【フロイラ戦略記】

 グラナダ公には妻がひとり、名をフロイラという。エネマールの華と謳われた彼女は、楚々とした容姿と物静かな雰囲気で瞬く間に噂となり、若かりしころは近隣諸国のあらゆる偉人変人から求婚された過去を持つ。
 今から二十年前――運命のその日、彼女はいつものように真っ白な日傘をさし、ぞろぞろと花婿候補をつれて、高潔な貴婦人よろしく田舎の小道を散策していた。
 ――つまらない。
 彼女は胸中でそうこぼした。空はのびやかに晴れ小鳥は自由にさえずっているのに、彼女はまるで鳥かごの中の鳥のように不自由なまま、こうして多くの監視の目に囲まれて動かなければならないのだ。
 社交界に出るまでは毎日泥だらけになるまで遊び倒していた彼女は、この処遇に不満でならない。だが、グラナダ家の財政や領民のことを考えれば昔のように我が儘を言って気楽に遊んでばかりいられず、彼女は父の希望どおり、爵位を持ち、豊かな財力のある次男坊探しに奮起せねばならなかった。
 政略結婚も珍しくないご時世に、条件つきとはいえ好きな相手といっしょになってもいいと言う父は、ある意味で傑物なのかもしれない。その度量をフロイラも認め、彼に従うのになんら異論はなかった。
 だが、こうして着慣れないドレスをまとってただ微笑むだけというのは性分にあわない。すぐに全身がむずむずしてくるのだ。
 最近、思い切り体を動かすこともできずにいた彼女は、はるか遠く、子供の笑い声を聞いた瞬間、どうにも我慢できなくなって伏せがちにしていた顔をあげた。
 すると、同伴していた父と目が合い無言で牽制された。動くな、大人しくしていろという意がありありと伝わってきて、フロイラは項垂れる。
 不意に隣にいた男がフロイラの顔を覗き込んできた。
「ご気分が優れないのですか?」
 ナントカ伯爵の何番目の息子だかわからない男は、まるで自分が倒れそうな声音で問いかけてきた。
「それはいけない。さきほど見事な大樹がありました、その木陰で」
「馬鹿な、わざわざ戻る気か?」
「しかし、重い病の兆しかもしれぬ。大事になる前に休ませるのが懸命だろう。母の兄の従兄弟の父は舞踏会で気分がすぐれぬと言って客室に戻り、そして帰らぬ人になったと」
「い、いま馬車を!」
「いや、医者を……!!」
 ざわめきはじめた直後、話はあらぬ方向へと転がりだす。これに慌てたのはフロイラである。父はこれ幸いと男たちの反応を眺め、間違いを正そうともしてくれないのだ。
「大丈夫です。ほら、この通り」
 病気でもないのに医者を呼ばれるなどご免だ。ああいう人種はとかく大げさで、病気でもない人間を「いまは安静に」というお決まりの一言でベッドに縛り付けてしまう。そして連日、見舞いの品を持って男たちが訪れる――それでなくとも不自由な生活なのに、これ以上不自由になってたまるかという心境で、フロイラはごっそりと固まる一群からするりと抜け出し、数歩先でくるりと身を翻した。
「ね? 病気ではありませんわ」
 微笑んでみせると男たちは安堵する。これで一件落着とフロイラが胸を撫で下ろした、その直後。
 みしりと、足元で不快な音が聞こえた。一瞬視界が大きく揺れて体が軽くなり、あっと声をあげた瞬間、彼女の体はそのまま一気に下降した。
 こもったような水音と立ち込める悪臭、水にしては妙な暖かさのある粘着質な物体は、フロイラの胸元まで押し寄せてきた。
 吐き気がした。
 とっさに首をひねって上を見ると頭上には大きな穴が開き、男たちが中をのぞきこんで血相を変える姿が見えた。
「なに……」
 ああ、お気に入りの日傘は――そう思って絡みつく粘着質な液体の中から両手を持ち上げた彼女は、自分の喉から悲鳴が漏れるのを聞いた。周りを見渡し、土壁を確認し、次々と鼻を押さえて引っ込んで行く男たちを見て悲鳴が途切れる。息を吸うとそれだけでむせ、悪臭が目にしみて涙まで出てきた。
「助けて!」
 フロイラは咳き込みながら恥も外聞もなく手を伸ばしたが、それをつかもうと身を乗り出してくれる男は誰一人いない。父親までもが、すぐに従者をよこすから待っていなさいと服の裾からくぐもった声で言うばかりだった。
 一秒でも早く「ここ」から出たい。出なければ死んでしまうと、フロイラは混乱したまま思い、震える手を土壁に伸ばした。
「滑るから、しっかり握って」
