呼び鈴に気づいた華鬼はキッチンのある方角を見て、食器を洗う音が途切れないのを確認してから鍵を手にして立ち上がる。二度目の呼び鈴で開錠して玄関のドアを開けると、不機嫌な顔の水羽が立っていた。
「……なんだ?」
「ご挨拶だね。自宅謹慎がとけたから連絡しに来たの」
 どうやら学園で大暴れした代償がそれらしい。説教の途中で職員室を出たことを思い出した華鬼は、いつの間にそんな措置になったんだと本気で首を傾げる。そんな華鬼に呆れ、水羽は強引に彼を押しのけて家に入ってきた。
 一応は他人の家だ。いくら親しくとも最低限の断りくらい入れてもいいだろう。
 そう思って華鬼は文句を言うため唇を開く。だが、廊下を突き進む水羽の後ろ姿が迷うことなくリビングに消えるのを見て、文句は溜め息に変わった。
 水羽の心情を察すれば非難の言葉は出てこなかった。いくら神無が選んだからと言っても、彼女に求愛をしている彼にこの状況は面白いものではないはずだ。大切な伴侶となる花嫁を守るどころか長年放置し、さらに殺意まで抱き、何度も殺そうとした事実を考えれば、非難されるのは確実に華鬼の方なのだ。
 鍵を閉めてリビングに向かうと、すでに水羽はソファーに腰かけてくつろいでいた。ひとまず向かいに腰を下ろすと、
「鍵、かけてるんだね」
 と気のない言葉を口にしてきた。生家でも鬼ヶ里でも、何もかもがどうでもよかった頃の彼はそんな回りくどい行動はとらなかった。守りたいと思うものがなかったから、ここが自分の場所であるという主張さえしなかったのだ。
 けれど、神無を自分の花嫁だと認めてからは違った。いや、たぶんそれ以前から、この空間が心地よいと思えるようになってから、いろいろなことが少しずつ動き始めていたのだろう。他者の介入が煩わしいと思うのも、その表れに違いない。
 華鬼は手の中のものを握りしめた。
 帰るべき家を守るための小さな鍵はふたつある。そのひとつが神無の覚えで大切に保管されていることを華鬼は知っている。それが素直に嬉しいと思う自分の気持ちも認めた。
 家に施錠をするようになったのは、この穏やかな空気を誰にも乱されたくないからに他ならない。ゆえに外部との連絡手段になる電話も不要なので、電話線も遠慮なく引っこ抜いた。
 そして、食料が欲しいときだけ線をつなぎ、もえぎに電話を入れて調達を頼んでいる。恐ろしいことに彼女はいつもいつも弾むような声で注文を聞き、華鬼が感心するほどの品揃えをもって四階の呼び鈴を押すのだ。
 背景をなにも知らない華鬼は、あれも奇妙だなと、ただひたすら首をひねっている。
「でも、よかった」
 ぽつりと水羽がそう言ったのを耳にして華鬼は視線をあげた。
「裸族になってたらどうしようかと思った。華鬼のことだからあり得そうとか思ったんだけど、神無はそういうタイプじゃないしねぇ」
「……なんの話だ」
「んー? 誰もここに来たがらなかった理由、かな。いくら節操なしの華鬼でも、まさか朝っぱらってことはないだろうけど」
「……その気になればな」
「あーそうだねぇ、……って、なるの?」
「……」
「あ、答えなくていい。華鬼の口からのろけ話は聞きたくない」
 一瞬だけ口を開くと、水羽は片手をあげてにべもなく言い放つ。それから険しい表情を崩して微苦笑した。それは、生家で何度か見た彼特有の笑顔である。
「とにかく、謹慎は解けたから明日から登校ね。……いま、嫌そうな顔した?」
「面倒くさい」
「学生の本分でしょ。っていっても、明日が何日か知ってる?」
 問われてカレンダーを眺めたが、日にちも曜日も気にせずに蜜月よろしく神無のそばにいた華鬼は、今日が何日なのかさっぱりわからなかった。考えるようにカレンダーに顔を向けていると、
「本当、そういうところは無頓着だよね。もともと気にしてないのは知ってたけどさ。明日は十二月十四日。何の日かわかる?」
「……鬼ヶ里祭」
「そう。大人しく出ればすぐに冬休み」
 なるほど、と華鬼は納得する。それなら水羽が言うように素直に学校に行ったほうが小言を聞かなくてすむぶん得策だと思える。授業のように一定時間を束縛されることもないから、うまくいけばいくらでも自由時間は確保できるだろう。
 あまり乗り気ではないが、神無が通学している以上はあとあともめて退学にされるのだけは避けたい。それに、このまま神無を無断欠席させつづけるのもさすがに気が引けた。
 仕方ないかと溜め息をつくと、苦笑する水羽が視界に入ってきた。
「効果覿面だね」
 怪訝な顔をすると廊下から神無の驚きの声が聞こえ、首をひねったときには遠ざかる足音が響いていた。どうやら、水羽の来訪に気づいて奥に引っ込んでしまったらしい。
「いまの神無?」
「……茶でも淹れるんだろ」
