月光を背に、少女が微笑んだ。
 眼下に広がる黒山の人だかりは、すでに町の恒例行事となっている。
 皆お揃いの濃紺のつなぎを着ている姿は、何度見てもかわいらしい。
「くぉらぁ!! 降りてこんかい!?」
 少し白髪の混じり始めた髪を短く刈りこんだいかめしい顔の男が大声を張り上げる。よれよれのシャツとズボンに、いかにも安物っぽそうな真紅のネクタイ、そして、風にたなびく鈍色にびいろのロングコートが彼のトレードマーク。
 ミヤツ刑事だ。
 部下たちに指示を出しているその姿を見つめ、少女は口を開いた。
「お仕事ご苦労様です!」
 よく通る澄んだ声は、この場にふさわしくないねぎらいの言葉を伝える。
 彼女は今、屋根の上にいた。
 小脇には本日の戦利品が抱えられている。
 長く明るい栗色の髪を夜風にのせ、少女は言葉を続けた。
「乙女の眠り、確かにいただきました」
「なにふざけたこと言ってやがる!! お前は完全に包囲されている!! あきらめて降りて来い!!」
 大声でがなりたて、ミヤツ刑事は素早く部下に視線を走らせた。
「いいか! これ以上警察の看板に泥塗るんじゃねぇぞ!!」
 少女――クリスが笑う。
 相変わらずのミヤツ刑事の熱血ぶりが楽しいらしい。
「廻りこめ!!」
 クリスの動きを目で追って、ミヤツ刑事が怒鳴っている。
 小柄な少女は純白の服に身をつつみ、闇の中で真っ白に浮かびあがる。
 まるで、一枚の絵画のように。
「今日こそ怪盗クリスを――時計塔の怪盗を捕らえろ!!」
 ミヤツ刑事が叫んだ瞬間、クリスはひらりと身を翻す。隣の建物までの距離はゆうに二メートル。少女は何の躊躇もなく、華麗に屋根を蹴っていた。
「な……!!」
 高低差を配慮に入れるべきだったろう。
 その先には、警官はいなかった。彼らは別の逃走経路を予想していたようだ。
 侵入者を防ぐために高く作られた壁は、警官たちの行く手を阻んでいる。なまじよじ登ろうにも、有刺鉄線が張り巡らされているのだ。無駄な労力を費やすより、迂回したほうが得策だ。
「走れ、馬鹿者――!!」
 ミヤツ刑事の大絶叫が聞こえる。
『今日はまた、ずいぶんと威勢がいいじゃないか』
 どこかあきれたような声が不意にかけられる。
 クリスは屋根伝いに移動しながら、くすりと笑った。
「うん、そーだね」
 いつもかなり熱血だが、今日は格別だ。
 本日の獲物は乙女の眠り=B
 名だたる名作が集まるこの町リュードレイでも、これほどの名画が訪れることは珍しい。
 過去に大富豪が画廊に飾り、それから二百年、ようやく今回日の目を見たという話だ。名作中の名作といわれ、わずか三日間のみ公開される予定だった。
「悪いことしちゃったかな。まだ見たかった人いたかも」
『いねぇいねぇって。だってお前、ちゃんと予告状出したんだろ。百発百中の時計塔の怪盗に狙われたんだ、本気で見たきゃ、もう見てるさ』
 快活に笑う声。
「かなぁ?」
 脇に抱えた名画にクリスが視線をやったとき、少女の胸元を飾るネックレスが月光を受けて真紅に燃え上がる。
『気をつけろよ、クリス』
 血の色を思わせる真紅の石が、まるで息を殺すかのように声をひそめた。
『今夜はまだアイツがいない』
 石の吐き出す言葉を受けるように、クリスの目の前に漆黒の闇が降り立った。
 まるで月の光を遮断するかのような、黒ずくめの影。
『宿敵ササラが』
 闇がゆっくりと微笑んでいた。

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