『未来を謳う騎士』

 長年鍛えられ、すっかり硬くなってしまった指先で弓の弦を弾く。
 次に腕を持ち上げた。ゆったりとした動作で弦を引きしぼり、強度を確認する。しなやかに弧を描く弓と弦の弾力――どれも申し分ない。
『よし。あとは矢だな。鳥でもしとめてくるか』
 矢は羽根をつけることで飛行が安定する。ヌガンダ族の男は皆、己の武器は己の手で作る。けして他人に任せたりしないのだ。
『落ちた羽根じゃだめなの?』
『夕食のついでだ』
 聞こえてきたどこか舌っ足らずの声にケサルはそう答えた。顔を見なくてもすぐわかる、それはスハナの声である。
 好奇心旺盛な少女は、よくこうしてケサルに話しかけてきた。
『言っておくが、連れて行かないぞ』
『ちぇーっ』
『アオバに布の織り方でも習え。お前、もうすぐ十歳だろう。そろそろそういうことも……』
 アオバはスハナの姉だ。面倒見のいい彼女は機織りも得意で器量もいい。容姿はよく似ているのにスハナとはまるで性質が違い、最近では結婚を申し込む男が増えているという話だった。
 ケサルはなんとなくアオバを脳裏に描きながらスハナを見、そしてものの見事に硬直した。
 ヌガンダ一族は戦士の部族だ。男児は歩き始めたらすぐに刃を潰した剣を手渡され、三歳になると一番最初の入れ墨が入れられる。そして五歳、七歳、九歳、十歳と順に入れ墨を増やしていく。入れ墨の形は一定ではなく個々に差があり、けれどもそれはすべて共通の意味を持つ――すなわち、戦士の証。一族のために闘う者を示すものだ。
 これは男児にのみ認められる。
『ス、スハナ、それは……!!』
 ケサルの声が裏返る。
 スハナは自慢げに腕を持ち上げ、ケサルに華奢な肩を見せた。肩には薬剤に浸して半透明になった葉が貼り付けてあり、皮膚が透けて見える。赤く染まった皮膚の中央には、黒々とした墨が入っていた。
『ガディッサに彫ってもらった!』
『入れ墨は戦士が彫るものだぞ!』
『うん! スハナも戦士になる!!』
 満面の笑みでスハナがうなずく。キラキラ輝く瞳にはなんの迷いもなく、だからこそケサルの動揺をいっそう強くした。
『い、入れ墨は男が彫るものだ』
『そんなのいつ決まったの!? スハナ知らない!』
『……い、いつって……む、昔から』
 言いながら、ケサルは額を押さえた。戦士に性別は限定されていなかったのだ。男が闘い、女が家を守る――ずっと昔から続いていた慣習からそれが当たり前だと思い、スハナのような者が出てくるなど微塵も考えなかった。外敵に備えて剣を帯びる女はいても、戦士になりたいという者は、いなかったのだ。
 しかし、肩をいからせる少女は違う。
『スハナは戦士になるんだ! エダみたいな戦士に!』
 ふいに聞こえた名にケサルは目を見張った。
 エダ――先日、この島に訪れた訓練生の頭領であった少女だ。たいして強そうでも頭が切れそうなわけでもない、ごく普通の娘。それがなにを間違えたら戦士になるのか。
『スハナ、エダは戦士じゃないぞ』
『戦士だよ! 闘ってた!!』
『いつ――……ああ、あの時か』
 ヤムがライハルトと呼ばれる男を襲ったあの時、エダはごく近くにいてその戦いに巻き込まれたのだ。女一人を守りながらヤムの剣を受け続けたライハルトの豪腕にも舌を巻いたが、守られるばかりだったエダがほんのわずかな隙を見逃さずに反撃に転じた見事さは、誰もが息を呑んだほどだった。
 戦いに秀でた女ではない。
 だが、好機を見逃さないその勘のよさは、なによりも確かな武器になるだろう。
 あの一瞬、戦いの女神が舞い降りたのかと思った。
 驚きに動きを止め出遅れたケサルは、第三者――赤毛の男の登場でようやく我に返って彼らのもとへ駆け寄ったのだ。
 ヤムを退け改めて見たエダはやはりどこかおっとりとした雰囲気で、戦いの女神でもなんでもない、ごく普通の娘のようだった。
『スハナも戦士になる! だから入れ墨を入れてもらったの!!』
『アオバが卒倒するぞ』
『もう倒れたよ』
『……そうか。それは気の毒に』
