大陸で最速と謳われた鳥が小さな文書をたずさえてその国の王宮に辿り着いたのは早朝だった。
 フロリアム大陸でもっとも内政が安定していると言われる大国の崩壊――それは、諸国を巻き込む乱戦の引き金にもなりかねない一大事である。
 しかしこの報を受けたイリジア王は、静かにひとつ、溜め息を落としたにとどまった。
 同日、夕刻。
 噂は瞬く間に広がって徴兵令が発令。親善国の突然の崩壊に動揺するイリジアの民に追い討ちをかけるこの事態に混乱はさらに大きくなった。
 その最中さなか、一頭の駿馬しゅんめがこの国に訪れた。
 馬は王城の城壁に辿り着く前に息絶え、乗っていた者はそれを一瞥して門兵に開門を請求。不審者の入城を拒んだ門兵は、意外なことに内部からの指示によってその者に入城の許可を与えることになる。
 そして現在、フードをすっぽりかぶり口元を隠してうつむく人物は、謁見の間に通されてイリジア王と対面した。
「ここにいるのは信用のおける者ばかりだ。――遠路、ご苦労だったな」
「いえ」
 ねぎらう声にこうべをたれたまま低く短く返答がある。無礼とも取れない対応だが、謁見の間にいた数人のイリジア王の家臣――警備兵を含めた男たちは、表情ひとつ動かすことなくひざまずく者を注視した。
おもてを上げなさい。よく来てくれた」
 事務的な口調が親しげなものに変わる。それを確認してからようやく、うなだれるように下げられた顔をあげた。
 深くかぶっていたフードを脱いで、口元を覆っていた布を取り外す。
 案の定、周りからは安堵のざわめきが起こった。
「アーサー」
 イリジア王は玉座から立ち上がって両手を広げた。少年は、張り詰めた様子を解くように進み出て短い階段をのぼり、彼の目の前に立った。
 七十歳をとうに超えたイリジア王は、長い白髪を肩にたらし口髭も同様に長く、その容姿からも老成した雰囲気がにじみ出ている。
 だが、触れる腕は思いのほか太い。この世界でこの歳ならば、すでに大半は現役を退き、さらに多くの者が何らかの理由で命を落としていた。
 いまだ王位に着くのはその人望の厚さであり、鍛錬の成果でもあるのだろう。
 イリジア王はバルト王とは違い、この国の象徴足るべき器の男だった。
 その彼が孫の帰国≠喜び、強く抱きしめる。
「無事でよかった。おお、また少し背が伸びたか?」
「はい、陛下」
 イリジア王には何度か会いに来たことがある。記憶がないと伝えた時はさすがに動揺を隠せなかった彼だが、それも本当にわずかの間だった。寛容に孫の帰国を喜ぶ男は、ただの好好爺こうこうやとなって目じりを下げる。
 あっけない、とアーサーは心の中で冷笑した。
 重なる偶然がこの事態を生み出したとはいえ、あまりに滑稽な話だった。多少の失敗や差異はあるが、何もかもが驚くほど順調に進んでいる。
「それで」
 躊躇いがちなそぶりで問うと、イリジア王は深く頷いた。
「兵は用意しよう。お前は案ずるな、ワシがついておる」
「しかし」
「バルトの内情は知っておる。聞けばウェスタリアに――其方の母君にクカを教えたのは亡きバルト王と言うではないか。何という愚かな王だ。その息子もクカの常用者――あまつさえ、卑しき娘を王妃に据え、気高き王家の血を汚そうとは嘆かわしい」
 嫌悪に震える声にアーサーは表情を曇らせる。さも悲しげに、さも辛そうに。
「あの国は内部から腐っておる」
「陛下、それは……」
「わかっておる、内密であったな。バルトの血を引くお前にも辛い思いをさせた」
「いえ」
 あえて言葉少なく顔を伏せる。情報を操作するなど造作もない。真実を少しずつ捻じ曲げ、イリジアがバルトに送り込んでいた密偵に情報を流す。それをうまく裏づけしていけばいいだけだった。
 過去に役に立たない密偵も何人かいた。最後の密偵は、欲に駆られて邪魔になり始末したが、それもやむを得ない事だと割りきって、彼はここに立っていた。
 他国を影で干渉するのが当然の世で、バルトだけが安穏とした平和にどっぷり浸かっていた事が幸いし、戦力を済し崩しにする事も、情報を操作することも、意外なほど簡単な作業だった。
 城壁を持たない国。守るものが多かったにもかかわらず、何ひとつ守ろうとはしなかった愚かな王国。
「いずれ事実が知れ渡ればバルトの民も我らに感謝するであろう。バルト王が治める国には未来など存在せぬ。其方はここに身を隠し、争いが終結したのちに……」
「いいえ、陛下」
 偽りの情報を得たイリジア王はまっすぐにアーサーを見た。色素の薄い茶色の瞳。落ち窪んでいるとはいえ、その眼光は隠された真実を暴かれるのではないかとたじろがせるほど鋭い。
