『世界の果て』

 ルカマンド中部の主要都市シューレは、カルアシャ海軍第三連隊が駐屯する比較的静かな町だった。
 カルアシャでも南に位置しているため温暖で気候がよく、作物もわりあいによく育つ。ティネーゼ運河から近いため戦禍をこうむることもあるが、それも第三連隊の本部があるためここ数年は甚大な被害が出たことはない。
 北へ行けば、冷害のために作物は育たず家畜はやせ衰え、水さえまともに確保できない土地になるのだ。仕事を見つけることもできず配給も受けられない人々は、地中に住む虫や木の根を食料にして命を繋いでいかねばならない。
 それでも飢えれば、旅人を襲う。
 カルアシャは北に行けば行くほど治安が悪くなるのだ。
 ほんの一部の裕福層だけがそうした土地に根を下ろし、貧困にあえぐ民をさらに追い詰めて私服を肥やす。
 軍事工場は、北部に多い。
 移動手段を持たない民たちの目の前に食べ物をちらつかせ、そうして集めた労働力をただ同然で酷使するのである。
 ナガール大陸はティネーゼ運河で分断されているが、カルアシャは荒廃した土地によってさらに南北で分断されていた。
 荒野は見えない壁となって広がり、旅慣れた隊商ですら南北の移動で命を落とすことも少なくない。
 南は北に比べれば楽園だが、渡れる者はごく限られてくる。海を渡ればまだ生存率は高いが、カルアシャ近海は荒れやすく、沈む船も多かった。
 そして、無事に渡ってきた者は、次に徴兵令によって戦争という名の人災で死んでいく。
 まったくもって理不尽な世界だった。
 ジェフ・ランサーも十五で徴兵令を受けて従事する兵士の一人だ。
 休暇はあるが退役はない。
 一度兵士となれば、死ぬか、戦えない体にならない限りはその肩書きがはずれることはなかった。
「まさかお前が先に逝くなんて……」
 整備された大通りをぶらぶらと歩きながら、ジェフはからっぽの両手へ視線を落とした。
 町の喧騒がやけに耳についた。
 ここから十日も馬車を走らせれば紛争地帯になるとは思えない活気づく町に、しかし、ジェフはうまくなじめず目を伏せた。
「兄さん、いいクスリがあるよ」
 ふいにかけられる声に顔を上げると、そこには年老いた商人が一人、黄色い歯を見せて笑っていた。
 この男もカルアシャでは「兵士」だ。
 今は一線を退いているが、招集がかかれば武器を持ち前戦に立たされる。道々で物売りをする女は軍施設と化した町工場で働く合間に商いを行っているのだろう。
 ――ある種、恵まれた環境なのだ。
「悪いな。クスリは当分遠慮しとくよ」
 ジェフが答えると、老人はカゴをかつぎ直してさっさと遠ざかっていった。
 見渡す町はほこりっぽいが活気に満ちている。
 ジェフはそこから視線をはずし、たった今通ってきた道を振り仰いだ。
 大通りとは対照的に暗く沈んだ裏通り――どんな町にも必ず存在する、それは土地の荒廃を意味するもの。
 ジェフは溜息を落とし、ゆるりと人込みに向かって歩き出した。


「遅いぞ、ジェフ。二時には戻るように言ったはずだが?」
 手書きで『隊長室』と書かれた紙が無造作に貼られたドアを開けると、隊長ことスティーヴン・リガルが渋い顔で口を開いた。
「すみません、隊長。久々に町歩いたんで懐かしくなりました」
「……始末書は書いたか?」
「これからです」
 存外に広い室内には簡素な机と椅子が置かれただけである。それに腰かけて書類を眺めていた隊長はちらりとジェフを見た。
「お前、あれが偽造だって気づいたんじゃないのか?」
「なんの話です?」
「とぼけるな。ゲイリー・デネットの召集令状だ。軍部じゃえらい騒ぎだぞ。よりによってイジェット大佐の名前を出してたそうじゃないか」
「――イジェット大佐の名前でなければ、あんな無茶な召集令状は出せませんよ」
「……気づいてたのか?」
「さあ?」
 ジェフは親愛なる上司に肩をすくめて見せた。
 書状は一見すれば本物であった。
 使われたインクも紙も、軍で入手が困難な特殊なもの。さらに直筆のサインと軍が発行したことを証明する印まで押された念の入りようで、見慣れない者なら直視することすら躊躇う書状だった。