 土壁に触れる寸前、汚物で汚れたフロイラの指はあたたかい手に包まれた。驚く間もなく手に力が加わり、体が引き上げられる。上空から苦しげな声が聞こえフロイラの体が途中で止まると、また汚物の中に落ちるのではないかという不安が胸をよぎったが、その不安は再度加わった力でかき消された。
 重い体が前のめりになると、軽く抱きとめられる。
 誰、と声もなく問いかけながら視線を上げると、よく陽に焼けた肌の農夫らしい男がまっすぐに父を見つめて口を開いた。
「すぐ近くにオレの家がありますから、ご婦人はそこに運びます」
 飾ることもない端的な言葉。
 彼は言葉通り、山のように飼葉を積んだ荷馬車にフロイラを乗せ、馬を走らせた。


 それからフロイラの嘆きようは筆舌に尽くしがたく、彼女は一日中、異臭を放つ部屋にこもって泣いていた。まず一番に、自分が臭いの原因であることが彼女をこの上ないほど落ち込ませた。三日たっても肌から汚物の臭いが取れないのだ。やってきた花婿候補たちは終始眉を寄せて鼻を布で押さえ、その足は自然と遠のき、四日目には誰も来なくなった。
「あまり塞がないほうがいい。臭いは十日もすれば綺麗に消えるから」
 農夫は安物の欠けた花瓶に花を生けながらそう告げた。風を通すために窓を開けようとするのを止めると、彼は首を傾げる。
「だって、臭うでしょ?」
「ああ、田舎のにおいだ」
 彼はそう返し、白い歯を見せる。
「あそこは数年に一回くらい、人が落ちるんだ。今年は雨が多かったから板の腐食が早かったのかもしれない」
 本当に些細な事件だったとでもいうように、彼はそんな言葉を口にする。働き者の彼は早朝は森で木の実を摘み、日中は畑を耕し、夜は内職にいそしむ。そして忙しいその間をぬってフロイラの世話のために家に帰り、気晴らしをさせようとでもいうのか、さまざまな話を聞かせてくれた。
 できた人だ、と思うのにさほど時間はかからなかった。汚物にまみれた見ず知らずの娘を助け、泣きじゃくるのをなだめながら体を清めて静養の場を提供してくれたその経緯だけでもそれは充分に理解できたが――それ以上に、細微にいたるまでの心遣いが純粋に嬉しくて、救われる思いだった。
 ある日、窓を見つめ華やかな社交界の場を思い出しながら彼女はこうつぶやいた。
「もう誰もわたしのところには来てくれないわ」
 醜態をさらしてしまったのだ。貴婦人として振る舞わねばならないときに、誰もが目を背けるような致命的な失敗をしてしまったのだ。あれから誰も来ないということは、もう見切りをつけられてしまったということに違いない。
 窮地の際、助けることもせずにオロオロとするばかりだった男たちに言い寄られても今さら心など動こうはずもなかったが、傷つかないと言えば嘘になる。
「わたし、見放されてしまったの」
 フロイラの言葉を聞いて、彼は木製のスープ皿を器用に削りながら笑った。
「じゃあ、オレのところに来るか」
「え……ええ、参ります」
 きっかけはそんな些細な一言だった。綺麗に着飾っていては見えない世界がある。背が高いわけでも、見目がいいわけでも、財力があるわけでもない田舎の農夫――けれどフロイラにとって、冗談を言って笑みを浮かべるその男こそが、理想の伴侶であった。
 それから猛反対する父と絶縁覚悟で怒鳴りあいの喧嘩をし、最後には「肥溜めに落ちた娘を助けようともしなかったくせに」と恨み言まで持ち出して、彼女は見事に父の口を塞いだ。
 あれから二十年、フロイラの目が確かだったことは立証された。少しずつではあるがグラナダ家の財政は持ち直し、領主が平民の出であるためか領民の支持も厚く、すべてがうまく動いている。
 ただ一点、ある誤解をのぞいては。
「困ったわ、体がなまって仕方ない」
 フロイラは部屋着のまま、装飾品である細長い木の彫刻を握ってぶんぶん振り回しながらつぶやいた。腹筋も腕立て伏せもし飽きてしまった彼女は、次に何をして体を動かそうか模索する。深夜に外を走り回るのもいいが、「病弱な奥様」が定着してしまったお陰で下手なことができないのだ。
「はじめに誤解を解いておくべきだったんだけど」
 木彫りの彫刻を元の場所に戻し、肩を回しながらフロイラは溜め息をついた。
「……ほだされちゃったのよね。あの人ったら、わたしをか弱いお嬢様だと思って丁寧に扱うものだから」
 それが無性に嬉しくて、ついうっかり「体の弱い娘」を演じてしまったのだ。お陰で父に懇願して、結婚するまでに相応の金を渡し、城の召使いを全員入替えるという荒業あらわざまでやってのけた。
