『六十四 後編』

 そして、同時刻。
 保健室を飛び出した神無は足早に人気ひとけのない廊下を渡り、生徒たちがあふれる教室の前へとたどり着く。そこにはあちこちから明るい音楽が流れていたが、同時にそれとは不釣合いなくらい騒がしい足音も響いていた。
 ダンスパーティーの練習をしているのだと気づいたときさすがに神無は焦った。雪像づくりと放送部の打ち合わせで時間がつぶれ、彼女はまともにダンスの練習ができずにいたのだ。残りの一週間でダンスを覚え、衣装班が作成したドレスを試着して微調整をし、さらにリハーサルもこなさねばならない。余裕だとばかり思っていた行事は予想以上に切羽詰っている。
 だが、焦る気持ちとは別のものが胸をずっと占拠し続けている。
 ざわめく廊下の途中で足をとめ、そして彼女は自分の腕を見た。朝起きたとき、治療を放棄していたはずの腕は彼女が驚くほど丁寧に手当てがほどこされていた。制服に着替える途中で放心してそれを凝視していた彼女は、夢だとばかり思っていた昨夜の記憶が現実であることを知る。
 まるで愛撫のように触れてくる指先と、すっぽり包み込む腕、そしてはじめて目の当たりにする優しい眼差し、さらに、柔らかな唇の――。
 神無はとっさに自分の唇を押さえた。
 いくらなんでも、あれは夢だ。夢に違いない――と、彼女は何度も自分に言い聞かせる。現に朝食をとっている間、華鬼はまったくいつもどおりだった。お蔭で神無だけが赤くなったり青くなったりを繰り返している。
 しかし、怪我の手当て自体は夢ではない。となると、あの口づけだけが夢というのはどうにも考えにくい。
 そこまで考えると、彼女は何がなんだかわからなくなってしまうのだ。いろいろ心痛もあるが、いまはそれに華鬼のことまで加わって彼女を混乱させている。こんな内容だから本人に確認する事もできず、不意をついて思い出すたび、唇に残った感触にひたすら狼狽えた。
 ざわめきをぬうようにチャイムが聞こえた。
 とっさに顔をあげ、水羽といっしょに教室を出る際に桃子がひどく心配していたのを思い出し、紅潮した顔を冷やすように両手でつつんで神無は何度も大きく深呼吸する。
 軽く叩いて気を落ち着け、足を踏み出した。
 ――今朝、神無は桃子に自分の知っている情報をすべて話した。そして、響が危険な男であることも伝えた。犠牲を最小限にとどめるために取った行動は同時に桃子を傷つける可能性があるのだとわかっていたが、危険を回避するための最後の手段であると身を切るような思いで口にした。
 驚きに表情を変え、目を見開いた彼女の顔が脳裏に焼きついている。恋人だと思っていた男に利用されたのだと聞かされたのだから落ち込んでいるだろう。
 そう思うといたたまれない。
 小さく息を吐き出して神無は教室のドアに手をかけた。
「朝霧さん?」
 意外な相手に名を呼ばれ、神無は動きをとめて首をひねる。喧騒が一瞬だけ遠のいていくような錯覚に驚いていると、目の前の少女はうつむいていた顔をまっすぐ神無に向けた。
「土佐塚さんなら教室にいないよ」
 すらりとした長身の少女はそこでいったん言葉を切った。日本人形を思わせる美少女、江島四季子と行動をともにしていた関根ユナは、いまは誰とも口を聞かずに教室で孤立していた。すでにむき出しの敵意もなく、憔悴しきった顔で神経質にあたりを見渡して神無に近づく。
 ほとんど条件反射のように身を引いた神無に息をのみ、彼女はその場に立ち止まった。
「ごめん、そういうつもりじゃない。ただ……その……」
 戸惑うように言葉を途切れさせ、彼女はもう一度警戒するようにあたりを見渡した。
「四季子を襲ったヤツ、あの子をあんなにしたヤツ、わかった気がする。復讐なんてするつもりないけど、あんな思いはもう嫌だ。だから朝霧さんも気をつけてって、そう、言いたかっただけ」
 襲ったという意味がよくわからなかった。四季子は個人の都合で転校したことになっていたのだ。詳細を尋ねようとしたが、どこか拒絶にも似た空気をまとうユナには質問することができず、神無は押し黙ってから丁寧に頭をさげた。
「あ、ありがとう」
「……お礼、言われることじゃない。馬鹿なことしたって、あの時ちゃんと四季子をとめればよかったって、いまはそう思ってる。……土佐塚さん、特別教室のあるほうに歩いていった。もし捜すなら――気をつけて。誰にも見付からないように行ったほうがいい」
 あとは神無の返事を待たず、彼女は廊下を駆けだしていった。切迫した空気は神無にまで伝染し、異様なほどの緊張を呼んだ。