 けれどジェフは、その書類の真偽には疑問を抱いた。
 それは単純に、指揮を一兵卒に任せるという内容であったからだった。
 指揮官を調べ、疑問はさらにつのった。
 そして指示された船が試験的に作られたものであると知って、疑問は疑惑に変化した。
 今回の一件に首を突っ込んだのは、関わったのがゲイリー・デネットであったから。その男の背後には、軍部でも危険視される人物が控えており、その人物は少なからず隊長を煙たがっていたのだ。
 だがそれを言えば、隊長が激高するのは見えている。
 彼は部下を消耗品として扱わず、一人の人間として尊重してくれる男だ。
 自らの判断で首を突っ込んだ今回の一件に、よけいな気を遣わせたくはない。
「隊長は知らないことにしといてください。今回の一件は関わった人間が多すぎる。軍部も訓告程度ですむと思いますから」
「……部下がいいように使われ、その一人は死んだんだ。黙っていろと?」
「被害は最小限です」
「その被害の中に俺の部下でもあるお前の親友が入っていたんだろう」
 まっすぐな問いに、迂闊にも体が反応してしまった。
 動揺をありありと示すように肩が大きく震える。
 助けたかった男――だが、どうすることもできなかった。敵の攻撃を受けた瞬間から彼の運命は決まってしまった。助けるために差し伸べた手で、結局は違う運命を手渡した。
「俺が斬られてりゃよかったんですがね」
「ジェフ」
「……メイサ、まだ一歳なんですよ。父親の顔を知らずに育つのかと思うと悔やんでも悔やみきれない。投獄された時、いっそ身ぐるみ剥いでくれれば、俺が手を下すこともなかったのに」
 しかしそれは苦痛を長引かせることを意味する。
 何度も投薬され痛みを散らしても、それはその場限りの処置でしかない。
 親友の穏やかな瞳が網膜にこびりつき、苦いものが口腔に広がった。
「ジェフ、お前のせいじゃない。乗り合わせた解剖医の話では、処置は完璧だったらしい。海上であれだけの手術がほどこされたら、もうあとは本人次第――神に祈るしかない」
「……看病も、熱心にしてくれたんです」
 ぽつりとジェフは零した。
 敵である兵に対し、看病に走り回り懸命に言葉をかけ続けた少女――世界を混沌に導いた愚者の血を受け継いだ娘は、献身的ともいえる介護で接してくれた。
 感謝の言葉は伝えなかった。
 敵であるから、国賊であるから、表面を取りつくろっても反感のほうが強かったから。
 それでも、彼女の看護で友がどれほど救われたかを思うと胸が熱くなった。
 友は考える時間を与えられた。
 意識がある時は妻と娘への思いをジェフに語った。
 彼はついさっき、その言葉を伝えに行ったばかりだった。
「参りますよねぇ。敵なんだから」
「……なんだ?」
「いえ。……本当に、俺まで感化されちゃうんだから」
 訓練生が近づかなくなった一角に、少女は時間の許す限り通った。無理をして笑みを作るのが痛々しいと思ったことさえある。
 あの細い体で彼女は船ばかりか敵さえ支えようと奮起していたのだ。
 それに気づいた瞬間、躊躇いが生まれた。
 それはかつてない衝動――けれどジェフは、一時期の感情で流されるほど幼くはなかった。
 己の立場をよく理解し、ゆえに命じられた通りに行動に移した。
 だが、それでも胸の奥で何かが引っかかる。
「これじゃあ特務の子のこと、笑えないなぁ」
「特務……? お前、さっきから何を言ってるんだ?」
「あー。……いえ、独り言?」
 カルアシャに戻り、特務で「死んだ」少年のことを調べた。そして過酷な生活から少年兵に加わり重大な任務を与えられたことを書面で知った。
 カルマン家への反感が強かったはずの少年は、けれどあの船をとても大切にしていることが見て取れた。
 そしてジェフにもその気持ちがおぼろげながら理解できた。
 参ったなぁ、ともう一度零す。
 かつて世界の中心であった者――その血を継ぐ少女の姿が心の片隅に息づいていた。
=了=