『誰かの為に出来る事』




 ……これは私が見聞きしてきた中でも、ほんの少し風変わりな方々の、仲睦まじいほのぼのとした物語で御座います。
 耳の肥えた御方には、こんな私めの四方山話など寝物語にもなりませんでしょうが、どうぞお家仕事の片手間にでも、ぼんやりとお聞き下さいませ。

 えぇー……と。さてさて。げほんごほん。
 近い様な遠い様な、よく知った様な知らない様な、そんな曖昧で広大な土地の何処かにあった小さな国の真ん中ほどの、空から見れば小さい様な、間近に見れば大きい様なそんなお屋敷に……、

 え?分かりにくいですか?失礼しました。何分私めにはどうもよく分かりかねる大きさで御座いまして。

 兎に角、そんなお屋敷のとある一角の、四角い立派な窓の内側から、切り取られた青空を見上げている一人の少女がおりました。
 年の頃は十代前半、今は蕾でも間も無く凛凛しく咲き誇るであろう素養を持った、それはそれは美しい乙女でした。

 細やかな刺繍があちらこちらに施された真っ白なドレスに身を包み、品の良いアンティークの椅子に腰掛けて頬杖を付くその姿は、まさに深窓の令嬢、麗しの姫君のそれ。
 緩く巻かれた肩口までの髪は、柔らかな春の陽射しを受けて、その金色の輝きをさらに鮮やかにしています。
 さぞや高貴な身分のご令嬢なのでしょう。空を映し込んだよりも蒼く深い瞳を翳らせ、物憂げなため息をつくそんな御様子も麗しい……いえいえ、何やら重々しいお悩みを抱えていらっしゃる様な風情で御座いました。

 と、唐突に姫の真後ろにある中庭に面した窓が一箇所、とても豪快な音を立てて開きました。

「よお、リュー!今日もいい天気だぞ!外で遊ぶには持って来いの日だ!」

 姫が振り向くと、そこには豊かな黒髪を一つに束ねた、一目で庶民と分かる服装に身を包んだ一人の少年が窓辺によじ登っておりました。

 言い忘れておりましたが、ここは建物の三階です。しかも一応領土で一番の権力者の家でありましたので、三階といっても普通の町の建物の高さと同じに考えてはいけません。一般常識で考えても、これはちょっと危険な行為でしょうね。

 少年の身体のあちこちには、この大樹をよじ登って来た時に出来たらしい小さな擦り傷が無数にありましたが、それでもその顔は、お日様の様に晴れやかで輝かしい笑顔で溢れておりました。

 姫はそんな少年の姿を見て、形の良い眉を顰め、眼差しを一段と厳しくしました。
 すぐに召使いを呼び出して彼を追い払って貰う――かと思いきや、何故だか彼女は手元の呼び鈴に触れようとも致しません。
 ゆっくりと優雅な物腰で席を立ち、唯一の出入り口である扉に近付くと、人の気配のしない事をしかと確かめた上で、がちゃりと内鍵を掛けてしまいました。

「なぁ、リュー。今日の講義はこの国の鉱業の興りと発展についての歴史だったぞ。次は実際にどんな風に精製したり商品にしたりするのか、工場の人が来て教えてくれるんだって!楽しみだな!俺歴史よりもそっちの勉強の方が好きなんだ!」
「姫!!危険な事はしないで下さいと何度言ったら分かるんですか!?あんな所から部屋に来なくたって、もっと安全で穏便な方法があるでしょう!!」

 少年を部屋の奥に引っ張りながら、姫は怒鳴りたいのを必死に小声にしている様な掠れ声で、彼に向かって言いました。
 姫、と呼ばれたその少年は、けれどそんな彼女の言葉など何処吹く風といった様子で、あっさりとこう返します。

「仕方ないだろ。階段は使用人やらが邪魔で使えないし、今日はラトナも捕まんなかったし。それに俺、ここから戻ってくる方がスリルがあって楽しいから好きなんだよ」
「楽しいから好き、じゃないでしょう!!僕だってそんな事やりませんよ!姫様にもしもの事があったら、僕は王様や御妃様にどんな顔でお詫びすればいいんですか!!」


 ……もう皆様お気付きかとは存じますが、こちらのリューと呼ばれている少女の方が、本名をリュカと名乗ります、街の技術学校に通う勤勉な少年で御座います。
 他方、このいかにもみすぼらしい格好の似合う、素行と口の悪い少年の方が、このエルハ国を治めている血筋……つまりは王家の第一王女、リーヴ=ウェリネ=エルハ姫様で御座います。