 神無はユナが消えた廊下をしばらく見つめてからゆっくりと歩き出す。
「……特別教室……」
 そこは普段、生徒が使用しない場所だ。とくに鬼ヶ里祭の準備に取り掛かってからはまともな授業もなく、その一画はまったくといっていいほど人の出入りがなくなっている。そんな場所になぜ桃子がいるのか疑問に思いながら、神無はユナに言われたとおり息を殺すように廊下を進み、階段をのぼって目的の棟まで歩いていく。
 ひやりとした冷気が頬を撫でた。
 利用頻度の低い場所は空調も管理されていない。神無は壁伝いに進み、冷気と緊張に全身を硬くしながらも静寂に足をとめて息を殺した。
 人の気配がないかを慎重にさぐり、廊下の角を折れて足音を忍ばせる。友人を捜すのにどうしてこれほど気を配らなければならないのかという思いもあるが、それ以上にユナの真摯な瞳が彼女にその行動を取らせていた。
 階段をのぼるとちいさな話し声が聞こえてきた。
 単独で行動することの危険性を熟知している少女は、細心の注意を払って前進する。鬼の鼻がどれほど優秀でも動物並みとまではいかないだろうと判断し、近づき過ぎないように歩を進め――そして、鮮明になる声に足をとめた。
「心配されちゃった」
 明るい声は、桃子のものだった。
「バッカみたい。私のせいでって……なにあれ、悲劇のヒロインのつもり? これだから幸せな女って嫌い」
「そう言うなよ。大事な親友なんだから」
「誰が親友よ? そういう冗談やめて。ムカつく」
 嘲笑交じりの声に血が逆流するかと思うほど動揺した。主語がないにもかかわらず、それが誰に向けられた言葉なのかがわかって言葉にならなかった。
 響が華鬼と対立する鬼であることを伝えた時、桃子は混乱するように顔を伏せ、そして神無に言ったのだ。
「だよねぇ。あたしがもてるわけないもん」
 それは違うと否定したが、桃子は苦笑を消すことはなかった。かわりに、よく話してくれたと、礼まで言われた。
 平気そうな顔をしていても、傷ついているに違いない。響は桃子を大切にしているように見えたから、周りが思っている以上に彼女もそれを感じていたなら、きっと気分を害しただろう。
 それでも必死で笑顔をむけてくれたのだと、そう思っていた。
「昨日は急に響に引っ張られて、なんか変だなって思ったんだ。気付いたら部屋だったし。……一人にしてごめんね? 怖かったでしょ」
 耳に残るのは、友人を気遣うような優しい声音。
 けれど耳朶を打つのは、冷ややかな冷笑。
 急激に現実に引き戻され体が震えた。神無は震える体をなだめるために両手で己の体をきつく抱きしめた。
「ひどい女だな、お前は」
「あんたに言われたくない。それに、もともとそのつもりであたしはあの子に近づいたの。なかなかの名演技でしょ? 友達のふりも疲れるんだから」
「オレもときどき騙されそうになる」
「――バカじゃないの? それより、いつやるの? もう準備は整ってるって昨日言ったじゃない。あの子、ボロボロにしてくれるんでしょ?」
 嬉々とする声音に思考がついていかなかった。もしかしたら、声がよく似ているだけの別人が話しているのかもしれない。
 それともただの悪ふざけなのではないのか。
 混乱しながら神無はふらりと歩き出す。この学園に来て、いつものように孤独ととなり合わせだった彼女に唯一声をかけてくれた少女――絶えず気遣い、親身になって体をはって守ってくれたことさえあった友≠ェ。
「いいのか?」
「いいに決まってるじゃない。あたし、神無なんて大嫌い」
 その一言に思考すら停止する。わずかに開いたドアの隙間から室内が見えた。
 そこには見知った少女の後ろ姿と、冷ややかな笑みを浮かべる鬼がいた。視線は少女ではなく、まるですべてを見透かしていたかのようにまっすぐドアの奥にいる神無を射抜く。
 ふっと背後で空気が動いた。肌を刺すように張り詰めた空間で、神無は逃げる事も忘れて嘲笑する響を凝視していた。
 その時になってようやく神無は気付いた。
 いつも狂ったように鳴り響く警笛が沈黙をつづける理由を。
「チェック・メイト」
 耳元で聞こえたささやきに、急速に意識が薄れていく。
 限界を超えた緊張と恐怖から精神を守るために沈黙していた警笛が、その時になってようやく激しく打ち鳴らされる。
 視界が一瞬にして暗転した。

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