息苦しい。
 視線がまとわりつく。
 どこにいても、なにをしても、絡みつくように視線が追ってくる。
 どこかに。
 どこかに逃げなければ息ができない。このままじゃ、呼吸さえできなくなる。
「……ッ」
 神無は大きくあえぎながら、壁づたいに歩く。
 足がうまく前に出ない。
 冷や汗が流れた。
 手がじっとりと汗をかいている。
「どこかに……」
 人のいない場所に行きたい。もっと楽に呼吸のできる場所に。人の視線におびえなくてもいい場所に。
 早く。
 神無は懸命に歩く。他人から見れば呆れるほどに遅いだろう。しかし、彼女はこれでも精一杯なのだ。
 足を引きずるようにあてどもなく校舎の壁を伝い、人気のない場所でほっと大きく息をつく。
 それでも、本能がまだダメだと神無に告げている。
 もっと人のいない場所に。
 少しでも孤独である場所に。
 自分に与えられている安全はあまりにも脆い。
 だから、少しでも危険から身を守れるように、危険と向き合うことのないように逃げ道を確保せねばならない。
 今までそうやってきた。
 家にいたときには極力外出をさけた。以前は母から厳しく言われていてほとんど家から出してもらう事はなかったのだが、いつからか自分から外界への接触を避けるようになった。
 外に出るのが怖い。
 安全な場所などどこにもない。
 いつからそう思うようになったのだろう。いつから、こんなにおびえるようになったのだろう。
「おっと、いたいた」
 不意にかけられた声に、神無の体が硬直する。
「どこに行ったって無駄だぜ? 誰の刻印を刻まれてるんだ?」
 神無が恐る恐る振り返る。
 男が四人いた。
 だらしなく制服を着崩した、鬼ヶ里の生徒。
「クソ、たまんねぇな」
 細めた瞳がどこか金色を帯びる。
「なんだってこんな女にこんな刻印刻んだんだか」
「物好きなヤツがいたもんだな」
 くっと喉の奥で低く笑い、ゆっくりと神無に近づいていく。
 瞳がひどく残虐な色に染まる。まるで獲物を見つけた肉食獣のように。
「この匂い――男を狂わせる媚香びこう
「や……」
 いたぶるようにじわじわと近づく男たちから逃げようと、神無は壁に寄りかかりながら後退する。
 息が詰まる。
 どうして、いつもこんな目にあうのだろう。
 この世は恐怖と絶望だけが混在する世界。
 神は――神などいないのだ。
「来ないで……!」
 ゆっくりと伸びてきた手を、神無はとっさに払った。
「なんだよ、慣れてるんだろ? 刻印持ちのお嬢さん」
「触らないで!」
 悲鳴のような声。悲痛なその声に、男たちは歯を剥き出しにして嘲笑する。
「これからイイコトするんだから、つれないこと言うなよ」
 伸びた手が神無の制服をつかみ、そのまま力任せに引きおろした。
「や――!!」
 制服が裂ける。その奥に隠されていた肌に、男たちは一瞬言葉を呑み込んでいた。
「おい、この女」
 顔や手足を見る限り、少女の肌は白桃のようだった。隠されている肌も、同じように傷ひとつない白桃であると思っていた。
 しかし、実際には大きく違っていた。
 少女の体のいたる所に傷跡がある。完治した傷の中には、皮膚が引きつれたように盛り上がっている箇所も多い。白い肌よりわずかに濃く残る傷は数え切れないほどある。
 少女の白桃の肌は、真新しいものから古いものまで痛々しいほどの傷で埋め尽くされていた。
 そしてその胸元には、真紅の花が咲いている。
 刻印と呼ばれる鬼の花嫁≠フ印。花といっても、刺青などのように確かな技術によって刻まれたものではない。
 それは少女を呪縛する刻印だ。
 花のようであって花でなく、しかし、時に魅惑的に男を誘う妖花となりえるモノ。
「スゲぇ……ってから喰うか?」
 本性剥き出しに男が笑う。金に染まる瞳。残酷な肉食獣。
 目の前にあるのは至高の餌だ。
 少し成長不足ではあるが、欲を満たすには問題ない。