 二人はある日、リュカ少年が他国からの留学生として、この屋敷を訪問した時に出逢いました。
 この国はその昔高価で希少な鉱物が採掘される事が発見されて以来、小国ながらもそれなりに栄えておりました。
 その鉱物は、この地方ではとても珍しいものでしたので、それを買い付けに来る商人達の往来も賑やかでしたし、また鉱物の採掘や加工に関する研究もとても進んでおりましたので、それらを学びたいと訪れる人々も多く、国には活気が満ちておりました。

 けれどもうここ最近、この国の領内の採掘場は目ぼしい成果を挙げておりません。鉱物を加工し売る事で得ていた収入は激減し、現在この国で誇れるものといったら、鉱物の研究で得た知識や技術くらいしかありませんでした。ですので、王様はそれらの知識を学ばせる事と引き換えに、ほんの少し得られる他国からの援助を頼りにして、細々と国政を行っていらっしゃいました。

 そんな中やって来たリュカ少年の出身国は、こちらもエルハ国に勝るとも劣らぬ小国で御座いまして、本来でしたらそんな国の留学生など断るつもりだった王様ですが、なんとまあ  この少年の事を、リーヴ姫様がいたく気に入ってしまったのです。
 見ての通り、とても快活で威勢の良い姫君でいらっしゃいますので、ぶつぶつと渋る父君をこっそり脅し……いえいえ、懸命に説得なさいまして、その結果、無事リュカ少年はこの国で学問を修められる事になったので御座います。

 ――とまあ、そんな経緯がありましたので、年の頃が同じとは言っても、リュカ少年はリーヴ姫様に強気な態度に出る事が出来ません。
 『良いお友達』として屋敷への出入りを許されたのは良いものの、その度にこっそりお屋敷を抜け出してのお忍び散策に付き合わされたり、悪戯の片棒を担がされては手痛いとばっちりを食らわされたり、どーたらこーたらこれこれ云々……。

 しかも何故だか最近では、リュカ少年が姫様の身代わりにカツラを被り女装をして、お屋敷でお留守番をし(行儀作法の特別レッスン付き)、姫様はリュカ少年の身形を真似て街へ行って、喧嘩をしたり買い食いしたり果ては学校の講義まで受けてくるという、何とも奇妙な『入れ替わり生活』までやらされている始末で御座いました。

「……そもそも、どうしてまた姫様がわざわざ街の学校の授業なんて受けたがるんですか。その気になれば講師を招いてこの屋敷で教わる事も出来るでしょうに」
 少年に扮したリーヴ様のお顔と手の傷を治療しながら、姫様に扮したリュカ少年はそう零します。
「ばぁか。そんなものもう既にやってるよ。一応それなりの教養は身に着けろって、散々言われて育ったんだからな」
「その割にはごく初歩的な淑女のたしなみが身に付いていらっしゃらない様な……いたたたた!」
 にっこり笑顔の姫様の指先が、リュカ少年の頬をしっかと捕えて引っ張っています。ほんのちょっと爪先が食い込んでいるのはご愛嬌です。
「言ったろ?俺は机の上で学ぶ歴史なんかより、実践として皆がどう鉱物に接しているのか、それが知りたいんだ。そういう生きた知識の方が俺は好きだし、大切だと思ってる」
「そして、庶民の暮らしぶりを肌で体験する事も、大切な生きた勉強だと仰るんでしょう?」
「そういう事」
 赤くなった頬を押さえながら言葉を継いだリュカ少年に、リーヴ姫様はお顔を綻ばせてそうお答えになりました。


 ――え?えぇ、そうなんですよ。
 私は姫様が学校で授業を受ける様を覘き見た事もありますが、全くもって、誰もリュカ少年が姫様と入れ替わっている事に気付かないんですよ。
 元々少々お顔立ちが似ておられましたし、リュカ少年は年の割に線の細い身体つきをしておりましたから、それも功を奏したのでしょう。……姫様がリュカ少年を気に入ったのも、もしかしたらそういう事情があっての事だったのかも知れません。
 暫くの間はリュカ少年もその事を気にしていた様でしたが、とうとう姫様に伺う事はありませんでしたねぇ。

 それに姫様は、女性が嫌がる汗まみれの力仕事や汚い雑用も、本当に楽しそうに、進んでおやりになるんですよ。どんな事に対しても勉強熱心で努力家で、作業をしている時の姫様はまた特別に生き生きとしておられました。