 ケサルは肩を落とした。
 スハナの両親はきっと猛反対するだろう。けれど一度言い出したらきかず、しつこく食い下がってくるのがスハナだ。危険だろうと危険じゃなかろうと関係ない。昔から、これと思ったら譲らない、そういう厄介な性格なのだ。
 そこまで考え、ケサルは首をかしげた。
『お前、どうしてそんなにエダにこだわるんだ?』
『どうしてって、……キラキラしててきれいだったから』
 ケサルはスハナの言葉に首をひねった。一瞬、装飾品のことを言っているのかと思ったが、エダはささやかな宝飾品などものともしない品を身につけていることを思い出し、改めてスハナに問いかけてみる。
『それは、髪の毛のことか?』
 拳を握り、スハナは大きくうなずいた。
『うん。お日様の光を編み込んだ髪、きれい。目の色も、肌の色も、きれい。服もきれい! スハナ、エダとお友達になりたかったの!』
 実に子どもらしい、単純明快な答えだった。ぱあっと目を輝かせてスハナが訴え、すぐに不機嫌な顔になる。
『それなのにケサルは、ひどい』
『大陸人は昔、お前の両親やそのまた両親に酷い事をしたんだぞ』
『エダがやったの?』
『……それは、……違うが』
『だったら関係ないもん。エダや、他の大陸人はみんな優しかったよ。柵を直して逃げたイーガルを捕まえてくれたんだから』
 怒ったように唇を尖らせて訴える少女を見おろし、ケサルはとても複雑な心境だった。
 大陸人はずっと敵だと教えられてきた。関われば不幸になる、だからできるだけ関わらないように、問題が起こったらすみやかに“処理”するように徹底されていた。
 それは二十年前から今日まで続いている。
 世界が変わるように自分たちも変わっていかなければならないと思っていても反発が大きく、一族を説得して導く自信のないケサルはどうしても二の足を踏んでしまう。
 しかし、スハナはそんなケサルにはお構いなしだ。
『みんな優しかったよ。どうして喧嘩するの? 悪い奴は別にいるんでしょ?』
『……スハナは、エダと友だちになりたかったのか』
 ぽつりと口にすると、スハナは首をふった。
『もう友だちだよ』
 胸を張って自信満々に言い放つ少女を見て苦笑を漏らしたケサルは、慌てて咳払いして表情を改めた。
『友だちなのはわかったから、腕の入れ墨は取れ。葉をめくって乾かせばかさぶたになるから、今ならさほど痕も残らず――』
『嫌!』
『スハナ』
『スハナだって戦える! 戦士になるって言ってるじゃないか! ケサルの石頭!』
『大陸人は優しいんだろう。闘う必要がないなら、お前が戦士になる必要なんて――』
『間違いを、間違いだって言える人が必要なんだよ』
 スッパリと、意外な言葉が聞こえてきた。
『みんなのそばにいて、それを判断できる人間。スハナはそれになる。足手まといにはならない。そのために、強くなる』
 腕の入れ墨を示し、明言する。
 スハナは月の夜に、ヤムに剣を向けられた。彼女を庇ったのは敵であったはずの女――エダだった。あの時は泣くことしかできなかった少女は、明確な意志をもって目の前に立っていた。
 小さな波紋がゆるりと広がっていくような感覚に、ケサルは身じろぐ。
『誰に反対されても、これだけは譲らない』
 言い切る強い瞳にケサルは溜息をついた。
『危険だとわかってるのか?』
『うん』
『それでも、闘うのか』
『うん』
 迷いのない言葉に苦笑が漏れた。
 偶然訪れたに過ぎない一隻の船――けれどどうやら、心を揺さぶられたのは自分一人ではなかったらしい。
 さとすのをあきらめて森を見るとスハナがケサルの腕をひっぱった。
『ねえ、大陸の言葉を教えてよ』
『大陸の……?』
 それは本当に意外な、生きてきた中ではじめて耳にする言葉だった。
 ケサルは目を瞬かせて見上げてくるスハナを見つめる。
『今度エダに会ったら、ちゃんと話すの。自分の言葉で』
 未来を見据えるその瞳には、笑顔を浮かべる自分の姿が映っていた。
 世界が動き出す――不思議な予感に胸が騒いだ。
=了=