 しかし、その眼光にひるむことなく、心の奥は決して見せずにアーサーはゆっくりと首を振った。
「兄上の罪は自分の罪でもあります。決着はこの手で付けるつもりです」
「アーサー」
「ご挨拶に参りました。ご助力を感謝します」
「……其方、まさか」
 アーサーの言葉にイリジア王は息をのんだ。
 命なんていらない。ここに来て、現実を思い知るたびに血を吐くような思いで繰り返してきた言葉だ。
 帰る場所はない。帰る方法もない。帰りたいとも思わない。
 死に場所を求めるなどという考えはないが、同時に、今の彼は生きる意味すら失っていた。
 だが、それを素直に口にするほど軽率ではない。アーサーは切迫した空気を肌で感じながら悲しげに顔を伏せて静かに首を振った。
「死ぬ気ではありません。しかし、どうなるかはわかりません。最後にひと目、おじいさまに謁見願えればと思いさんじました」
「……そうか。ウェスタリアにも会ってやってくれ。あれも喜ぶ」
「はい、その所存で」
 不安を隠すような作り笑顔でそう言われ、あたたかい腕に抱きしめられてほんの少しだけ決心が揺らいだ。一国の王である男は、多くの子供たちの父でもある。その子供たちは大人になり、彼には驚くほどの数の孫がいる。アーサー≠ヘその中の一人に過ぎない。
 けれど、母親であるウェスタリアが心を壊して帰国したことにより、アーサー≠フ位置づけがイリジア王の中で大きく変化していたのは事実だ。
 影では散々言われてきた王子だが、イリジア王にしてみれば不憫で可愛い孫だった。
 偽りと真実を織り交ぜた情報が彼にどう影響を与えたのか――度々訪れたイリジアの使者から確かな手ごたえが返ってくるのに大して時間は必要なかった。
「母上は?」
「いつもの場所だ」
 無防備に返ってくる答えにアーサーはかすかに笑んだ。礼を述べ、別れを惜しむイリジア王に深く一礼してから謁見の間をあとにした。
 再びフードで顔を隠して廊下を足早に渡る。多少の奇異の目はあったが、誰からも足止めされることなく彼は王城の奥まった部屋に辿り着いた。
 ここにはめったに人が来ない。それを象徴するように長い廊下にはすえた臭いがこびりついていた。
 彼は背後を確認してからフードをはずしてドアを押し開いた。
「母上」
 石に囲まれた窓すらない一室は牢獄のようだった。わずかに揺れるのは木製の机の上に置かれた蝋燭の炎のみ。
 それをぼんやりと眺めていた女は、炎に手を差し伸べて口元をゆがめた。
「母上」
 再度呼びかけると女の動きが止まった。美しく整えられた髪が揺れる。上等なドレスを身にまとった女は、ぎこちなくドアに顔を向けて瞳を細めた。
「坊や」
 ウェスタリアは、イリジアに戻った後も心だけをどこかに置き去りにしたまま外界との接点のない生活を送っているという。彼女はおぼつかない足取りでアーサーに近づいた。
「ああ、よく無事で……」
 両手を伸ばしてその頬に触れる寸前で彼女は表情を凍らせて手を止めた。そして、唐突に金切り声をあげる。
「アーサー! アーサーはどこ!?」
「……母上」
「アーサー!!」
「それでは狂っていると思われてしまいますよ、母上」
 悲鳴が長く尾を引く。彼女の狂乱はすでに日常と化していた。同情こそすれ、この悲鳴を聞きつけて駆けてくる者などいはしない。
 それを承知で、アーサーはウェスタリアに近づいた。
「アーサー!!」
「母上、アーサーはここです」
「違う! アーサーはどこ!? 坊や……!」
 恐怖して壁を探る姿に苦笑し、アーサーは机の上に小さな小瓶を置いた。
「香水瓶です、母上。なかなか美しいでしょう?」
 小さな香水瓶はガラスの容器に銀細工で装飾がほどこされている。それは混乱に乗じてエディウス専用の工房から拝借したものだ。
 アーサーが机から離れると、慌てたようにウェスタリアが駆け寄って香水瓶を掴んだ。
「それをイリジア王に飲ませてください。そうすれば、あなたのアーサーが戻ってきます」
 茫然とするウェスタリアにアーサーは優しくささやいた。焦点のあわない瞳が宙を彷徨う。小さな香水瓶を胸に押し当てて、彼女は口の中で何事かを繰り返していた。
「簡単なことだ。人より長く眠るなんて」
 小瓶ごと手をきつく握った女を冷徹に眺め、少年はドアに向かった。
 優しくしてくれた人だった。だが、なんの未練も後悔も湧いてこなかった。向けられた愛情の行方を知る少年は、澱んだ空気を大きくうねらせながら長く続く廊下を突き進んだ。

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