『ある日のふたり』


 華鬼はじっとカレンダーを凝視して思案げに口元を引き結んだ。
 それはここ一ヶ月、毎日繰り返していたせいですっかり身についてしまった仕草のひとつである。眉間にシワをよせたまま立ち上がった彼は、カレンダーに近寄り無言で一枚破りとって、でかでかと書かれた「九月」の文字に渋い顔になる。
 テーブルの上に置かれた経済新聞の日付は九月一日だった。華鬼は新聞を手に取り、片隅に書かれた数字の羅列を確認してから無意識にそれを開いた。
 九月一日は神無の誕生日であり、彼女が鬼ヶ里へやってきた日でもある。当然のことながら、華鬼にとっては大切な記念日にあたる。誕生日ならなにかプレゼントを用意すべきだろう。記念日でもあるのだから、それ相応、企画したほうがいいに決まっている。
 しかし、過去にただの一度もそうしたことを計画した記憶のない男は、一ヶ月間、ただひたすら考えあぐねていた。
 だいたいが、わからないのだ。神無がなにを欲しがっているのかが。何をすれば喜ぶのか――これも、実のところよくわかっていない。
 彼女は本当に些細なことで嬉しそうに笑う。その笑顔になんとなく納得してしまっていたので、こうしてあらためて何かをしようとしても、すぐに思い浮かばないのだ。毎日そばにいるのだから彼女の欲しがるものくらいそのうち自然に出てくるだろうと思っていたが、この考え自体があまりに甘かった。
 そもそも神無は、物欲が薄い。
 過去の生活基盤を考えればおのずと見えてくる答えであったのだが、こういう場合はそれとなく聞き出して用意するのがいいのだと思い込んでいた華鬼は、神無の誕生日である本日まで、何ひとつ買えずにいた。
 経済新聞を逆さまにして広げ、紙面のすみのシワを凝視して考え込んでいた華鬼は、リビングのドアが開いたことにも気づかずに眉根を寄せ続ける。
 今ごろ本人に訊くのはあまりに間抜けではないか。
 しかし、このまま何もしないのは、さすがにどうかと思う。神無の性格なら気にしないだろうが――この場合は気にして欲しいのだが――それではさすがに華鬼自身が納得いかない。
 素直に本人に訊こう、そう思って新聞をたたむと、その向こうに小首を傾げた神無の姿があり、華鬼は盛大にのけぞった。
「新聞、読める?」
 対面したソファーに腰かけた彼女は、華鬼の手元を興味深そうな目で見つめている。新聞が逆さまであることにも気づかないほど考え込んでいた華鬼は、彼女の質問を怪訝に思いながらも頷いた。そのまま新聞をテーブルに戻し、無意識に居住まいをただした華鬼は、
「……神無、今日は……」
 誕生日だな、という前ふりをしようとして口をつぐんだ。やはり間抜けなような気がしてきたのだ。せめてもうちょっと気の利いた言葉はないのか、そう考えあぐねていると、大人しく続きを待っているらしい神無と目があった。
「華鬼?」
 不思議そうに見つめ返してくる瞳に必死で言葉を探すものの、急に名言が出てくるわけがない。ひとまずこのまま黙り込んでいるわけにもいかず、華鬼は神無に手招きしてみせる。彼女の定位である自分の隣、ソファーの空いている場所を軽くたたくと、彼女はすぐに立ちあがって近づいてきた。
 次にどうしようか考えながら神無の動きを目で追っていた華鬼は、室内に鳴り響くコール音に顔を上げる。
「電話」
 近づいてきた神無は、音に反応してさっさと踵を返してしまった。電話に負けたのかと妙な具合に一人で勝手にうちひしがれる華鬼には気づかず、神無は迷いなく電話に向かう。そして細い指で受話器を取り上げ、慎重に耳に押しあてた。
 項垂れた華鬼は、聞こえてきた神無の声に顔を上げた。いつもより少し明るいトーンの声、繰り返される単語、語られる内容、驚きに見開かれる瞳――ああ、無事に届いたのか、そう思うと知らずに笑みがこぼれた。カードを添えればよかったのだが、適した言葉が思い浮かばずにそれを断念してしまったのが悔やまれた。
