『ブラッディ・ムーン』
ミセス・ロライトは今年で六十歳になる。
人前では無駄一つない動きと厳しい表情を崩さないため、実年齢を言い当てる者は皆無と言っていいだろう。
豊かな黒髪と漆黒の瞳を持つ彼女はいつもどおりの不機嫌顔で部屋に入り、手にした皮製のいかめしい眼帯を指示棒とともにテーブルの上に置いた。そして、軍服の襟元を乱暴に緩めて革張りの椅子に無造作に腰かける。
「調子はいかがですか?」
にこやかに声をかけたのは彼女の側近、ラシェル・ヴィズナーだ。今年で二十九歳、指揮系統の統括を得意とし、海洋学に明るく射撃の腕は一流、おまけに人目を惹いてしかるべき整った容姿をしている。彼は優秀な成績でルティアナ号を卒業し、有望株とささやかれながら軍でもっとも疎んじられる女、ミセス・ロライトの下で働くことを希望した。
「あまりよくないわね。海風のせいですぐに錆びる」
溜息をつく彼女に彼は苦笑をする。
「ルティアナ号を降りたあと、海軍本部にも行かれたんですね。……義眼の調子は? おかしかったら自分で調整するよう頼んだはずですが。だから僕も同行するって言ったのに」
「自分のことは自分でします」
「できてないじゃないですか」
失礼、と声をかけ、ラシェルは上司の頬を両手でそっと包み込んで瞳を覗き込む。丁寧に状態を確認して溜息をつき「あとで船医を呼びますから」と言葉を続けた。彼はそのまま彼女の足下にひざまずき、右足に触れる。膝に手のひらをあて、布越しにゆっくり愛撫するように指先を滑らせて足首を掴み、革靴に手をかけた。
そしてもう一度溜息をつく。
「靴底の減り方がおかしいですね。こんな歩き方じゃ足に負担がかかる」
「技師は呼ばなくていいわよ」
「……調整しないと、また歩けなくなりますよ」
「嫌いなのよ、あの男は」
「少しは辛抱してください。まあこの程度なら僕でも修理できると思いますけど」
「あら、腕を上げたのね」
「あなたに嫌われないように必死ですよ、こっちは」
苦笑を漏らし、ラシェルは肩をすくめてみせる。楽しげに笑うミセス・ロライトは、テーブルに肘をつけ、しなだれるように体を伏せた。こういう仕草をすると、彼女はとても艶美になる。いまだ第一線で指揮を執ることさえ日常の、氷の微笑が板についた女性とは思えない仕草だった。
ふいにドアがノックされ、返事を待たずに開いた。
「ミセス・ロライト! ヘンドリック少将から火急の通達が――し、失礼しました!!」
勢いよく開いたドアは、閉まるときも勢いがいい。
黙し、しばらくドアを眺めていた二人はほぼ同時に溜息をついた。ミセス・ロライトのそれはなにかを面白がるような、ラシェルは体から空気をすべて吐き出すようなものだった。
「誤解されたかしら」
「もーどーでもいーです」
「……恋人はどうしたの、ラシェル」
「海兵の恋人は空気と同じというメッセージとともに、先日、めでたく結婚しました報告が」
「それは大変ね」
「上司といい関係だとかいう噂が聞こえちゃったみたいで」
「バロッサ大佐?」
「いえ、やめてください。僕にはそんな趣味はありませんから、せめて異性に。っていうか、この場合、あなたは対象に入らないんですか」
「こんな乳臭いガキなんて冗談じゃないわ」
「はいはい、すみませんねガキ臭くて。来年大台に乗るんですけどこれでも」
伸びてきた細い指がラシェルの髪を優しく撫でた。
「それはおめでとう。大輪の薔薇を贈ってあげるわね」
笑うその声は空気に混じる。ゆったりと楽しげに語っていた唇は、やがて小さな寝息を運んできた。
彼は目を瞬いて彼女の顔を覗き込み、それから静かに苦笑する。
「僕の前くらい、弱味を見せてくれてもいいのに」
寝顔には
立ち上がると眠る彼女をそっと抱き上げ寝室へ運ぶ。上着のボタンをはずし、起こさないように慎重に脱がせてベッドへ寝かせつけ、顔にかかった髪を払いのけた。
信頼しきった寝顔だ。それは、十年
ラシェルは微笑む。
彼女以外に興味はない。敵艦隊を目の前にしても臆せず微笑む女―― 一目その姿を見た時から、生きる場所も死ぬ場所も決まってしまった。
この人以外、どうなろうと興味はない。たとえ自分の命であろうとも、さしたる意味など持たなくなった。
「おやすみなさい、ミセス・ロライト」
渇望しても、決して手に入らない女。彼女の瞳はこの世界を見つめながら、この世界以外のものを求め続けている。視界にラシェルが入っても、鏡に映った程度の価値しかないのだ。
だからこそ胸が焼けるほどに焦がれる。
それは、狂気と紙一重の執着。