 また、それでリュカ少年が本分である学業に打ち込めず、成績が下がってしまっていたかというとそんな事もなく、姫様が戻ってきた後一緒にちゃあんと内容をおさらいしまして、次に授業に出る時までにはきちんと自分のものにしてしまうのです。
 教え方の上手な姫様は、飲み込みの早いリュカ少年を時々誉め、たまにけなしたりしておりました。

 勉強の合間には下らないお喋りもしましたし、時には互いの生まれた街の事も話しました。
 幼い頃にやった遊び、初めて覚えた歌の歌詞、好きな物語の事、大切な宝物の思い出話……。
 二人は他のどんな時間よりも、そうして一緒に過ごしている時の方が幸せそうに見えました。


 そんな生活がどれくらい続いたのでしょうか。幾つかの季節がゆっくりと巡りまして……、そうそう、ちょうど今の様に木々の梢が鮮やかな緑に燃えている頃だったように記憶しております。


 ある日、何やら少々ご機嫌なリュカ少年がいつもの様に”姫様の話し相手”になるべく屋敷を訪れました所、出迎えてくれたラトナの様子がどうも普段と違っています。
 女官長のラトナは、屋敷の中の使用人や召使い達をまとめ上げる役目を任されている、二人の良き理解者です。
 あのリーヴ姫様を小さい頃からお世話しているだけあって、その性格も行動パターンもよーく熟知しております。
 こっそり隠れてやり始めた例の計画も、真っ先に感づいて現場を押さえたのは他でもない彼女でありました。
 姫様を我が子の様に可愛がっているラトナの協力があってこそ、二人の『入れ替わり生活』も何とか成立しているという訳です。

 そんな彼女はいつも、余所者であるリュカ少年に対してもまるで家族の様に接してくれるのですが、その日に限って何やら態度がぎこちないのです。
 他の召使い達はというと、いつも以上にせわしなく上へ下へ右へ左へと動き回っていて、ラトナのどこか気落ちした雰囲気とは何だかちぐはぐな印象でした。

「あの、どうかしたんですか?何だか屋敷の中が慌ただしい様ですけど」
「ええ、実は、その……折角来て頂いて申し訳無いのですが、これからはもう姫様のお話し相手は必要なくなってしまったのです」
「え?どうしてですか?」
 ラトナの言葉に思わずそう返してしまったリュカ少年ですが、肝心のラトナはそれ以上は言いにくそうに口篭ってしまいました。
 何か直接言うのは忍びない事情でもあるのでしょうか。これ以上彼女を困らせてはいけない様な気になったリュカ少年は、困惑してその場に立ち尽くしてしまいました。

 すると、不意にリュカ少年の真上から、あの威勢のいいよく通る声が降ってきました。
「よおリュカ。来てくれたんだな!」
 見上げるとそこには、階段の手すりから少し身を乗り出して手を振る、華やかなドレスを纏ったリーヴ姫様の姿があります。
「そんなとこでなにぼーっとしてんだよ。早く部屋まで上がって来い。ラトナ、一緒にお茶用意して」
「ですが姫様、お父様の言いつけでは……」
「かまうもんか。そいつは特別だ。最後の一週間ぐらい私の自由にさせてくれ」

 言葉を続けようとするラトナを無視して、姫様はさっさとご自分のお部屋へとお戻りになってしまいました。姫様の背中を見送ったラトナは、何だか複雑な、困ったような寂しそうな表情を見せた後、召使いを呼び止めてお茶の支度を頼みました。

 リュカ少年は誰よりも親密な筈の二人の間に、何か言いようのない不穏な空気を感じました。
 恐らくは姫の父上――この国の王様ですが――が、姫様に関して何か彼女に言いつけた事があるのでしょう。ラトナはきっと、姫様と王様の間で板挟みになっているのです。
 それが何かは、リュカ少年には分かりませんでしたが。

 不可解な思いを抱きながらも、リュカ少年はいつもの通り姫君の待つ部屋まで通されました。
「あの、どうかしたんですか?何かいつもと屋敷の雰囲気が違いますけど……」
「ああ。吃驚しただろ?私もいい加減うんざりしてきたとこなんだ。だからお前に会えてほっとしてるよ」
 カップに注がれた琥珀色のお茶に口をつけると、姫様は人心地付いたという風ににっこりと微笑まれました。
「……言葉遣い、直されたんですか?」
「あ?ああ……、一応”俺”から”私”にはな。さすがに他所の国に嫁ぐのにいつまでも”俺”はまずいだろ。他もその内直すけどさ」
「……成程。そういう事ですか……」

