『追憶の歌 未来の声』

 モップで床を力強くこする。
 空は見事に晴れ渡り、海は穏やか、ときおり海鳥の声が聞こえる絶好の掃除日和だ。
 無意識に鼻歌を歌い軽快に床を磨いていると、そんなワグナーを見てクスクスと笑いながら訓練生たちがすれ違っていった。
「のどかだなぁ」
 授業と急用がないとき、ワグナーはこうして掃除をしている。訓練生たちも一日一回掃除をして本来なら彼自身がそれを行う必要はないのだが、どうも昔の癖が抜けなくて、手があくと掃除道具を握ってしまうのだ。とくに甲板は彼がもっとも好む場所――風を感じ、光を感じ、ゆったり心を開くことができる場所だった。自然、歌も流れ出る。
 口ずさむそれは、彼が好きだった歌とは少し違う。
 遠い昔、彼とともに船に乗った心優しき少女が歌っていたものだ。メロディはわかっていても正確な歌詞や題名などはわからない、そんな一曲だった。
 それでも心地よい風を感じると歌わずにはいられない。
「聞こえてるかな」
 届けばいい。そして願わくば、ともに歌ってくれるといい。
 みなで声を合わせた愛しき歌を。
 海風を胸いっぱいに吸い込んで、彼はふたたびモップを動かす。その唇から漏れるのは、やはりなんの代わり映えもないいつもと同じメロディだった。
 けれど、ふいに、単調な音に別のものが交じった。
 優しく軽やかな歌声にワグナーは驚いて顔を上げる。ざっと甲板を渡った風がそこに立つ少女の髪をもてあそび、その顔を隠し――。
「フランシェスカ」
 呼びかけた直後、風がやんだ。
「す、すごい風……っ」
 歌は途切れ、代わりに少女の声が聞こえた。光をいっぱい含んだ髪は黄金にきらめき、そのあまりの見事さにワグナーはしばし絶句してしまった。
「ミスター・ワグナー。どうかしたんですか?」
 髪を整えて尋ねてきたのはエダだった。ああ、“彼女”の髪も見事な金髪だったな、とワグナーは胸中でささやく。きれいで優しくて歌うことが大好きで、いつも笑顔を絶やさず、そして片時も真鍮の杖を離さなかった。
「今の歌を知ってるのか?」
「ここに来て覚えました」
「……俺から?」
「あなたがずっと歌ってらっしゃるから」
 ちょっとだけ頬を染め、エダが言う。どうやら過去に自分がそうしたように、エダもこの歌を覚えてしまったようだった。
 思わず苦笑するとエダは怪訝な顔をする。
「ミスター?」
 これから先、彼女には多くの出会いと別れが待っているだろう。その中で同じ未来を夢に描き言葉を交わすことのできる者たちこそが、彼女を支え進むべき道を示してくれる。
「……エダ、仲間を信じろ。彼らはいつでもお前の味方だ」
 告げるとエダはきょとんとし、すぐにうなずいた。まだ人を疑うことを知らない者のように素直で迷いのない反応だ。ワグナーは手を伸ばし、エダの頭を撫でる。
 すぐに彼女の表情が険しくなった。
「子ども扱いはやめてください」
 そう言って、するりと逃げてしまう。
「俺にとっちゃあ、訓練生はみんな子どもみたいなもんだけどなあ」
「子どもじゃありません」
 ぷうっと頬を膨らませるのは果たして無自覚なのか――ワグナーは肩をすくめ、風に誘われるように青く澄んだ海を見渡した。
 どれほど時間が過ぎようとも、海の色は変わらない。そこに広がるのは仲間たちと駆けた果て無き大海原。夢と未来を託した航路だ。
 ふと息をついたワグナーは、見よう見まねでモップを構えたエダに気づく。どうやら掃除を手伝ってくれるつもりらしい。
 非常にぎこちなく床を磨きはじめたエダに苦笑して、彼もモップを握りなおした。

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