 心地よい声に耳を傾けていると別れのあいさつとともにそれが途切れ、受話器をおいて振り返った神無が足早に戻ってきた。
「華鬼、お母さんから。お花、ありがとうって」
「ああ」
「でも、どうして……?」
 神無にとっては意外なタイミングだったのだろう。華鬼の隣に腰かけた彼女は素直にそう質問してきた。
「――今日はお前の誕生日だから」
 まだうまく言葉にできないが、それでも感謝の気持ちを伝えたいと思ってあらかじめ頼んでおいたのだ。無事に届き、そして喜んでくれたのが神無の表情からもわかった。花屋の前をウロウロと彷徨って、花屋の女店員を骨抜きにし、男店員に煙たがられたのは二ヶ月も前の話だった。
 母親にプレゼントするなら花だろう、そうイメージしていた華鬼は、花の種類こそ迷いはしたがそれでもちゃんと手配までこぎつけた。
 しかし、相手が神無となると話が違う。できれば残るものを渡したくて、けれどふさわしいものが思いつかず、ここ一ヶ月――むしろ、それ以前から、ずっと悩んでいた。
 そして今も、悩んでいる最中だった。
「お前は何が欲しい?」
 まっすぐ問いかけると、ぱっと彼女は頬を染めた。欲しいものがあったらしい。確かな手応えに息を呑むと、あの、と彼女は一瞬口ごもってうつむいてしまった。
「なにがいい?」
 重ねて尋ねると、神無がおずおずと顔をあげる。上目遣いで見てくるのは、きっとわざとではないのだろう。本当に心底戸惑っているに違いない――が、可愛らしい仕草を前に抱きしめたい衝動に駆られた華鬼は、とにかく回答だけは得なければと奇妙な位置で手を止めて神無の言葉を待った。
「あの、膝枕を……!」
「……ひざ、まくら……?」
 間の抜けたことに、おかしな格好で停止したまま、華鬼は神無の言葉を繰り返していた。膝枕とはあれのことか、とグルグルと頭の中で映像が回る。膝の上に頭を乗っける、あのいたってシンプルな姿勢のことか。これといってひねりのない、限りなく平穏な姿のことか。この場合、したいというのではなく、してもらいたいという意味合いなのだろうが、だがしかし――。
 華鬼は自分の膝を見てもごもごと口を動かした。
「膝枕、か」
「うん」
 神無は勢いよく頷いている。よりによって、形が残る以前のものを請求されてしまった華鬼は、唖然として自分の膝を凝視し続けた。どうやらその動きを了解と判断したらしい神無が、いそいそとソファーに寝っ転がり華鬼の膝に頭を乗っけて笑顔を見せた。
 ――満足してしまったらしい。
「……よ、よかったな……?」
「うん」
 やはり奇妙な場所で両手を止めたまま、華鬼は神無を見おろす。それからふっと息を吐き出して肩の力を抜き、まっすぐで艶やかな髪に触れた。指通りのいい髪を優しく梳いて、瞳を細めると、それはいつの間にか笑顔に変わっていた。
 誕生日は記念の日。
 一年に一度、特別な日。
 けれど二人にとっては、これから長く続いていく日常の一コマなのだ。構えて迎える必要はないのかもしれない。


 ――ただし、大切な日であるのは変わりない。
 何か思い出に残ることの一つや二つ行わないのでは気がすまない。使命感に燃えた華鬼は、神無が離れると同時に町へ車を飛ばし、材料を調達してキッチンに立った。
 そして、夕食時には神無の目が釘付けになるほど魅惑的なイチゴたっぷりの手作りケーキを披露する。
 用意した皿は一つ、そして、フォークも一つ。
 真っ赤になる神無に「あーん」と言いながら、誰もが目を疑うであろうほどの笑顔を浮かべて彼はフォークに乗ったケーキを差しだした。

=了=

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