 この一言で、リュカ少年はこの屋敷の慌ただしさと、女官長ラトナのぎこちない態度に得心がいきました。
 召使い達は皆、姫様が他国に嫁ぐ為の準備に追われており、女官長ラトナは王様から姫様の身の回りの整理を任されていたのです。つまり、これから他国の貴族の妻になる娘に、少年の様な平民の男がいつまでも付きまとっていても邪魔なだけ、万が一の事があっては大迷惑だ!と、まあ言ってしまえばそういう事なのです。

 出されたお茶にも手をつけず黙りこくったままのリュカ少年に、姫様はぽつりと話しかけます。
「驚かないんだな」
「ええ……。何となく、そんな感じもしてましたから」
「そっか。お前頭いいもんな」
 くすりと笑う姫様の顔が、琥珀の水面にゆらゆらと映り込みます。ほんの少しその笑顔が歪んで見えたのは、光の屈折の所為だけではなかったかも知れません。
 俯いたままのリュカ少年は、その事を確かめる術を持ちませんでした。

 そのまま姫様はまるで他人事の様に、父君から遠方の国の第三王子の五番目の側室になる様に言われた事、一週間後に使者がやって来るので、それまでに身支度を整えてその国へ赴く事、出来る限り王子に取り入って、国に援助が貰える様に尽力する様期待されている事……等々を、リュカ少年に告白しました。

「第三王子の五番目の側室なんて、そんなに力のある立場じゃないのにな。父様も期待過剰だよ。大体自分の娘がどういうものなのか、未だによく分かってらっしゃらないらしい」
「姫様は、それで宜しいのですか?」
「私に拒否権はないよ。それに元より、私はこの為に自分を磨いてきたんだ。学問だって何だって、全て私が少しでも嫁ぎ先で有利に立つ為に身に付けた。女である私がこの国の為に出来る事を探したら、それくらいしかなかったから」

 王様と御妃様、つまりリーヴ姫様のお父様とお母様ですが、このお二方の間には男の子が恵まれませんでした。
 リーヴ姫様の下には、こちらもまた愛らしく麗しい妹姫が二人いらっしゃいます。けれどお二方はまだ幼い為、国政に巻き込む事など姫様にはとても出来かねました。

 幼い頃から男勝りな性格で、どんな事でも努力されてきた姫様ではありましたが、神様から授けられた己の性別までは、どうしても変える事が出来ませんでした。
 抗っても逆らえないものがあるという現実を幼心に知った姫様は、以来ずっとこの窮屈なお屋敷の中で、自分を高める事だけに心を砕いてきたのです。
 ……男性の様な口調が身に付いてしまったのは、女である事を歯痒く感じてやまなかった姫様の、ささやかな願望の表れだったのかも知れません。

「心配しなくても、今は未だ国は安定してる。取り合えず今回の事は、来る日に備えてのコネ作りみたいなもんかな」
「心配なんかしてませんよ」
 ぐいっとカップのお茶を飲み干して、リュカ少年はそう呟きました。
「ふうん。ならいいけどさ。そう言えばお前、今日は機嫌良さそうに門をくぐって来てたじゃないか。何か面白い事あったんだろ?話せよ」

 先程までの深刻そうな雰囲気をあっさりと吹き飛ばして、あくまでいつもの下らないお喋りの延長の様に、姫様はリュカ少年に相変わらずの笑顔を向けました。
 けれどリュカ少年は、そんな姫様の顔を見ようとしません。俯き無表情のまま、ただただ口を噤んでいます。
 構わず姫様が自分の見聞きした面白い話を聞かせてみても、にこりともくすりとも笑いませんし、授業の進み具合や街で流行の遊びの事を尋ねてみても、うんともすんとも言いません。
 ただひたすら頑なに、俯き加減でだんまりを決め込んだままでありました。

 今までどんなにひどい目に遭わせても、――例えば彼がこの国に来て間もない頃、学校で彼の新しい友人と派手な殴り合いをして、暫くの間仲間からぎこちない態度を取られる事になった時にだって――、リュカ少年がリーヴ姫様にこの様な冷たい態度を見せた事はありませんでした。

 いつだって何処でだって、リュカ少年は自分の事を、大切な友達だと想ってくれているとリーヴ姫様は信じておいででした。

 それなのに、このリュカ少年の態度の豹変はなんなのでしょう!

