※7巻本編読了推奨


『消えない花』

 兵舎にはいくつかの広間がある。それは娯楽室だったり談話室だったりするのだが、どこも階級によって自然と分類され、内装ががらりと変わった。当然、階級が高ければ上等な壁紙が貼られて高価な調度品が並べられ、階級が下がるにしたがってだんだんとみすぼらしくなっていく。
 世の常だ。
 そして、ジェフ・ランサーが入れるのは下士官用に準備された五等級兵舎待機室までだった。
 上官に呼ばれればそれ以上の部屋に行くこともあるが――堅苦しいので、できれば行きたくないとさえ思っていた。
 襟元をくつろげることさえ気を遣わなければならない場所とは昔から相性が悪い。
 適度な埃っぽさが好みなのだ。
「おい、聞いたか? 第十七連隊から二人も重刑者が出たって話」
 待機室はわりと広い。雨の日などはここで訓練できるようになっているので天井も高い。床や壁にはテーブルは二十個、椅子は八十脚、すべて木製。その一脚に腰かけた男が、最高の手札を差し出すような顔つきで向かいに座った兵士に声をかけた。
「ああ、聞いた聞いた。四十一連隊は三人だと。まあ重刑者って言っても王都から追放されて謹慎ってだけだから、温情が見えるってもんだろ」
「確かに。けど、民を抑えきれなかったのは仕方ないことだしな」
 手元のカップを傾けながら兵士は深々とうなずいた。
 それを横目に、ジェフは部屋の隅に置かれた会報を一部手に持って、隣接した台所を覗き込んだ。
 台所の奥から物音がする。どうやら人がいてくれるらしい。
「果実酒を一杯」
「はいよー」
 声をかけると威勢のいい返答が聞こえてきた。
 堅苦しい王都の兵舎で唯一挙げられる利点、それが昼間の飲酒だ。勤めがなければ気軽に、しかも無料で酒が飲める。むろん、急な呼び出しに対応できなければ厳罰なので昼間からこんな所にいる兵士は少ないのだが、非番の兵士がときおりこうして酒を酌み交わすのだ。
 しかし、それにしたって今日は人が少ない。
 ジェフは果実酒を待ちながら部屋を見渡した。数えるまでもなく、彼を含めても客が三人しかいなかった。これでは開店休業状態だ。
「人の入りが悪いなあ」
「こっちは助かりますけどね。はい、お待ち」
「どーも」
 奥からのそのそとやってきた恰幅のいい料理人が苦笑しながら果実酒の入ったコップを差し出してきた。ジェフはカウンター越しに複雑な顔でそれを受け取った。
「あれからここってこんな感じなのか?」
 あえて主語を抜いたのは、自分の中でしこりのように引っかかっているためだろう。ミスティアである少女が王都へ連れ去られたこと、そのために引き起こされた未曾有の大事件。
 ジェフの問いに白衣の料理人は肩をすくめた。
「ええ、あれからこんな感じです。またいつなんどきなにがあるかわかりませんからね」
 つまり、再び起るかもしれない異変に備え、王都に詰めている精兵全体が殺気立っているというわけだ。どこにいってもピリピリした空気がついて回るのでさすがにわかってはいたが、改めて言葉にされると――居たたまれない。
「罪悪感……」
「え?」
「いや、なんでもない」
 ジェフはカップを軽く持ち上げて礼を言い、会報を手にしたまま移動した。そして、窓辺の一席に陣取って会報に目を通す。
 一面を飾るのは数日前に起った大事件の続報である。
 事件の詳細や処罰された士官や兵士の名前、その罪状と経歴――。
「……さすがに陛下を巻き込むとことがでかくなるな」
 王都で重なった偶然をすべて一直線に繋げた結果、彼は己が望む結末を手に入れた。敵を懐に招き入れ、そして見事解き放ったのだ。代価はこの会報に書かれることもなく散っていった者たちの命だろう。
 そう。こうして記されている者たちはまだいい。正しく処罰された人間なのだから。
 しかし、ここに書かれなかった者たちは誰に知られることもなく誅殺された。
 国を憂い、王と王の尊厳を守ろうと立ち上がった反逆者たち。この国を救うため武器を手にした崇高な兵士たち。
 彼らに比べたら、ジェフこそが罰せられる立場の人間だろう。
 こうしてのうのうとしていられるのは、彼の狡猾さと強運が招いた必然なのだ。
 喉に流し込んだ酒がやけに苦かった。
「……どこで間違えたのかな、俺は」
 後悔という類のものではない。
 たぶん、そんな半端な気持ちではない。
 坂を転がり落ちる小石のように深みにはまっていくのを感じながら、ジェフは苦く口元を歪めた。
 今までの彼は国に仕えることになんの疑問もなかった。
 父がそうであったように彼は一兵卒として軍に身を置き、信頼のおける上官とともにこの国の礎になるつもりでいた。否、礎でなくともいい。過去にかかわってきた誰かを、わずかでも守れればいいと思っていた。
 家族も、友人も、その中に当たり前のように入っていた。
 それなのに――。
「ジェフ・ランサー」
 ふいに名を呼ばれ、手元に影が落ちた。
 はっとして顔を上げると、窓辺にはカルアシャ兵となってからもっとも尊敬した男が立っていた。
 スティーヴン・リガル少佐。
 昇進にはまるで興味がなく、率直に物事を判断し行動に移すため周りから煙たがられる問題児。彼は部下の言葉に耳を傾け、次に佐官の言葉を聞く現場第一主義の叩き上げだ。しかも理詰めが大好きときている。敵に回すとたいへん面倒なタイプだ。
 だから、自然と表情が硬くなってしまった。
 むしろこわばったと言ったほうが正しいかもしれない。
