み物をもらってくると前もって断ったはずだ。そんなわずかのあいだくらい我慢できないというのが解せない。
「こ、怖いって、言ってるんだから、一緒にいてくれたっていいじゃないっ! 前のときだって! 勝手にいなくなって!」
「前?」
「変な気配がして怖いって言ったとき! 正体がどうとか言っていなくなったでしょ!」
 どうやら彼女は、札が貼られていたあの日のことを言っているらしい。
「――すぐ戻っただろう」
 そういえばあの札は祈祷符≠ニいう、いかにもジャンが好きそうな名前のものだった。本来なら役目を終えたときに勝手に剥がれ落ちるそれを、なかば力任せに剥がして回っていたオーギュストは、ジャンに言われて玲奈のもとに戻ったのである。
 勝手にいなくなったわけではない。あのときだってちゃんと断った。
「すぐ戻ってこなかったじゃない」
「たった一時間だろう」
 しかも、玲奈を怯えさせていたものの正体も掴めなかった。あれから落ち着いていたのに、今も彼女は見えないなにかに――悪魔に、怯えている。
「とにかく離してくれ。動けない」
 触れた場所から伝わってくる熱にオーギュストは内心で狼狽えた。少しずつ速くなる鼓動を知られてしまいそうで、玲奈の体を押し戻そうと肩に触れる。そのとき、彼女の震えが少し収まっていることに気づいた。
 触れているから、恐怖が少しやわらいでいるのだ。
 ――必要とされている。
 言葉でも態度でもそれを示されて、オーギュストの理性が大きく揺らいだ。

    3

 オーギュストは神父だ。洗礼を受けたのは子どもの頃である。以来、神の言葉を人々に伝え広めるためにいる。洗礼を受けたときからその身を神に捧げ、生涯を独身で過ごすはずだった。
 それなのに、たった一人に求められることがどれほど嬉しいか気づいてしまった。
 意地を張るといじめたくなるのに、素直でいると甘やかしたくなる。
 まずい。
 直感した。
 これはとてもまずい状況だ。ジャンのことをとやかく言えなくなってしまう。
 ジャンをヴァチカンに連れ戻すために日本にやってきたオーギュストが、こんなところで足止めされるわけにはいかないのに――。
「玲奈」
 気の強い彼女が、こうして弱いところを見せるのは特別なのだと知っている。家族にすら意地を張る彼女が、自分だけにさらす姿に鼓動が乱れる。
 恋は病だ。
 世界中を探しても、いまだ完治できる薬のない難病だ。
 オーギュストは玲奈の肩から手を放し、その体を両腕でくるむ。すると、硬くこわばった体から嘘のように緊張が取れていった。
 腕の中、彼女が安堵したようにほっと小さく息をつく。
 知れば知るほど反感を覚えていた彼女のことが気になるようになったのはいつからだっただろう。
 彼女自身のことを心配してあれこれと世話を焼くようになったのは。
 オーギュストは両腕に力を込める。
「今度……なにか甘いものでも食べに行くか?」
 尋ねると、玲奈がぱっと顔を上げた。
 ここ一週間、彼女のことが心配で、買い物に行くと言えば荷物持ちをしてやるとくっついていき、さんぽすると言い出せば物騒だからと同行、映画に行くと言えばちょうど見たかった作品だとちゃっかり横の席に陣取ったオーギュストは、彼女が無類のスイーツ好きであることを知った。嫌なことがあればやけ酒を飲んだりもするが、それはとても稀で、本来の彼女は意外なほど倹約家だ。大好きなスイーツだって我慢する。そのうえ、ほしいものがあれば吟味し、コツコツお金を貯めていく。ウインドショッピングをするのは、目をつけていた商品が売れてしまっていないか確認するためだったりする。自分になにができるか、自分がなにをしたいか、不器用ながらも前向きに考える彼女は、働く人々に敬意を持って接していた。
 こういった姿は、オーギュストにはとても好ましいものだった。
「あ、甘いもの?」
 現金なことに、怯えていたはずの彼女がそわそわと問いかけてきた。
「パンケーキでも、あんみつでも、クレープでも、なんでも好きなものを」
「おごり?」
 口調がちょっと警戒気味になる。ここでワリカンなんて格好悪い言葉を口にできるわけがない。
「当たり前だ」
「やった!」
 笑顔が花のようだと思った。
 そう思ったら、自然と口づけていた。
 驚く彼女以上に驚いて、オーギュストは慌てて彼女を抱きしめ直した。
 この体勢がそもそもの間違いだ。接地面が広すぎるせいで、キスするつもりもなかったのにしてしまった。部屋が暗いのだってムードが出てしまって都合が悪い。部屋が寒いのも、もしかしたら少しは彼の暴走が止まらない原因になっていたのかもしれない。人肌というのはいつだって心地いいものだ。だから、つい――。
 不毛な言い訳に動揺を誤魔化していると、背中にそっと彼女の腕が回る気配があった。
 ――だめだと思った。
 こんなもの、誤魔化しきれるわけがない。
 はやる鼓動も、熱くなる体も、彼女のことばかり考えてしまう気持ちも。
 動揺して玲奈を突き放そうとしたオーギュストは、離れまいとしがみついてくる彼女に動きを止めた。
「……っ……」
 こんな初恋があってたまるか。
 苦悩するオーギュストは、懸命に自分の気持ちを否定しながらも、腕の中の女を深く深く抱きしめるのだった。


=了=

→「乙女は苦悩する」へ
Topへ