 泣き叫ぶ女を犯しながら喰らうのもいい。命乞いする様を笑いながら、一片の情もかけずに切り裂くあの悦楽の瞬間。
 男たちの意図を敏感に感じ取り、神無の瞳から急速に光が消える。
「い……!」
 追い詰められた少女は、傷跡で埋め尽くされた白い肌に手を触れた。皮膚がちりちりと痛みを伝える。
「やぁ……ッ」
 それすらも気付くことができず、少女は悲鳴とともに肌に食い込んだ指を動かした。
「え?」
「なんだ?」
 呆然とする男たちの前で、神無は自らを傷つけている。まるで気がふれたかのように、細い指で、わずかに伸びている爪で自らを引き裂いている。
 恐怖で凍りついた表情のまま。
 自傷としかいえない行為。白いブラウスに赤い小さな花が咲く。少女の指の動きにつられて、小さな花が増えていく。
 大きく見開いた少女の瞳は、何も映してはいない。
「おい、コイツおかしいぜ」
「かまわねーよ」
 男は残酷に微笑んだ。
「おかしかろうがマトモだろうが、どっちでもいい」
「ああ、そうだな。どうせ」
 後ろにひかえていた男が喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
「どうせ喰うんだから」
 男たちが一歩前進した瞬間。
 不意に強い風が吹いた。
 森から吹く風とは違う、恐ろしく冷たい風だった。まるで真冬の冷気をまとうかのような風。
「おいたが過ぎますよ」
 呆れたように男の声がつぶやく。声には少し棘がある。
「誰だ!?」
 とっさに四人の男子学生は身構えた。気配がしない。腕にはそれなりに自負と自信があった。それにこっちは四人だ。負けるはずはない。
 そう思った。しかし、気配がしない。
 そのことに微かに動揺した。
「困った坊やたちだ」
 言うや否や、建物のかげから男が一人姿を見せる。
 長髪を軽く後ろで束ねた麗人≠ェ神無を見て表情を曇らせる。白衣が風でわずかに翻る。
「高槻先生……!?」
 学生たちが唖然とした。見目麗しい保健室の麗人≠ヘ腕を組んで瞳を細めた。
「一翼、高槻麗二」
 ゆっくりとそう言うと、血も凍るような冷笑を学生たちに贈った。
「ったく、ちょっと目ぇ離したスキにこの有り様かいな!? 鬼の理性はなんちゅう切れやすいんじゃ」
 心底呆れたような声が頭上からした。
 と、その刹那、長身の男が勢いよくくうを裂いて神無と男たちの間に舞い降りた。身をかがめたのは一瞬で、長身の陰は何事もなかったかのように鋭く男たちを睨みつけた。
「二翼、士都麻光晴」
 男たちがじりっと後退する。
「おっと、そう簡単には逃がさないよ?」
 軽やかな声が、後方から。
 そこには、自分たちよりもはるかに小さな少年が音もなく立っていた。
「三翼、早咲水羽」
 少年の言葉に、男たちがぎょっとした。
「三翼――!?」
 花嫁を守るために遣わされる鬼がいる。
 鬼はもともと、母体で眠る胎児に印を刻む。鬼の中には女は生まれない。そして、人間の女が鬼の子を身ごもることはない。
 だから鬼は胎児に印を刻む。母体にいるころに遺伝子を意図的に組み替えて、鬼の子を受胎できる女を作る。
 それが刻印を持つ女――鬼の花嫁。
 印を刻まれた女は、独特の匂いを持つ。それは男を狂わせる魔性の香りとなり、花嫁たちを危険にさらす。
 鬼とも人とも判別のつかない最下級の鬼は花嫁を選び守ることはないが、下級の鬼は自ら選んで刻印を刻んだ花嫁を、自らの手で守る。
 そして通常の鬼は、一人の下級の鬼に花嫁を守らせる。
 上位の鬼は二人の鬼に花嫁を守らせ、さらに上の鬼は――
「ボクで三翼だ。お前たち、誰の花嫁に手を出しているのかわかってるよね?」
 男たちの顔が見る見る青ざめていく。
「鬼頭=\―!!」
「ご名答。この代償、高くつくよ」
 引きつるような声に、少年は冷ややかに微笑んだ。

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