 初めはどうしたら良いものかと途方に暮れたご様子でしたリーヴ姫様は、何をしても何を言っても少年の態度が軟化する気配の無い事に徐々に苛立ち始めました。
 気を紛らわせる為にお茶を飲むのにも厭きた頃、とうとう先に姫様の方が椅子を蹴倒して立ち上がりました。

「ああそうか、分かったよ。最後の日くらい楽しく過ごしたいと思って折角こんな風にもてなしたのに。もういい!さっさと帰れ!二度と私に会いに来るな!」
「……分かりました。僕もちょうど国に戻らなくてはいけなくて、暫くこちらにお邪魔出来なくなるところだったんです。もうこの国を発たれるその日まで、姫様を煩わせる事はありませんから、どうぞご安心下さい」
 リュカ少年は落ち着き払った顔でそう告げると、礼儀正しく部屋を出て行きました。
 リーヴ姫様はリュカ少年を見送りもせず、扉の閉まる音が部屋に響くまで、遠ざかる足音が聞き取れなくなってしまうまで、ずっと静かに背を向けておりました。

 自分の呼吸する音以外何も聞こえなくなった部屋の中、リーヴ姫様はとても小さなお声で、小さな心を吐き出しました。

「……なんだよ。国に帰るのがそんなに嬉しかったのかよ。そんな事を言いにここに来たのかよ。皆やっぱり、何より自分の国が良いんだな……」


 それから一週間、リュカ少年は本当にただの一度も屋敷に顔を見せる事はありませんでした。
 召使い達が婚礼の衣装や旅の準備などを進めている間、姫様は採寸や挨拶回りや全身のお手入れ等、嫁入り前の諸々の用事がある時以外は、自室に閉じ籠もって静かに時を過ごしておられました。
 ――ただ時折、思い出した様に何処からともなく派手な物音が致しまして、屋敷を出入りする小洒落た仕立て屋や宝石商に混じり、無骨な家具屋や左官屋がうろうろしている姿を見かけた事も御座いましたが…
 ……まあ……概ね何事もなく、順調に日々は過ぎていったので御座います。


 そしてとうとう使者の訪問を明日に控えた夜、すっかり女性として磨かれまた一層お美しくなられた姫様の御髪を梳きながら、女官長のラトナがそっと姫様に語り掛けました。
「姫様……。よろしいのですか?」
「……何が?」
「姫様は今までに一度も、ご自分の、姫様自身としての我儘を通された事はありませんでした。本当に……姫様はこのまま……」
「何を言っているんだ?ラトナ。いつもいつも私の我儘にほとほと困った様な顔をしていたじゃないか。私は充分にやりたい事をやらせて貰った。そんな事を言われる覚えはないよ」
 鏡越しににっこりと微笑む姫様に、ラトナは哀しそうな瞳を向けました。
「姫様は、うそつきでいらっしゃいますね」
 ラトナの表情の変化に気付かれた姫様が、くるりと振り返りラトナの顔を覗き込みました。
「うそつき?私が?」
「そうです。この私を謀れるとお思いですか?……最後の時くらい、ご自分に正直になられて下さい。姫様にはその自由が、自由になる事の出来る場所が、今はまだおありになるのですよ?」

 あまりにも真っ直ぐに、痛いほど静かな色を湛えたラトナの瞳に、姫様は一体何を見たのでしょうか。
 ラトナはそれ以上何も言わず、リーヴ姫様も最後までお言葉を返す事はありませんでした。

 ラトナが部屋を去ってから、姫様はそっと棚の奥底に隠しておいたぼろぼろの服を引っ張り出しました。
 それは姫様がリュカ少年から借りて、ぼろぼろにして返せなくなった彼の粗末な普段着で御座いました。
 少年にとってそれは、異国の地より持参した数少ない思い出の品であったかも知れません。
 ですがここまで台無しにしてしまうと流石の姫様もそのまま返すのは憚られ「必ず責任もって自分の手で直して返すから」と約束して預かったものの、結局今夜まで姫様の手元に置きっ放しになっていたので御座いました。

「……あいつ絶対忘れてるな。あの時既に”信用出来ない”って顔に書いてあったもんな」
 懐かしそうに思い出を手繰りながらくすくすと笑って、姫様はふっと、月明かりの射し込むあの窓を澄んだ瞳に映しながら呟きました。

