「踊り子がいるらしいぜ」
不意に耳に飛び込んできた言葉は、別段驚くほどの内容ではなかった。
そこは甘い香りをのせた煙が立ち込める、
ドアを開け、新たな客が店内に足を踏み入れる。
「筋肉デブ」
くすんだ金髪を掻きあげて、細身の男があたりを見渡し小さく呟く。彼の小声は男たちの怒声と聞き間違えてしまうものの中に埋もれた。
彼は髪よりもやや黒ずんだ黄金の瞳を細める。
「踊り子ォ?」
素っ頓狂な男の声を耳にして、彼は物好きな女もいたものだと内心呆れた。
ここは炭鉱の町だ。出稼ぎの男が多く住みつき昼夜を問わずに働くのが常で、それに乗じていくつかある酒場はいつ行っても温かい食事と苦い発泡酒を用意している。
重労働と野蛮な男たちからの下劣な行為で、若い娘はその日のうちに町を飛び出すのが恒例だった。
ゆえにここにいる女は、二重顎と三段腹がご自慢で、野蛮な男たちがその立派な尻を触ったごときでは眉ひとつ動かす事のない、たくましい店員ただ一人である。
女性不足という現状はどこに行ってもさして変化はなかった。
ぬるい発泡酒のグラスを傾けながら、彼は隣の円卓を囲んでいる男たちの会話を聞くともなく聞いている。
「
別の男が色めき立つ。
妓営団――そう表現すれば少しはまっとうな響きもあるのだが、実際まったく違う。その集団をまとめるのは男だったり女だったり様々だが、働く者の大半は女で、彼女たちは酒場で妖艶に踊っては男を虜にしてその身を任せ、金を取る。
彼女たちの仕事は踊りではなく、その先に続く行為そのものだ。
なかには病巣を抱えた女もいるという話だが、酒場に集まる男たちはそれすら気にとめる様子もなくだらしない表情で話を続けている。
それを横目で見やり、彼は小さく溜め息をついた。
これだけ女が少ないなら、踊り子と聞くだけで興奮するのは仕方がないのかもしれない。
しかしあまりに理性がなさすぎる。
「妓営団じゃねぇよ。一人で踊ってるって」
「流れ者か?」
どこか楽しげに言葉が続いている。
傾きかけたグラスがぴたりと止まった。
踊り子が一人旅とは珍しい。職業柄いやでも危険に晒される彼女たちは、保身と客確保のために集団で動くことが多かった。
しかし、話の女はそうではないようだ。
「どんな女だ!? 美人か! 胸は! 尻は!!」
あまりに直接的な問いに辺りがどっと沸いた。
気持ちはわからないでもない。
しかし本当に、下品極まりない。
「顔は普通とかって――おい、誰か見たヤツいるか?」
男が店中に響き渡るほどの大声をあげた。それを耳にしながら、彼はグラスを一気にあおる。
「見ちゃいないが――あれだろ、噂の舞姫さま」
「舞姫だぁ!?」
大げさな声が問い返すと、店内がざわめきだした。
彼も一応は耳にしたことのある舞姫≠フ噂。彼女はどこからともなく現れ、音楽に合わせて数曲踊って瞬く間に姿を消すという。
体を売って金を儲ける踊り子とはまったく違う行動と、そしてその演舞の腕前が噂となり、口伝に広がって彼の耳にも届いていた。
「……いたんだ、そいつ」
彼は思わずそう呟いた。
ただの噂話と
噂話はどうひっくり返しても噂でしかなく、それが真実に変わったことなどなかった。
しかし。
「ほら、昨日来た旅人の中に紛れてるって」
「そりゃぜひとも手合わせ願いたいねぇ」
誰かがグラスを高々と持ち上げ、品性の欠片もない笑い声をあげた。つられて笑う男たちに、彼は再び小さな溜め息をつく。
もう少し上品に振る舞っていれば女も寄り付くだろうに、店に怪しい香をたき、昼間から浴びるように酒を飲んでは本能のままに話しているのだから、女日照りも自業自得の感が否めない。
彼はグラスを円卓に戻すと立てかけてあった細い剣を手にした。
「なんだ、兄さん剣士かい?」
不意にかけられた声に、彼は隣の円卓にいた男を見た。
「飾りだよ。付けときゃ夜盗避けになる」
そう返すと男は豪快に笑った。
「あんたみたいな優男じゃ脅しも通じないぜ?」
もっともらしく言われると次に返すうまい言葉もなく、彼は床にじか置きされた皮の袋を手にした。
「オレの本職はこっち。――楽師だ」
皮袋をずらして中身を少し見せると、男は口笛を吹いて驚いた。そこにあったのは魔獣の骨から作られやや黄みがかった見事な曲線を描く弓形のハープ。
しかし、通常のものよりも小振りだ。全長は35センチ、その弦は50本をはるかに超えて等間隔でぎっしりと並んでいる。
「調弦面倒臭くて」
彼は苦笑してから立ち上がった。実際に調律は厄介な作業だ。通常のハープは木製で、そのため調律はかなりの頻度で行う必要がある。
幸い彼のハープは魔獣の骨からできているのでそこまでこまめに調整しなくてもいいのだが、それでもどうしてこんなものを受け取ってしまったのかと己の軽率さを恨むほど、一回の調律にかなりの時間を費やしている。
「筋肉痛になるんだよな……」
ボソリと呟きながら、彼は広いはずなのに客とテーブルで歩く隙間もない店内を体を左右に振るようにして抜け出した。