 神無の行動パターンをだいたい把握した華鬼がそう告げると、きっちり十分後にティーポットと可愛らしいカップののったトレイを手にして神無が戻ってきた。ソファーから立ち上がった華鬼はドアを開け、トレイを受け取って神無とともに水羽の前に戻り――そして、唖然とする彼に首を傾げた。
 大きく目を見開いた水羽は神無を見つめて口をぽかんと開けている。それから華鬼を見て、もう一度神無に視線を戻し、ソファーから浮きかけた腰をすとんと落とした。
 しかし表情は先刻のままだ。驚倒する、と表現したいくらいの顔である。
「相性がいいってこういうことか。やられた」
 水羽がちいさくぼやいて額に拳をつけた。
「これじゃ、はじめから誰にも勝ち目なんてないじゃん」
「なんだ?」
「なんだって……だって、華鬼、神無が……」
 不思議そうな表情の神無を改めて見つめ、水羽は口ごもってしまった。
「神無が?」
「だから、神無が――……って、華鬼、まさか気づいて……ないの?」
 驚く水羽はひくりと顔を引きつらせる。彼の言わんとすることが理解できない華鬼がなんの事だと問うと、彼は大げさなほど肩を落として盛大な溜め息をついた。
「やだなーもう。鈍い鈍いとは思ってたけど、まさかここまで鈍いとは思わなかった。麗二と光晴連れてこなくて本当によかった」
「さっきから、なんのことだ」
「……教えない」
 そっぽを向いて水羽がつぶやく。
「ボクが言うより自分で気づいた方がいい。とりあえずこれだけは警告しとくね?」
 にっこり微笑みながら茶を請求し、水羽はカップを受け取ってからようやく口を開いた。
「神無に無茶させたら一生後悔することになるから気を付けるように」
「……だから」
「質問はなし」
 先手を打たれ口をつぐむと、それを確認した水羽はカップに口をつけた。それから憮然とした華鬼に肩をすくめてみせる。
 紅茶を飲みながら、彼は吐息をついた。
「これで歴代最高の鬼頭って呼ばれちゃうんだから世の中どうかしてるよね。強いのは……まあ、認めるけど。上からの報告、聞いた?」
「いや」
「ひとまず鬼頭には手を出すなってさ。どうやら三老の息のかかった鬼が紛れ込んでて、そいつも病院に送っちゃったみたいでさ、さすがに向こうも慎重になったみたいだね。……もう必要ないだろうけど」
 奇妙な言葉をつむぐ水羽を見つめていると、神無が紅茶をそそいだカップを二つ並べてテーブルにおいた。そして、やはり不思議そうな顔で水羽を見つめる。
「これなら、上は文句のつけようがない。上どころか、――誰も」
 くすりと笑ってカップをテーブルに戻した。
「お邪魔虫は退散しようかな。あてられるのも面白くないしね」
 当たり前のように華鬼に寄り添う神無に微笑みを向け、水羽は体を大きく伸ばしてから立ち上がった。見送りのために慌てて腰を上げる神無に水羽は瞳を伏せ、そして不意に近づき、驚く彼女の頬に軽く口づけて柔らかくその胸に抱きしめる。
「祝福する。おめでとう、神無。――この言葉を一番に贈れたのがボクだったの、すごく嬉しい」
 水羽を引きはがそうと立ち上がった華鬼は、その表情と言葉を聞いて動きを止める。意味深といえば意味深な、だがどうにも判然としない内容。それなのにその一言は、そしてそれを告げた水羽の表情は、不意をついた気に入らない行動を打ち消すほどの効力があった。
 その顔には、寂しげなでありながら喜悦に満ちた、ひどく見慣れない笑みが広がっていた。
「あ、あの……っ」
 水羽に抱きしめられたまましどろもどろになる神無に気づき、ようやく正気に戻った華鬼が手を伸ばす。だが、その手が触れる前に浮かんだ笑みを消し去り、水羽はするりと身をひきドアに向かって歩き出した。
 ドアを出て左に折れれば玄関にたどり着く。向かった方角を確認して神無を見ると、彼女は真っ赤になったままキスされた頬を押さえて立ちつくしていた。放心しているような彼女を見るのは何となく面白くなかったのだが、それは不快と言うにはほど遠い感情だった。華鬼が苦笑して手を伸ばし、くしゃりと髪を撫でてから歩き出すと、彼女ははっとしたように目を瞬いて慌てたようについてきた。
 華鬼は廊下に出てすぐに立ち止まった。
 まっすぐ玄関に向かうだろうと思っていた水羽は、意外にも廊下に置かれた電話機の前でしゃがみ込み、呆れた声を上げて手を伸ばしている最中だった。きょとんとする神無とは対照的に、水羽の手元を見た華鬼は舌打ちする。邪魔を徹底的に排除して快適にすごそうとした彼は、当然ながらそのための小細工の一切を神無には伝えていなかった。
「もー、親父さんから変な探りの電話入ってきてなにかと思ったら、これが原因? 緊急連絡があるかもしれないんだから、電話線抜かないでよ」
 線を戻し手をはたいて水羽は軽く華鬼を睨んだ。