「……王女様に、”正直”の自由は無いよ……」

 未だ少しばかり繕われ掛けのその服を、ぎゅうっと胸に抱きしめて、その日姫様は眠れぬ夜を過ごされました。


 一夜明けて、とうとう約束の日にも朝がやって来ました。
 王様が謁見の間で使者の到着を今か今かと待ちわびていると、召使いの男が一人なにやらばたばたと慌ただしく飛び込んで参ります。

「国王様!大変で御座います!」
「おお、来られたか!待ちくたびれたぞ!」
「いえ、あの、その、来られたのは来られたのですが……」
「なんだ、何をぐずぐずしておる。早く使者殿をお通しせぬか!無礼のない様に丁重にな!」
「いえ、ですからあの、来られたのはその使者様ではなくてですねあの」
「ええい何をしておる!!早く使者殿をお連れしろと言っておろうがこの馬鹿者があっ!!!」
「は、はいっ!!……あいえですからあの……」
「父様!失礼します!」

 すったもんだしている召使いとやきもきしている国王様の遣り取りを、あの凛とした張りのあるお声がぴしゃりと遮りました。
 本日めでたく遠い強大な力持つお国に嫁ぐ愛娘の声に、国王様がぱっと怒りの吹き飛んだお顔を上げられると、そこには街一番の仕立て屋に作らせた美しいドレスを纏い、国の自慢の稀少な宝石を髪飾りからつま先にまで身に付けた、あの完璧な麗しい自慢の姫君の姿が――――ありません。

 その代わりに王様の目に飛び込んできたのは、あんまりにもぼろぼろで思わず顔をしかめてしまう、庶民の服がさらにみすぼらしくなった様な繕い跡も目立ち過ぎの衣服に身を包み、寝不足ながらもきりりと眦を決したリーヴ姫様のお姿でした。

 あんぐりと口を開けて、金魚の様にぱくぱくと力なく開け閉めする国王様に、姫様は威風堂々つかつかと歩み寄ってきっぱりはっきりこう仰いました。

「父様。……いえ、父上。俺はあんな国になんか行きたくねえ。この国を守る為なら俺が何とかしてみせる。だから、頼む。俺をあんな国に送り出すのは止めてくれ」
「な……、な……!お前、一体いきなり何を言う!!なんだその服は!?なんだその言葉は!?今更そんな事を言って、お前は自分の我儘の為にこの国と民がどうなってもいいと――」
「あのなあ!女ったらしの腑抜けの王子の側室になんざなったって、こんな辺鄙な国の為に向こうさんがわざわざ動いてくれる訳ねえだろうが!!ちったあ冷静に頭使いやがれこの馬鹿親父!!」
「ば!ばかおや……」
「いいか、俺はこの国が好きだ。この国の人間が、土地が、全てが俺の宝物だ。みすみす駄目になんかしたくはないし、本当にこの国を救う為に役立つ事なら、嫁だろうが人身御供だろうがなんだってなってやるよ。でも今回の件は駄目だ。土下座してでも何ででも、無かった事にして貰う」

 あまりにも予想外の出来事に酸欠状態であわや失神寸前の国王様でしたが、そんな事には目もくれず、姫様は呆然と立ち竦んでいる召使いの青年に向かって言いました。
「おい、使者が来たんだろ?さっさと通してやれ。んで、俺が直接話して断る。俺の格好とこの態度を見れば、まあ向こうから話を白紙に戻してくれるだろ。……どうした?早くしろよ。縁談断るにしたって、相手を待たせたら失礼だろーが」
「ご心配には及びませんよ」

 唐突にこの部屋にいる誰とも異なる声が響いたのに驚いて振り向くと、いつの間にか部屋の入り口の扉の傍に、見慣れない衣装を身に纏った一人の青年が佇んでいました。
 裾が長く足首まで隠れるゆったりとした造りのローブに、刺繍の細かい色鮮やかな飾り布を額と腰に巻き、豊かな黒髪を優雅に背に開いた見目麗しい青年です。

 ……いえ、青年というには、少々背も低く、声もまだ若々しい様な気が致します。
 見知らぬ地の見知らぬ屋敷に、供の者も付けずやってきたそのお客人は、微塵の迷いもない足取りで国王様とリーヴ姫様の前に進み出ると、深く頭を垂れた後でにっこりと微笑みを浮かべました。
 はじめは怪訝な様子をしていた姫様の瞳が……おやおやおや?みるみるくるりと丸くなり、お父様と本当によく似た、なんだかちょっとお間抜けなお顔になりました。