「昼間から酒か」
「隊長もいかがですか? ここのはなかなかいけますよ」
「結構だ」
 あっさりと断わった隊長は、右手をテーブルにつき、身を乗り出すようにして顔を近づけてきた。
 上体がのけぞりそうになるのをぐっとこらえ、ジェフは隊長の視線を真っ向からとらえた。
 確実に、なにか疑っている顔だ。ジェフはそれを感じながらもあえて平時と変わらない表情を作った。
「俺がサインした書類はどうした?」
「え?」
「三枚、書類にサインしたはずだ。新兵の顔が見えないが」
 いきなり本題を振られ、危うくカップを取り落とすところだった。冷たい汗が背中を流れていく。ジェフは自分の顔から血の気がひいていくのを感じた。
 今回の一件で、彼には大きな秘密ができた。
 決して誰にも打ち明けてはならない、墓場まで持っていかねばならない秘密だ。
 王都がいまだ混乱し、もしかしたら言及されないかと期待もしたが、さすがに考えが甘かったらしい。
 三枚の書類にサインをもらうとき、ジェフは慎重を期した。失敗すればすべて無駄になるとわかっていたからだ。そして、恩人を――彼はそう思って疑わない――救うすべが完全に断たれてしまうと覚悟した。だから彼は早急に足場を固めるため、優秀な傭兵を見かけたと吹聴し、機を見て隊長に声をかけた。
 三枚だけサインをもらったのにも意味がある。
 歓楽街の傭兵は強者ぞろいだが、囲うほど優秀な人材が大勢見つかるなど考えられなかった。隊長を納得させられるギリギリの人数、それが書類の枚数だ。けれど、実は三枚申請するにも勇気がいったほどだった。
 部下の失態は上官の失態。
 どんなに関わりがないと訴えても真相が知られれば必ず隊長に迷惑がかかる。訓告程度ですめばいいが、銃殺刑でも不思議はない企てである。だからいつも以上に注意を払い、単独で行動した。
 あのときジェフはどちらも守りたかったのだ。
 傾倒する上官と、大切な恩人と。
 あきらめるわけにはいかなかった。
 だから、後悔はしない。
 だから、この嘘を貫き通すと決めた。
「新兵は逃げ出しました。根性があるように見えたんですけど、あの混乱でしょう。荷が重いと思ったみたいですよ」
 たとえ見え透いた嘘だと思われても。
「見込み違いだったみたいです」
 声は動揺に縮こまっていないだろうか。
 まっすぐ見つめ返してくる瞳に己の姿を認めながらジェフは平静を装い続ける。余裕の表情を浮かべ続ける己の顔と、無表情な隊長の顔――奇妙な静寂が二人のあいだに横たわる。まるで互いに次の出方を見ているかのようだ。
 ふいに息苦しさを覚えた。
 バカな芝居をうっている、そんな思いが胸に押し寄せる。
 吉慶の直前だったから王都の警備が厳重になっていた。そして、敵国に王都のいざこざが知られなかったから内乱が戦禍にまで発展せずにすんだ。
 最悪の事態がまぬがれたのは、ただ単に運がよかっただけなのかもしれない。
 引き金を引いたのは、間違いなく彼自身だ。
 その事実を隠そうと、彼は必死になっていた。
 だが、本当はすべて気づかれているのではないか。
 隊長は気づいているから、ジェフがしっぽを出すのを待っているのではないか。
 緊張で手に汗がにじむ。
 一言も言葉をかけてこない隊長に不安を覚え、なにか言わなければ、そう感じて口を開いた。
 次の瞬間。
「そういうことにしておくか」
 ぽつりと隊長がそうつぶやいて視線をはずした。
 そういうこと?
 どういうことだ?
 グルグルと、疑問符が頭の中で回る。
 怪しいと思われているのは間違いない。だからわざわざ隊長が下士官の待機室までやってきたのだろう。相手の不意を突いて動揺を誘うのは、隊長がごく自然にやってのけることだ。
 疑問があれば追求の手をゆるめない、それが隊長の性分であるはずだ。
 だから、見逃すなどありえない。
 それなのに――。
「国民を先導した男の顔を見たと言う警邏兵がいた」
 踵を返した隊長は、思い出したように言葉を継ぐ。
 先導の際、フードを目深にかぶっていたから顔は見えなかったはずだ。あの混乱で誰もが門に向かっていったのだから、先導者の姿などいちいち目で追うはずはない。しかし、あらゆる計画に“絶対”という言葉は存在しない。
 ぎくりと顔を上げると、隊長は視線をまっすぐ正面に固定したまま続けた。
「その警邏兵、なかなか根性がありそうだったから第三連隊に引き抜いておいた。逃した三人分、使い物になるようしっかり指導しろ」
 言葉だけを残し、隊長は足を踏み出す。規則正しい軍靴の響きが遠ざかっていくのを聞きながら、ジェフは全身から力が抜けていくのを覚えた。
「か……勘弁してくださいよ。俺、指導は苦手なんですから」
 ああ、巻き込んでしまった――そう気づいて項垂れて、小さく小さく訴える。
 隊長は部下の不逞に気づき、そして事前に手を打ってくれたのだ。目撃者を処分することもできただろうに、彼はあえてその道を選ばなかった。人知れず殺害される者たちがいる現状を考えれば、彼の行動は生ぬるいに違いない。
 部下の失態は、上官の失態。
 罰せられるのはジェフであり隊長なのだ。
 詳細を知っているならなおさら非情にならねばならないのに。
「甘いですよ、あなたは」
 その甘さに救われた男はつっぷして苦く笑みを零す。
 繋がった命がたどり着く先、それは――。

 目を閉じると、野に咲く紫の花が眼裏まなうら一面に広がった。
=了=