「じゃ、ボク帰るけど……華鬼、指輪買っておいて」
「……指輪?」
「鈍いなぁ、結婚指輪だよ、結婚指輪。道路は除雪されてるから町まで行けるだろ? 注文だけでもしてきてよ」
「理由は」
「――とにかく、行ってきて。まだ華鬼と神無が結婚してることって一般生徒には完全に定着してないから、ちゃんと目で見てわかるように前振りしておかないと大騒ぎになる。じゃ、明日ね」
 水羽は謎の言葉を残してひらひら手をふり、首を傾げる二人をおいて出て行った。彼が一番に伝えたかったのは自宅謹慎が解けたという報告だとばかり思っていたのだが、どうやら最終的には別の内容にすげかわってしまったらしい。
 玄関を出る前に念押しされ、華鬼はしぶしぶ頷いた。
 しかし、気がすすまない。
 人混みがあまり得意でない上に町に降りるのが面倒というのもある。それに、華鬼自身がペアリングを身につけるタイプでもないのだ。買うだけ無駄な気がしてならない。
 難しい顔で玄関のドアを睨んでいると、
「指輪」
 とちいさく口にする神無の姿が目にとまった。相変わらずひかえめな彼女だが、その横顔は期待に満ちている。
 貴金属に興味がないと思っていたが、内心は欲しがっていたのかもしれない。
 普段なら決して自らそんなものは身につけない華鬼だが、神無が喜ぶなら、買うのも悪くないかと少しだけ心が揺れた。だが、わざわざ車を出して何時間も雪道を走って町に行くのが億劫であるのも事実だ。
 華鬼は難しい顔をしたまま彼女の横顔を眺めた。
 ふと漂ってきた紅茶の香りに、華鬼の視線がリビングに向いた。水羽は紅茶を途中まで飲んでいたが、華鬼と神無はまだ口をつけてさえいなかった。せっかく紅茶を淹れたのだからそれを飲みながらゆっくり考えるのも悪くない。そう思って神無を促しながら踵を返すと、それを阻むかのように軽い電子音が廊下に響いた。
 まるで電話線を繋ぐのを見ていたかのようなタイミングに、二人は奇妙な顔で久々に自己主張する無愛想な家電をじっと見つめた。
 先に手を伸ばしたのは神無だった。
 慎重に耳に受話器を押し当て、もしもし、と声を発し、次に事もあろうに「お義父さん」と呼びかける。ほっとした神無の表情から電話の相手が父の忠尚であると確信した華鬼は、不快そうに顔をゆがめた。
 昼夜を問わずに電話をしているのかと頭痛を覚え、溜め息が漏れた。
 だいたい、あの男が出てくるとろくな事がないのだ――経験上、華鬼は胸中でそう毒づく。やはり電話線は引っこ抜いておくに限る。苛々しはじめた華鬼の隣で神無は受話器を握りしめ必死に返答を繰り返していた。
「……来る気か」
 長話にぴんと来た華鬼は、口べたな彼女がなんとか言葉を口にするのを見て足早に部屋に行き、神無用のコートとマフラーと帽子、さらに自分用のコートを手にして受話器を握る彼女の隣に立った。
 案の定、神無は忠尚につきあって話し込んでいる。受話器から漏れてくるがなり声に眉をよせつつ、華鬼は話し込む神無の首にマフラーを巻き、受話器を奪うなり、
「かけてくるな」
 実の父にすっぱりと命令して返答を待たずに受話器を置いた。
 のんびり予定を組んでいる場合ではない。このまま家にじっとしていれば、せっかく手に入れた二人だけの時間どころか何もかもすべてが奪われてしまうことも充分考えられる。鍵がかかっていようがいまいが、忠尚がそれを気にするような男でないことは息子である華鬼が一番よく知っていた。この場合、居留守を使っても十中八九見破られ、問答無用で押し入ってくるだろう。
 それなら出かけたほうがよほどましだ。
 華鬼はきょとんとする神無にコートを着せて帽子をかぶらせ、自分もコートを羽織ってから神無の手を引いた。
「行くぞ」
 最高に迷惑な客が来る前にさっさと出かけてしまうに限る。いったん足を止めて真っ白に染まる外を確認し、自分以上に神無の防寒対策を万全にしてからふたたび歩き出した。
「どんな指輪が欲しい?」
 結婚指輪ならシンプルなものがいいのだろうか、それとも少し凝ったものの方が彼女は喜ぶのか。今まで一度も貴金属類に興味を持ったことのない華鬼は、考えあぐねて彼女に意見を求めて、そして嬉しそうにこぼれ落ちる笑顔に瞳を細めた。
「おそろいの指輪?」
 ここ一週間ずっと見つめつづけてようやく知った、それが一番嬉しいときの彼女の笑顔。抱きしめたいと思う衝動そのままに彼女の細い肩を抱き寄せ、不思議そうに見上げてくる彼女に口付けた。
 そして、険しい表情を解く。
「ゆっくり、決めるか」
「うん」
 腕の中で機嫌よく頷く神無に、華鬼もちいさく笑みを返した。

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