【エレティアーナ不機嫌日記】

 オルターには従姉妹がひとり、名をエレティアーナという。旧家で名のとおるグラナダ家の分家の娘として生まれた彼女は、曾祖母ゆずりの美しい金髪に深い紺碧の瞳をもつ、それはそれは愛らしい少女だった。しかし、容姿が可憐でも中身がそうでないことはままある話。
「まさかオルターが結婚するとは」
「浮いた話ひとつない男だったからな……しかも相手は聖妃母――教団の秘蔵っ子か」
「グラナダ家としては歓迎すべき事実だけど」
「グラナダ家としては、な。実際には……」
「ああ、迷惑な話だ。これでは計画が台無しだ」
「……エレティアーナはようやく十歳か。これからって時に」
 憎々しげな声。
「いや、あきらめるのはまだ早い。愛人って手段もあるだろう」
「聖妃母を妻にしてか? 糾弾されるのは目に見えてるぞ」
「エレが先に身ごもればいい」
「そういう問題じゃない。それにエレティアーナはまだ十歳だ。よしんばできたとしても産ませるわけにはいかん」
「そんなことを言ってるから先を越されるんだ。だいたい兄さんはいつだって――」
 行儀悪くテーブルに腰かけた少女は、延々とつづく口論に耳を傾けながら細い足を前後に振り始めた。
 互いの顔色をうかがいながら繰り出される言葉は虚勢と嘘に満ちていたが、今日は声色だけでその表情さえ容易に想像できるほど語調が乱れている。いつもは小難しい顔で小難しい内容ばかり口にする彼らだが、こういう時だけは饒舌に、己の中に溜まった鬱憤を吐き出すのだ。
「……うるさい」
 ぽつりと少女がつぶやく。ドアの隙間から流れて来る言葉は、不快な感情だけを揺さぶり起こす。
「うるさい」
 瞳に合わせた紺碧のドレスの裾を蹴飛ばしながら、無表情に少女は繰り返す。今日、その話題の中心であるオルターが遠路はるばる来てくれるというのに、大人たちは慶事に難色すら示して角部屋にこもって醜い顔をつきあわせているのだ。
「兄さんが反対していればこんな事にはならなかったんだ」
「しかし、エレティアーナを嫁がせるのはまだ早い」
「婚約させればよかったんだよ。いいかい兄さん。グラナダ家は落ちぶれてはいるが旧家だ、その名前があれば選挙も優勢になるって言ったのは兄さんじゃないか。僕はその言葉を信じて――」
「わかってる! だが、こうなってはどうしようもないじゃないか!!」
「だったら、別れさせればいいんだ」
「……別れさせる?」
「離縁だよ、離縁」
「お前……!! 相手は教団の息のかかった娘だぞ! 不興をかえば選挙どころかグラナダ家だって無事では……!!」
 不吉なものを読み取ったのか、年配の男はひどく狼狽えた声を発する。すると大げさな溜息が聞こえた。
「わかってないなぁ、頭使えよ。何もグラナダ家を巻き込む必要はない。オルターに全部着せちまえばいいんだよ。射的隊の花形が地に伏せさせるなんていい気味だ――ゾクゾクする」
「……お前、まだオルターを」
「勘違いは困るよ、兄さん。怨恨なんかじゃない、すべては兄さんと我がドトール家のために」
 漏れ聞こえるのは忍び笑い。少女は父と叔父の密談に溜息をこぼしてテーブルからおりた。父は年の離れた弟を甘やかし、そして、甘やかされた弟は弓矢部隊に所属し射的隊を目指しながらもたいした成果もあげられず、徴兵期間を終えてからはひどい二面性をひきずったまま自由奔放に暮らしている。
 ――何もかも、少女にとってはどうでもいいことだった。
 少女は勢いよく光と声が漏れてくるドアを押し開けた。
 一瞬だけ声が途切れる。静寂を破った少女を二対の瞳が茫然と見つめ、その内のひとつが瞬きを繰り返した。
「ああ、そんなところにいたのか、わたしの可愛いエレティアーナ。ずいぶんと捜したんだよ」
 とってつけた言葉を発する男に少女――エレティアーナは冷めた瞳を向ける。
「今日はお前の大好きなオルターが来る。さあ着替えておいで」
 エレティアーナは大きな手で軽く頭を撫でてくる父を見上げてから窓辺で腕を組んで立ちつくす叔父を見た。嫌な笑いを浮かべる顔を一瞥し、くるりと踵を返して別のドアへ向かう。
「じゃあ僕も支度しようかな」
 不快な声がついてくる。エレティアーナはますます不愉快になって廊下を突き進んだ。しかし、大人と子供では足の長さが違う。すぐに少女の隣に長身の叔父が並んだ。
「聞いてたのか、エレ。そう怒るなよ」
 無視して廊下を歩いていると、ふいに肩を掴まれた。
「年上は敬わなきゃ。なあ、エレ――」
「うるさい、バルロッサ。話しかけるな」
「な……っ」
 かっと男の頬に朱が散った。
「お前、学校に行くようになってから口悪すぎるぞ! 昔は無口で可愛い人形みたいな女の子だったじゃないか!!」
「バルロッサ、エレをダシに使おうとした」
「誤解だって! 僕はお前と、お前の家のために提案してやってるんじゃないか。だいたい誰からそんな言葉教わってくるんだ」