「勝手に屋敷に上がりこみましたご無礼、どうぞお許し下さいませ。なかなか案内の方が姿を現さなかったものですから」
「お前……リュカ!!何で、どうして……」
「リーヴ姫様にはご機嫌麗しく……。その服、本当に直して頂けたんですね。もう忘れられたかと思っていました」
「あ、いやあ……これはちょっと昨夜指に針刺しながら……じゃなくて!国に帰ったんじゃ……それにお前、何その格好……」
「そのご質問にお答えする前に……国王様、どうぞ我が国の親書をお読み頂けますか?」

 少年は礼儀正しく気品漂う物腰で、何やら大事にしまっていた手紙を一通差し出しました。
 国王様と王女様はすっかり混乱してしまっておりましたので、取り合えず傍にいた召使いの青年がそれを受け取り、放心状態で聞いているのかどうか分からない国王様のお隣で、朗々と内容を読み上げました。

「えー……。我が国ディエムは、貴国との親密な国交を望んでおりー……あー……どーたらこーたらくどくどでー……つまるところ、貴国の第一王女リーヴ=ウェリネ=エルハ姫を、我が国の第一王子リュカ=フィル=ディエムの正妃として迎えたいと……。要は結婚の申し込みって事ですかね」
「はあっ!!?王子ぃ!?」
「そういう事です。急な話で誠に恐縮ですが……、我が国の誠意の証として、今回私、リュカ=フィル=ディエムが自ら使者としてここまで参りました」

 そう、今姫様の目の前にいるのはあのご学友であったリュカ少年ではなく、れっきとしたディエム国第一王位継承者のリュカ王子様という事なのです。
 にっこりとあの見慣れた穏やかな笑みを見せる隣国の第一王子に、姫様はしどろもどろになりながら、それでも何とか口を開きました。

「いや、だからその……お前が仮にディエム国の王子だとしたって、何でいきなりこんな大それた事……」
「……確かに現在の我が国は、規模も小さく歴史も浅い弱小国に過ぎません。貴国の様に歴史と文化のある一国と国交を望み、更には遠方の大国と縁談を進めていらっしゃる第一王女様へ求婚を申し込むという事は、御不興を買いこそすれ決して歓迎される事ではないだろうと理解しております。ですが……」
「ですが?」
「……我が国もやっと、貴国に胸を張れるものを手に入れる事が出来たものですから」

 リュカ=フィル=ディエム王子が語るところによりますと、ごく最近エルハ国で身に付けた技術でもって領土内の研究を進めていった結果、なんと以前はエルハ国で豊富に採れていたあの希少で高価な鉱物が、恐ろしく大量に眠っている事が分かったそうなのです。
 まあ、エルハ国とディエム国は土地も地続きのごくごく近いお隣さん同士。ディエムの領内で同じ種類の鉱物が取れても、何ら不自然ではありません。
 ですがやはり、ディエム国内にはこれらの鉱物の扱いに慣れた高度な技術者も、卓越した知識を豊富に持つ研究者もおりませんでした。いわゆる人材不足という奴です。
 このままでは眠っている折角の鉱物も文字通り宝の持ち腐れ。有効に活用する為には、お隣のエルハ国の協力はどうしても必要になって参ります。
 という訳で……。

「僕自身は、王族というしがらみに囚われる事を厭い、純粋に学問を修めたいという志から貴国への留学を望み、そして姫様のお陰で長期滞在の許可を得る事が出来ました。僕はこの国に、そして姫様に感謝しています。だから僕も、国の為に一身を捧げている姫様のお役に立てる事はないか、常々考えておりました。
……稀少鉱物の発見の知らせを浮けたのと同じ頃、姫様の下に縁談が来ている事を知り……僕はやっとその時、貴女の為に出来る事を見つけたんです」

 わざわざ衰退している国と国交を深めようという国はそう多くはありません。精々ふっかけて恩を売ってやろうかと思う国があるかどうかといった所です。

 リュカ王子はリーヴ姫と同じく、遠方の国に嫁ぐ事で何らかの支援を受けるという方法を得策だとは思いませんでした。
 結果は決して芳しくはない。国の為にそこまで自らを犠牲にする事は無い筈だ。
 そう引き止めようとして……リュカ王子はその言葉を口にする事は出来ませんでした。