美味い店は流行るというが、ここはそれだけではない。
店内に充満している煙は常用性の低い麻薬だろう。絡みつくようなそれは利用する者の精神状態によって、ある時は高揚を、ある時は幻覚を、ある時は安定剤の代わりにも使えるような代物だ。
けれど彼のようにまったく効果のない者にとっては、食事と酒の味を損ねるただの甘ったるい煙にすぎない。
体に染み付いた甘い香りを落とすように、彼はパタパタと体をはらってから細い剣をベルトに固定した。
そしてあたりを見渡す。
炭鉱からの収入が大半を占めるその町は、もともとが小さいせいもありゴミゴミした雰囲気だ。
男が多いからなのか、それとも自分以外はどうでもいいのか、本当にどこを見ても薄汚れていて不潔な感じがする。
彼は視線を広い道へと移動させた。
道の先には小さな広場があったと記憶している。財布もだいぶ軽いし何曲か弾いて金を集めるのもいいだろう。
町の状態からあまり多くの収入は期待できないが、今晩の宿代がギリギリ払えるだけの路銀では心もとない。
「調弦は一昨日したし」
彼は一つ大きく息を吐いて歩き出した。
すれ違う男たちは皆、彼よりもはるかに体格がいい。そんなに細身ではないはずなのに、彼はこの町に来てからは自分が痩せたのかと首を傾げてばかりだ。
荷物を背負ったまましばらく歩き、彼は目的地の広場に辿り着く。
ここもあまり手入れされているとは言えないが、他に比べれば随分小奇麗な印象だった。
酒場で聞いた話どおり、慣れない様子の男が何人もオロオロしながら歩き回っている。興味津々の視線を向けられ、緊張したように体をこわばらせる女も何人かいた。
彼は人ごみを掻き分けるように広場の中央へ進み、そこに日時計を見つけた。しかし時刻を表すための軸もなく、随分長い間使用されていなかったようで道に描かれた絵も所々消えかかっていた。
彼はその中央にストンと座り皮の袋からハープを取り出した。
芸人のように技の一つもできればもう少し収入が安定したかもしれない。しかし彼には音楽の才能はあってもそれ以外、人に自慢できるようなものは何一つなかった。
「剣術は見せられないし」
仕方がないと呟いて彼はハープに視線を落とし、それを小脇に抱えるようにして挟んで指を添えた。
何を弾こうか一瞬悩み、結局は耳馴染みの一曲を選択して指を滑らせた。
忙しげに歩いていく労働者が驚いたように足をとめた。
しかし、それは長い時間ではなかった。
彼らはすぐに目的を思い出したかのように歩き出してしまう。
足をとめて聞き入っているのは昨日来たばかりという旅人だったが、その中には若い娘の姿がない。
確か、舞姫と呼ばれる女は随分若いと耳にしていた。
そんなに都合よく会えるわけはない。
相手は噂のなかに生き続ける女なのだ。
そう思って諦めかけた頃――
人の波を掻き分けて、少女が近付いてきた。
縦横無尽に人々が歩き回る中、音楽に合わせて進める歩は乱れ一つない。それは多くの土地を渡り歩き、様々な舞台を見てきた彼ですら一度として目の当たりにしたことのない卓越された天上の舞。
彼の目が少女に釘付けになる。
噂は何度か聞いていた。若い娘であると誰もがそう語った。
しかし、若いどころの騒ぎではない。そこにいたのは、十代半ば――いや、大人びた雰囲気ではあるが、もっと若い娘。
おそらくは十代前半。
「舞姫」
ああ、と彼は心の中で感嘆した。
確かに舞姫だ。歌と踊りを愛する豊作の女神。
軽やかなステップは無意識にこぼれる笑顔と重なって一層引き立つ。
踊り子は皆、愁いを含んだ表情と
だが、彼女は違う。
彼女はただ純粋に踊りを楽しんでいるのだ。
人々の視線が少女に集まりだす。
それを気にとめた様子もなく、彼女は確実に彼に近付いてきた。
ゆったりとした衣装は質素で飾り気のないものだが、彼女の動きに合わせて自在に変化し、独特の流れを生む。
少女が彼の目の前に来た瞬間、その手がするりと服に伸びた。
脳がその動きを理解するよりも早く、彼の指は総ての弦を爪弾いていた。
空に布が大きく広がるとそれを合図にしたかのように曲調が変わる。
辺りが一瞬で沸いた。
大気を抱きしめるように降りてきた布のはしを掴んだ少女は小さく回る。その布は彼女が今まで着ていた服である。その下には、酒場で踊る踊り子すら唖然としてしまうような挑発的な衣装をまとった若い肢体があった。
人々の目が少女に釘付けになる。
彼の目も同様に少女の動きを追い、しかし指は憑かれたように弦を爪弾き続けた。
まるで何かに操られるように指が音を紡ぐ。高揚していく自分自身に驚きながら、彼は彼女のための曲を引き続けた。
生涯で一度、こんな舞い手と競演できれば幸運だろう。
この舞を目にした者は、それを語り継いでいくだろう。
舞姫と呼ばれる少女の演舞を。
「――フィリシア」
旅先で偶然立ち寄った小さな村で祀られる女神の名が、ふと彼の脳裏に浮かんだ。