 フロイラはベッドに戻り、今度、少し我が儘を言って外に連れ出してもらおうとひそかに計画を立てる。愛する夫は、昔から周りが目のやり場に困るほどフロイラを甘やかすのだが、それは今でも健在で、彼女の楽しみの一つにもなっている。
「そうね、次は少し遠いところがいいわ。外泊しましょう」
 急に機嫌を直してほくそ笑むと、軽いノックの音が室内に響いた。入室の許可をすると、入ってきたのは息子≠フオルターとその妻、ガーネットである。グラナダ家のためにも立派な嫡子を、とそう望んでいたフロイラが生んだのは、周りが感心するほど元気な女の子――しかし、体が弱いという演技を続けてきたためか、「娘」はいつの間にか「息子」と偽ってフロイラに伝えられた。
 いくらなんでも成長すれば男女の違いが如実に出てくるだろう、そのときにはこのささやかな嘘を笑って許そうと心に誓ったフロイラは、何の奇跡か偶然か、誰もが褒め称える立派な青年≠ノ成長してしまったわが子に動揺を禁じえない。
 まさか本当に本当は男だったのか、いやでも確かにこの目で女であることは確認済み――フロイラは、いまだにオルターの性別に混乱するときがある。
 しかし、さすがに問いただすのもはばかられる。
 オルターが男として生きる道を選んだなら、親としてそれを見守るのも選択の一つだ。そして愛らしい娘を妻として娶ったのも――これも、祝福してやるべきなのだろう。
 いろいろな不具合は、全力で打ち消してやるのが親の務めに違いない。彼女の父も、彼女の結婚の際には召使いを全員解雇させたのだから、最低限、それだけの覚悟は必要なのだ。たとえ相手が「国」であろうとも、可愛いわが子が選んだ道に口出しさせるわけにはいかない。
 誰もが驚倒する決意を胸に刻み、フロイラは入室してきた二人に微笑んだ。
「まあ、わざわざ来てくれたの?」
 ゆったりと、言葉をかける。
「ええ。お加減はいかがですか、母上」
 好青年を絵に描いたようにオルターが尋ねる。今日は調子がいいのよ、と答え、フロイラは体を起こした。
「横になっていてください」
 慌てるオルターに苦笑する。こうして気遣われることに慣れてしまった体だが、やはり気が引けるのだ。大丈夫と返したフロイラの肩には柔らかなストールがかけられた。
「ガーネット」
 オルターが少し離れた位置で控えていた娘を呼ぶと、彼女は優雅に近づいて、しゃなりと膝を折って一礼した。洗礼された動きは、一流の貴婦人然として様になっている。
「美しく咲き誇っておりましたので、お花をお届けに参りました」
 ガーネットは可愛らしい声でそう告げて鮮やかな花束をフロイラに差し出した。
「お気に召していただけると嬉しいですわ」
 花を持つ娘も、花に劣らぬほど美しい笑みを浮かべている。小柄だが魅力的な娘を見て、オルターは意外に面食いだったんだなと妙なところで感心し、フロイラはガーネットから花束を受け取った。
「ありがとう、いい香りね」
 笑みをこぼしてささやくと、オルターはすぐに「花瓶を用意します」と言って退室した。
「お義母かあさま」
 淡くまとめられた花束をうっとりと見つめていると、いつの間にか近づいてきたガーネットにそう声をかけられる。
 顔を上げたほど近く、興味深げな視線とぶつかった。
「汗をかいてらっしゃいますわ」
 なぜだかぎょっとして、フロイラは汗のにじんでいた首筋を反射的に押さえた。
「――よく引き締まった腕」
 ふっと笑みを浮かべてガーネットがフロイラの腕に触れる。指差に加えられた力は、明らかに何かを推し量るように緩められた。
 まずい、と思った刹那、ガーネットはあっさりと身を引き、ほぼ同時にドアが開いて花瓶を手にしたオルターが戻ってきた。
「母上、これでいいですか? ……なにか?」
 室内を満たした奇妙な空気にオルターが目を瞬く。
「少しお部屋が暑いみたい」
 コロコロ笑って、ガーネットは窓を開けるために動き出した。その後ろ姿を呆然と見送ったあと、フロイラは自分が緊張していたことに気づく。
 二十年間、誰一人気づかなかった大きな嘘を一瞬で見破った娘。
「……頼もしいわ」
 フロイラはもう一度ほくそ笑む。
 敵か、味方か。
 すべては神のみぞ、知る。

A conclusion will be later.
 ※結論は、後ほど。


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