 彼女の立場を、そして彼女の決意を、誰よりも間近に感じてしまっていたのですから。

 王女様らしくないこの破天荒な少女は、いずれは自ら国を治めねばならない立場にある自分よりも、国を思い、民を思い……大切なものを思いやって生きていました。
 何の躊躇いもなく自ら国の礎になろうとする姫様の姿は眩し過ぎる程で、リュカ少年は己の小ささ、身勝手さ、そして彼女を助けられない無力さを心から恥じておりました。

 喧嘩別れをしてしまった所為で、国を挙げての祭典にリーヴ姫様をご招待する事が出来なかったリュカ少年は、一時帰国の支度をしている際にふと、姫様を助ける方法を……今回の求婚の事を思いつかれました。

 自分だから出来る事。隣国の第一王子である自分だからこそ、あの人の為に出来る事がある。

 リュカ王子はすぐさま早馬でディエム国へ戻り、現国王と王妃様であるご両親を説得すると、正式な求婚の親書を手に、休む事無く野を越え山を越え大急ぎで馬を走らせたというのです。

 使者よりも早く屋敷に着く様に。もう一度ちゃんと、リーヴ姫様と仲直りをする為に。

「僕自身が国を治めるのは、随分先の事になるでしょう。国政に関してもまだまだ学ぶべき事がたくさんあります。僕には、そんな僕を傍で助けてくれる人が必要なんです。国の為に、民の為に、自分が出来る事を精一杯やりつくそうとする事が出来る人が。僕はそれが、貴女なんだと思いました」

 リュカ王子は真っ直ぐに、リーヴ姫様にそう語り掛けます。姫様はただ静かに、その言葉を聞いている様でした。

「国は小さいけれど、これからきっと大きくなります。僕は頼りないけれど、もっともっと強くなります。……そしてもっと、姫様に負けないぐらい、どんな事も必死で学んで、姫様の大切なものも、僕が一緒に守れる様に。
……我が国の、いえ、僕の申し出を、どうぞ受けて頂けますか?」


 その声は、驚きのあまり俯いたままの姫様へと、真っ直ぐに向けられておりました。

 控えていた青年が、部屋の外にへばりついた野次馬の使用人達が、固唾を呑んで姫様を見守っています。
 永く、重く、終わりの見えない沈黙が続き……

 痺れを切らして国王様が王子様を追い返そうと口を開いた途端、この部屋の中の誰よりも明るくて誰よりもよく通る、喜びに溢れた少女の声が部屋いっぱいに響き渡りました。


「お前……本当に最高のパートナーだな!!」


 この一週間誰も見る事が出来なかった、嘘偽りない心からの笑顔が、姫様のお顔で輝いていました。



 それから数日後、結局遠方の国へのお嫁入りは破談になり、リュカ王子が正式に技術学校を卒業するのを待って、お二人の結婚式をする事になりました。

 実際の所は、姫様との話し合いという名の口論の果てに国王様が何度も卒倒なさったとか、
 激昂するあまり離縁を言い出す国王様を、
「嫁ぎ先が変わるだけじゃない」
 と、王妃様がいかにも女性らしい現実的な意見であっさりあしらってしまったとか、
 ディエム国の王様や王妃様が、自分の息子よりも男らしいリーヴ姫様を見て血の気が引いた……どころか逆にほれ込んだらしいとか、
 ――まあ本当に色々な事があった様でありましたけれど、それから先は私には分かりかねるお国の事情という奴で御座います。はい。


 ああそうです。未だにこの窓からよく聞こえてくる会話を伺いますと、最近のリーヴ姫とリュカ王子の目下の争点は「挙式の際どちらがウェディングドレスを着るか」らしいですよ。

 あの後仲良さそうに抱き合っている二人を見かけた勤勉実直な庭師曰く、
「『みすぼらしい服を来た非凡な街の少年が、高貴な身分の麗しい女性とめでたく恋を成就させましたの図』にしか見えなかった」
 というくらいでしたし。
 屋敷の召使い達の中には、あまりに違和感なく女装をやってのけていたリュカ少年の隠れた信奉者が、実は結構いたとかいなかったりだとか。

 まだまだ先の話ではありますが、兎も角にも、御二人が幸せならどんなお式でもめでたく華々しいものになりましょうねぇ……。



 ……え?それで、結局お前は誰なんだって?

 私はただの、本当につまらない、しがない旅烏で御座いますよ。
 こうして色々な方々に、烏だから見る事が出来た世界を話して回るのが、私の何よりの楽しみなんです。


 ――さて、そろそろ私は失礼致します。
 またいつか何処かでお会い出来るその日まで、どうぞ皆様お元気で……。




翠雫様著 『誰かの為に出来る事』完




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