「独学」
「嘘つくな! 叔父さんはそんな口の悪い女の子は嫌いだぞ」
 両肩を掴まれたエレティアーナは憮然とバルロッサを見上げ、トンっと細い足を前に出した。怪訝そうに彼がエレティアーナの足を見た直後、彼女はその足を思い切り振り上げた。
 何かがひしゃけたような奇妙な音が廊下に響く。エレティアーナの肩に置かれた両手にほんの少し力が加わり、すぐに離れた。
 エレティアーナはうずくまるバルロッサを見つめながら、足を大きく前後にひらき、身を低くして奇妙なかまえをとり深く息を吐き出した。
「格闘技、勉強中」
「く、女がそんなもん学習するんじゃない……!!」
 奇妙なポーズが武術のかまえであることを悟ったバルロッサは、背を丸めたまま苦悶の表情をエレティアーナに向ける。可憐な容姿に華やかなドレス、しかし取っているのは武術のかまえ――なんともずれた少女は、脂汗をかいたままうめく叔父をじろりと見てから歩き出した。
「エレ!!」
 低い声に切迫したものが混じっている。エレティアーナは足を止めた。
「お前の大好きなオルターは結婚したんだよ。相手は聖妃母だ。ガキでも意味くらいわかるだろ」
 エレティアーナは振り返る。聖妃母は、一般信者の中で最高位にある女性に与えられた名だ。いずれ教団に入って一般信者として努めを果たすことを言い渡されているエレティアーナは、その言葉の重みが嫌というほど理解できた。毎朝毎晩、当たり前のように祈りを捧げる――その神に、もっとも近い場所にいるのがオルターの妻なのだ。
 敵うはずがない。もともとが、競うまでもない。
 腕がしびれるほど分厚い聖書も、荘厳な礼拝堂も、粛々とした空気も、すべてが神のために存在する。否、人すら、神の御許に存在するのだ。
 その神に、近い場所にいる。
「……うるさい」
 エレティアーナはたった一言、そう残してふたたび歩き出した。グラナダ家は田舎にあるが、その分家であるドトール家はさらに田舎にある。広大な土地に建てられた広い屋敷はどこまで進んでも代わり映えなく余計にエレティアーナを焦燥させる。
 ふと、視線を移動させると窓の外に人影が見えた。
「兄さま」
 エレティアーナは窓に駆け寄って息を呑む。馬車から荷を下ろすオルターの姿をしばらく見つめ、それから自分の格好を確認した。オルターはお客様なのだから、客人をもてなす服装でなければならないだろう。彼は普段着でも気にしないだろうが、やはりそういうわけにはいかない。
 思い立ったエレティアーナは廊下を勢いよく駆け出し、そして廊下の角で何か柔らかいものにぶつかって大きくのけぞった。
「危ない」
 ふっと、甘い香りが全身を包む。目の前には色白で優しげな顔をした女が一人、軽々とエレティアーナを支えて立っていた。
「あ……?」
「突然ごめんなさい。広いお屋敷で迷ってしまったの」
 鮮やかな深紅のドレスには黒いレースがふんだんに使われていた。それが町で流行している最新のドレスとも気づかず、エレティアーナは大きな瞳をさらに見開いて女のまとう衣装を凝視した。
「……なにか?」
 不思議そうに問われてはっとした。そして、改めてぶつかった女の顔を見て首を傾げた。年はさほど離れていないとわかるのだが、そのわりに――そのわりに、異様なほど、胸がでかい。思わず凝視して、エレティアーナはそれを指さしながら彼女の顔を見た。
「何が入ってるんだ?」
 ひくり、と目の前の顔が引きつった。しかしそれはエレティアーナの純粋な疑問でもある。ウエストを締めて胸を強調させるコルセットは世に多く出回っているが、これほどまでに胸が突き出ることはない。屋敷中の侍女、出入り業者の女たちを思い浮かべてもこんな体型の者はいない。何か入っているのだろうと思うのは別段おかしなことではなかった。
 だが、こうして率直に問いかけるのはごく稀なわけで。
「胸です、おチビさん」
 にっこりと微笑んで、目の前の女はそうのたまった。
「お、おチビ……!?」
「さっきは本当にごめんなさい、小さすぎで見えなかったの。ところでおチビさん、玄関まで行きたいのだけれど」
「だ、だれがおチビだ!?」
「あら、あなたよ」
 おほほほ、と目の前の女が刺々しくも可憐に笑う。そして、ちらと視線を窓の外に走らせて小さく声をあげた。
「まあ、近くなのね。これなら自力で行けそうだわ。それじゃあごきげんよう、おチビさん」
 返事も待たずに女は踵を返して歩き出した。あまりの暴言に自失していたエレティアーナは、女の姿が消えてからようやく肩をぶるぶると震わせた。

「だれがチビだ、年増クソババアァアァーーーー!!」

 女の正体を知った瞬間、彼女の戦いが始まることになる。




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